エピペンを使うぞ!

緊迫の救急現場

平成21年3月から救急救命士が行える処置に自己注射薬(エピペン)を使用した薬剤の投与が認められるようになりました。これは救急救命士が心肺停止に陥っていない傷病者に認められたはじめての処置です。

エピペンとはハチ毒、食べ物、薬物などのアレルギーでアナフィラキシーになった症状の重い傷病者に対して用いる自己治療薬です。

以前はハチ毒でアナフィラキシーショックに陥ったことのある林業関係者など、限られた人にのみ使用することができた薬剤です。

アナフィラキシーはアレルギーを起因として呼吸困難など生命の危険をもたらす症状です。時にショック状態となり、喉頭浮腫を起こし窒息に至るなど、生命に関わることもあるのです。毎年、スズメバチに刺され亡くなった方のニュースを耳にすると思います。

エピペンはこの症状を抑える事のできる薬です。迅速に使うことで生命に危険な状態を回避できる重要な処置となります。エピペンを使う時、それは超がつく緊急事態の時です。


出場指令

「救急隊出場、○町…、A方、女児は呼吸苦、通報は母親から」

隊長「女児の呼吸苦か…」
機関員「喘息でも持っているのかな?」
隊長「ああ、この時間ならかかりつけのクリニックなんかも選択肢だな」
隊員「了解、情報取っておきます」

お昼を過ぎた頃、暖かい日差しが降り注ぐ中、救急車は消防署を飛び出したのでした。


出場途上

指令先のAさん方は隣の消防署の受け持ち区域、直線距離で6キロメートル程度の距離です。到着まで119番通報の電話番号に情報収集を行います。

(119コールバック)

隊員「もしもし、Aさんのお宅でしょうか?救急隊です、ご通報いただいたお母さんでしょうか?」
母親「はい、4歳の娘なのですが…今もとても苦しそうで…お願いします」
隊員「分かりました、娘さんなのですがどうされたのでしょうか?何かご病気はあるのですか?」
母親「ええ、実は牛乳のアレルギーがありまして、先ほど昼食の際に誤って飲んでしまったんです、大丈夫かと思ったのですが、1時間位経ってから全身が真っ赤になって…今は息が苦しいみたいで…」

これは…、アナフィラキシーじゃないのか?緊急度が高いぞ、隊員は助手席で拡声している隊長に合図を送りました。私達の隊では隊員が出場途上に救急車の後部座席で情報収集を行い、応援要請が必要だと判断したらすぐに隊長に合図を送ります。早期に必要な隊を集めることが傷病者にとっての利益となるからです。隊長が分かったと手を上げ無線機を操作します。

隊長「○救急隊長、ポンプ隊応援要請、途上の情報収集にて…」

現場にポンプ隊の応援要請を行いました。

隊員「Aさん、娘さんなのですがどちらの病院にかかりつけですか?牛乳アレルギーと言われているのはどちらですか?」
母親「○病院です」
隊員「アナフィラキシーになったことはありませんか?エピペンというお薬は処方されていませんか?」
母親「実は以前にアナフィラキシーを起こしたことがあって、その時からエピペンを処方されています」
隊員「今も手元にありますか?」
母親「はい…ただ、使い方が分からなくて…、それに使って良いかどうかも分からなくて…」
隊員「分かりました、今も急いでそちらに向かっています、先に消防隊がそちらに到着すると思います、消防隊の指示に従ってください」
母親「分かりました」

情報収集した内容を隊長、機関員に報告します。

隊長「分かった、資器材はCPR(心肺停止状態)まで考えて用意しろ、小児用のバックマスクも忘れるなよ」
隊員「了解です」
隊長「エピペンのプロトコールを確認しておけ、消防隊にも情報を入れろ、酸素投与を考慮しろって、それから本部にもだ、4歳の女の子、分かるな?」
隊員「はい、了解!」

早期に応援要請を行ったため先着するのは消防隊です。直近の救急隊は出場中であったため、管轄外である私たちの救急隊が要請されたのでした。

消防隊は救急隊に比べ、限られた処置しか行うことができませんが酸素投与などの処置が行えます。更に、最悪の事態の場合…数分後に傷病者が心肺停止状態となった場合、消防隊が先着することで適切な心肺蘇生法を行うことが可能です。

隊長は最悪の状況に陥った時の対応資器材の携行、消防隊への情報提供、本部への状況報告など到着までにできることを次々に指示しました。傷病者は4歳の女の子…もちろん分かっています。救急隊はもちろんのこと、消防隊も、本部も、組織を上げて全力を懸けろ、できることの全部を尽くせ、すべては救命のために。


