過呼吸の訳は…

仰天の現場

消防学校時代、教官に「災害現場にひとつとして同じなんてことはないんだ!」そんな風に教えられたのはもう何年前のことでしょうか?

救急隊員になるための研修生時代にもやっぱり教官に同じ現場なんて存在しない、そんな風に指導されたものです。

現場に出場するようになって何年の月日が経ったでしょうか?確かに同じ現場なんてひとつとしてありません。

しかし、似た現場なら数えきれないほどあるものです。様々な現場の経験が蓄積されて、あの時のあの現場の経験がこの現場に生かせるはずだ、その繰り返しが自信にも繋がっていくのです。

けっしてルーチンワークになってしまってはいけませんが、高齢者が転倒したと聞けば大腿骨を折っていないかな?子どものけいれんと聞けば熱性けいれんかな?…かなりの頻度を占める現場では、活動は黙っていても上手く進んでいくのです。

若い女性が呼吸困難、こう聞けば過呼吸状態、過換気症候群、そんなことを頭に描かず出場する救急隊なんてきっといないと思います。

ルーチンワークになってはいけない、災害現場にひとつとして同じなんてない、現場には必ず例外があるのだから…。




出場指令

この日2件目の出場でした。まだ午前中、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急隊出場、○町○丁目…○駅、駅事務室に急病人、女性は呼吸苦、通報は駅助役」

との指令に救急隊は消防署を飛び出しました。



出場途上

指令先の○駅は隣の消防署の受け持ち区域、それでも到着まで10分はかからない地域でした。緊急走行する救急車の後部座席から救急隊員が119番通報された電話番号に電話をかけました。

(119コールバック)

隊員「もしもし、救急隊です、具合いの悪い方の様子を教えてください」
助役「はい、お願いします、女子高生なのですが、駅の事務室を訪ねてきたのですが、かなり苦しそうにはぁはぁと息をして事務室の床に座り込んでいます」
隊員「そうですか、話のできる状態ではありませんか?」
助役「ええ、かなり苦しそうで話はできませんねぇ…、たぶん過呼吸だと思いますよ」
隊員「そうですか、分かりました、間もなく到着できます」
助役「 他の駅員を案内に出していますからよろしくお願いします」

得られた状況を前の座席にいる隊長と機関員に伝えます。

隊長「過呼吸だと思うって?」
隊員「ええ、助役がそう言っていました」
隊長「この駅だといくつかの高校があるからな…駅員さんも経験ありってところか?」
機関員「きっとそうじゃないですか?俺だってありますよ、この駅で○高校の生徒が過換気なんて」
隊員「あぁ、ありましたね、彼氏と喧嘩してってあれでしょ?」
機関員「そうそう、それそれ!」
隊長「まあ先入観は持たないようにな」
隊員・機関員「了解です」

…とは言うものの、かなりの確率で女子高生の過換気症候群です。過換気症候群とは不安などをきっかけにし、頻呼吸となり手足や唇のしびれ、時に呼吸が速くなりすぎ、話もできない状態になることもあります。

精神科疾患を起因とする方もいれば、日常の不安、恋人と喧嘩したなどきっかけは人によって様々です。若い女性に非常に多く、若い女性が呼吸困難と聞けば過換気症候群を真っ先に疑ってしまうほど、救急隊としての出場頻度は高い症例です。

救急隊からしてみれば慣れっこな現場、そんな思いを打ち砕いたのは無線の呼び出し音でした。

隊長「○救急隊です、どうぞ!」
本部「再度○駅から119番通報が入りました、詳細は不明ですが、もう1名急病人又はけが人がいる模様、今、○救急隊と○ポンプ隊を指令しました。本現場は3隊で当たってください、なお、2報は駅員の○さん、かなり慌てた通報で詳細は分かりませんが血だらけの人がいるとの内容です」
隊長「血だらけの人?もう1名?他には何も分かりませんか?」
本部「かなり慌てた通報でまったく分からないです、詳細が分かったら報告願います」
隊長「了解しました」

機関員「もう1名?過呼吸の女の子とは別件ってことですかね?」
隊長「さあ?まったく分からないな…」
隊員「もう一度電話をかけてみますか?」
機関員「…いや、だめだな、あと1分で着くぞ」
隊長「怪我か急病かも分からない、外傷の資器材も携行!」
隊員「了解です」

現場には呼吸苦を訴える女子高生がいる、そしてもう一人、血だらけの人がいるらしい、駅員が慌てて通報してきて情報が分からないとなるとかなり緊迫していると考えられる…。何だ?何がある?今までの経験で生かせるものは?現場が見えない…。


現場到着

○駅前ロータリーには駅員が案内に出ていました。この駅を最寄りとする学校が複数あり、周辺は住宅街、この時間の利用客はあまりいませんでした。

隊長「救急隊です、案内をお願いします」
駅員「どうもお願いします、こちらです」
隊長「患者さんの様子は分かりますか?」
駅員「ええ、多分…あの制服は○高校の女子生徒です、たぶん過呼吸ですよ」

彼には慌てている様子はまったくありません。

隊長「もう一人、具合いの悪い方がいると別の救急車が向かっているのですが」
駅員「もう1名?もう1名ですか?」
隊長「ええ、そう聞いています、あとから救急車と消防車がもう1台ずつ駆けつけます」
駅員「いや…私は何も聞いてないので…確認します」

そう言うと駅員は無線機の操作を始めました。

駅員「…救急車が到着しました、これから、事務室に案内します」
無線機「早く!#×:*障害*トイ#×血だ*##倒れ*#~~!!!」

何やら怒号のような声が無線機から流れています。

駅員「え?どこですか?聞き取れません?事務室に案内じゃないのですか?」
無線機「早#*障がい者用**#はや*#~~!」

これは…ただ事じゃない…。状況が全く見えない中、駅員の案内で駅の改札まで行くと別の駅員が血相を変えて走ってきました。

駅員「こっちです!こっちです!早く!!」
隊長「どうされたのですか?」
駅員「こっちに!障害者用トイレに血だらけの人が倒れているんです!」
隊長「その方は息をしていますか?」
駅員「分かりません、ただまったく反応はありません、とにかく早く、こっちです!」


傷病者接触

駅員が案内したのは改札を入ってすぐの障害者用トイレでした。この駅は改築したばかりで4畳ほどある広い障害者用トイレが完備されていました。そこに血だらけの女性がうつ伏せに倒れていたのでした。

助役「お願いします!よく分からないですが…女性が…」

広い障害者トイレは凄惨な状況でした。壁一面に血吹雪が飛び散っており、床にも多量の血液が流れ排水溝で固まっている状態でした。駅に備え付けのAEDを持ち助役は立ちすくんでいました。

隊長「観察実施!まず仰臥位に体位変換!」
隊員・機関員「了解!」

傷病者の女性をうつ伏せから仰臥位(仰向け)に体位変換します。ビチャ…、床から離れた傷病者の身体からは固まりかけた血液が引き剥がされる鈍い音と感触がありました。

隊長「血液に注意しろ!呼吸、脈拍の評価…」
隊員「はい…」

隊長と隊員が呼吸と脈拍の有無の評価をします。機関員はAEDの準備を進めていました。

隊員「呼吸なし」
隊長「脈なし!CPR(心肺蘇生法)!」
機関員「AEDバッド張ります!」
隊員(なんだ?なんだ?どうしてCPA(心肺停止状態)なんだ?どうして血だらけなんだ?)

直ちに心肺蘇生法を開始しました。仰向けにした傷病者の首には大きな切創があり多量の血液はここから流れ出たもののようでした。

隊長「駅員さん、状況は?」
助役「いや…それが…まったく分からないのです…」
隊長「そうだ!過呼吸の女性は?」
隊員(そうだった…過換気の女性がいるって駆けつけたのだった…もうひとりいる…)
助役「いや…その子は今も事務室で休んでいます、少し落ち着いてきて話ができてきたので聞いてみるとトイレに血だらけの人がいるっていうから…来てみたら…」
隊長「その子は大丈夫ですか?今はしっかりお話ができる?」
助役「ええ、まあ、まだ息苦しそうですが話はできるくらいに良くなっています」
機関員「隊長、みてきますか?」
隊長「…」

判断に迷っている隊長、この現場にはもう1名の傷病者がいます。しかし、目の前には心肺停止状態の傷病者がいる。この人への心肺蘇生法をやめる訳にはいきません。動けるとしたら機関員だけ、でも、機関員をもうひとりの下へ走らせればこちらの現場は一向に前に進みません。

ウゥ~ウウゥ~…。サイレンの音が止まった。

隊長「ポンプが来た!もう一人はポンプ隊に行ってもらう!オレたちはこの現場を扱うぞ!」
隊員・機関員「はい!」
隊長「駅員さん、消防隊が来ました、誰か案内を!」
助役「他の駅員がいっています!」
隊長「機関員は無線でポンプ隊に連絡、まずここに来いって!」
機関員「了解!」

傷病者は60歳くらいの女性、流れ出た血液が床と接していた身体の前面に張り付いて固まりかけていました。首には3センチ大ほどの切創、創は深い…。床には刃渡り20センチくらいのナイフが落ちていました。