現場到着

Aさんのお宅の前に停車しました。先着したポンプ隊が活動していました。

隊長「救急隊到着しました」
ポンプ隊長「4歳の女児、起坐呼吸!レベル1、恐らくアナフィラキシー!」
隊長「了解!酸素から!急げ!」
隊員「了解!」

先着のポンプ隊長は救急資格を有する方です。実に簡潔明瞭に状況を伝えてくれました。高濃度酸素投与を早々に開始し詳細な観察に入りました。

隊員「こんにちは、分かるかな?息が苦しいの?」
女の子「はぁ…はぁ…、うん、はぁ…はぁ…」

救急隊長が通報者の母親から状況を聴取します。

隊長「お母さん、娘さんの状況を教えて下さい、牛乳を飲んだのは何時頃でしょうか?」
母親「えっと…、昼食の際に誤って飲んでしまって…それから…」
隊長「エピペンは?使いましたか?」
母親「いいえ、使って良いものか分からなくて…それに使い方も自信がなくて…」
隊長「分かりました、お母さんは使うことはできないですか?」
母親「すみません…、訓練は一度したのですけど…」
隊長「分かりました、必要なら私達で使いますよ、お連れする病院も私達にまかせて頂いてよろしいでしょうか?」
母親「はい、もちろんです、お願いします」

傷病者は4歳の女の子、意識レベルは1、受け答えは正確にできるが少しぼーっとしていました。全身に発赤があり、脈拍は頻脈ですが、この年齢であればそこまで高い数値ではありません。SPO2値は既に高濃度酸素を投与しているのに80%代でした。聴診器を胸に当てると胸の広い範囲で乾性ラ音がしていました。

そして何より、呼吸は浅くとても早い、喉の奥まで浮腫が起こっているのでしょうか?かなり苦しそうに座った状態で早く浅い呼吸をしていました。

浮腫が進み気道が完全に閉塞したら一気に呼吸停止、窒息してしまいます。喉頭浮腫が完成したら人工呼吸で肺に酸素を送ることだってできなくなってしまうでしょう。重症度大、超・緊急事態です。

隊員「隊長、バイタルです、レベルは1、呼吸は…」

隊員が詳細な測定バイタルを報告します。

隊長「分かった!アナフィラキシーと判断するぞ!お母さんとのやり取りは聞いていたな?MC医に連絡を入れる、エピペンを使うぞ!機関員は医療機関に連絡、3次選定だ!」
隊員「はい!」
機関員「了解!」

エピペンはアレルギーを持つ患者に医師が事前に処方する自己注射薬です。使用できるのは当然、処方されている本人のみ、そして処置を実施できる者には優先順位があり、1.傷病者本人、2.家族、3.教職員、そして4に救急救命士です。

今回の場合、傷病者は4歳の女の子、自身での使用はできません。次に母親なのですが、自信がない使えないと訴えました。今、ここで使用できるのは救急救命士だけです。

隊員「お母さん、エピペンをこちらに、それから娘さんスカートをめくりますよ、太ももを消毒します」
母親「はい、これです」
隊員「機関員、一緒に確認を、氏名、それから使用期限…」
機関員「ああ、確認した、間違いない」

母親からエピペンを受け取りこのエピペンが傷病者に処方されたものであるものであるか、使用期限は切れていないかを隊員と機関員と2名で確認しました。そしてこれからエピペンを打つ傷病者の大腿部外側の消毒など準備を進めます。

隊長「先生、○救急隊です、エピペンの使用についてです…」

救急救命士のエピペン使用はメディカルコントロールのもとで行われます。電話や無線を活用しMC医に連絡、状況を伝えてエピペンを使用すべきか否か、医師の判断を仰ぎます。これをオンラインメディカルコントロールと言います。

簡単に言えば、救急救命士が現場にいない医師の手足となり目となり耳となり状況を伝え必要な処置の判断を仰ぐことを言います。医師がエピペンを使うべきだとゴーサインを出さない限り救急救命士がエピペンを使用することはできないのです。

隊長「…と言う状況です、エピペンを使用したいのですが」
MC医「呼吸は嗄声?」
隊長「ええ、起坐呼吸、喉頭浮腫で間違いないと思います、緊急度が高いと判断しました、もう準備しています、今すぐに使えます」
MC医「分かりました、エピペンを使用してください」
隊長「了解しました、エピペンを使います、医師からの了解を得たぞ、いけっ!」
隊員「はい!…ちょっとチクってするよ」

隊員は女の子の右大腿部にエピペンを打ちました。

機関員「○時○分、エピペン使用…と」
隊員「どうかな?チクっとした?」

深く頷く女の子、エピペンを離すと大腿部の針創から血が滲みました。

隊長「よし!間違いなく使用したな、搬送するぞ」


現場出発

女の子を車内収容、メインストレッチャー上に座らせました。受け入れ先はすぐに決まりました。

機関員「隊長、搬送先は○病院救命センター」
隊長「了解!いいぞ、現発!」

車内収容とほぼ同時に現場出発、この活動、実によく流れていました。緊急度大の女の子、必要な処置さえすぐにできれば絶対に救命できる傷病者です。後は病院に急ぐだけ。

隊長「どうかな?まだ苦しい?」
女の子「ううん、平気」

首を振る女の子、先程までの苦しそうな呼吸は完全に落ち着いていました。

隊員「大きく深呼吸してみよう、吸って~…はいて~…、隊長…すごい、呼吸音は正常、ラ音なんてまったくないですよ、SPO2も100%」
隊長「すごいな、すごく良く効いてる、少し酸素濃度を落とそうか」

エピペンを使ってからたった数分で女の子の呼吸苦は完全に改善、全身の発赤も消失し呼吸音も嘘のように綺麗になりました。


医療機関到着

4歳の女の子がアナフィラキシーショックで搬送されてくる。救命センターの医師、そして連絡を受けた小児科の医師も駆けつけ救急隊の到着を待っていました。

医師「どう?まだ症状は続いている?」
隊長「いえ、エピペンがよく効いたみたいです、症状は消失、今は呼吸苦の訴えもありません」
医師「どう?苦しいのはなくなったかな?」
女の子「うん」

救命センターに運び込んだ際、女の子のバイタルサインはまったく問題なしの正常値、本当についさっきまでそんなにも重症度の高い状態だったのか?本当にショックだったの?疑われてしまうのではないかと心配になるくらい症状は劇的に改善したのでした。

医師「呼吸音もまったく問題ない、あ~んしてみようか…、うん、喉頭浮腫もないね」
隊長「○時○分にエピペンを使用しました、その直後から症状は劇的に回復しました、こちらに到着するころにはまるで嘘みたいに」
医師「ええ、でもね、油断は禁物なんですよ、再びショック状態になることがあるんです、この状態なら多分大丈夫ですが今日はICUかな…、集中管理できるベッドで様子をみますよ、エピペンの使用は良い判断でしたね」

「アナフィラキシー 中等症」


帰署途上

隊長「すごいな、あんなにもよく効くとは思わなかった」
隊員「ええ、本当に使った直後から劇的に良くなるんですね」
隊長「まさに特効薬だな、こんなに効き目があるなら使わない手はないよな」
隊員「そうですね、でも、あんなにも効果がある処置ができるなら、改めて直近隊が駆けつけないといけないですね」
隊長「そうだな…本当は○救急隊が行かなくちゃいけない事案だ、今日はたまたま間に合っただけだな、オレたちが駆けつけた事自体が間違っているんだ」
隊員「ほとんどの不適切な現場の中にこんな現場が混じってますね…、救急隊は自分の町を守るって当たり前がもはや失われているからなぁ…」
機関員「なぁ、今のみたいのが仮に20分も30分もかかるような現場だったらどう思う?」
隊員「どうでしょう…、ポンプ隊の目の前で呼吸停止とかあり得ますね…」
機関員「ああ、おまけに喉頭浮腫が完成していたら人工呼吸だってできないだろ、恐ろしいよな?」
隊長「死に向かって直滑降だ…4歳の女の子が…突き刺さるね…」
機関員「今のままじゃいつかそんなことが起こるぜ、こんな現場は必ずあるんだ、それは分かっているのに直近隊がいないことがもはや当たり前だぜ、でかいことが起こって、それではじめて重い腰を上げなきゃならなくなる…いつもそうじゃないか…」
隊長「犠牲待ち…か」

救急車の不適切な利用は救急救命士のため息現場でも数々紹介させて頂いています。救急車の適正利用がなぜ必要なのか、今回の事案のように「救急車でなければ助けることができない傷病者」が必ず存在するからなのです。

今回の事案では直近隊でない私達が駆けつけ、エピペンを使用することで救命することができました。しかし、もっと遠くの隊が駆けつけることになっていたらあるいは…分からなかったと思います。

今も全国各地の町で、救急車の適正利用を訴え、様々な対策が講じられています。しかし、その対策を上回る救急要請が繰り返され、救急車の出場件数は年々増えてしまっているのが現実です。

今のこの状況を劇的に改善できる特効薬はまだないのです。いつか一番近くに待機している救急車がいつも駆けつける、そんな当たり前を取り戻す劇的な制度改革が行われるのでしょうか?…そのきっかけが誰かの犠牲でないことを切に願うばかりです。

困った転院搬送
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