隊長「事務室を訪ねてきたもう一人の患者さん…その女子高生がここに血だらけの人がいるって言ったのですか?」
助役「ええ、それで駆けつけてみたらこのような状況で」
隊長「それでは駅員さんも状況はさっぱり分からない?」
助役「ええ、まったく分かりません」
機関員「隊長、あれ!」
隊長「ん?」

機関員が指さしたのは血吹雪が飛び散った封筒でした。「遺書」と書いてある…。


​ポンプ隊到着

消防隊長「ポンプ隊到着!」
隊長「ポンプ隊長、1名心マを!もう一人事務室に過呼吸の女の子がいるみたいなんだ、そちらに行ってくれ!」
ポンプ隊長「こっちは?一人でいい?」
隊長「ひとまず1名で、もう一人の傷病者を!」
ポンプ隊長「了解しました!お前が心マを、後は駅事務室に向かうぞ!」
消防隊員「はい!」

1名の消防隊員が救急活動の支援に入りました。

隊長「外傷CPAだぞ!早期搬送、機関員は搬送準備、3次選定!」
隊員・機関員「了解!」

傷病者を担架に載せ搬送準備を進めました。心臓マッサージをしても首の切創から血液が噴き出ることはありませんでした。もうすでにかなりの量の血液が流れ出てしまっていると思われます。きっと総頸動脈が切れている…そうでなければこんなにも壁一面に血吹雪が飛び散る説明がつかない…。



搬送途上

この時間帯、かなり空いているとはいえ駅構内での事案です。血だらけの女性が救急隊の心肺蘇生法を受けながら搬送されている。駅員たちの協力もあり、毛布やシートで目隠しをしていますが駅利用客がぎょっとした顔でこちらの様子を伺っています。駅の階段を搬送している中、ポンプ隊長が駆け寄ってきました。

ポンプ隊長「向こうは大丈夫!16歳の女性、過呼吸!まだ呼吸は早いけど意識も問題ない!やっぱりこの現場を見て過呼吸になったって訴えてる!一人残してあるから!」
隊長「了解!○救急隊が来たら後をお願いします!」
ポンプ隊長「了解、それまではこっちの支援を優先する!」

ポンプ隊長の判断は過呼吸の女子高生の下に1名を残して、後の者はこちらの心肺停止状態の傷病者の活動支援に当たる、こちらが車内収容したら今度は女子高生の下に再び全員で駆けつけるということ。

このポンプ隊長、すごくデキる人です。ポンプ隊の支援も得られ車内収容、病院はすぐに決定しました。


医療機関到着

救命センターの処置台に傷病者を移し、医師たちの懸命の蘇生処置が始まりました。

医師「…ということはまったく分からずってことか」
隊長「ええ…どうやら女子高生が見つけて駅事務室に駆け込んだみたいなのですがね」
医師「その子が過呼吸になって、そっちに要請された…と」
隊長「ええ…その子に聞けばもう少し状況が分かるかもしれないのですが」
他の医師「先生、○救急隊がその子を連れてくるって言っているみたいですよ、うちで診るって」
医師「それはよかった、○救急がうちの内科に連れてくるってさ」
隊長「そうですか…それで先生、どうでしょうか?」
医師「いやぁ…どうにもならないな…総頸動脈が完全に切れてる」
隊長「そうですか…このナイフで…」
医師「ええ、すごいですね、首を一発でいってる…」

「心肺停止 死亡」


救命センター救急車駐車スペースにて

血だらけの救急車内を掃除している隊員、機関員の下に医師への引き継ぎを終えた隊長が戻ってきました。

隊長「死亡確認になった」
隊員「そうですか、あの出血ですもんね…どうにもならないですね」
機関員「身元は分かったんですか?」
隊長「ああ、警察官が遺書を確認して、そこに全部書いてあったみたいだな、身分証なんかもあったみたいだ、詳細は分からないけど」
隊員「あのナイフで首を一突きですか…すごいですね…」
隊長「ああ…やっぱりためらい傷らしきものもなかった…相当の覚悟がなくちゃできなよな」

どんよりと暗い救急車内、何で駅のトイレ内なんて場所を最後の場所に選んだのでしょうか…。

○救急隊長「お疲れさまでした…大変でしたね…」
隊長「ああ!お疲れさまでした!ありがとうございました」

私たちが駆けつけるべく指令された過呼吸の女子高生を搬送した救急隊長がやってきたのでした。

○救急隊長「いやいや…たいへんだったのはこちらでしょ?血だらけだったんだって?」
隊長「ええ、そちらのお嬢さんは?大丈夫だった?」
○救急隊長「ええ、こちらはただの過呼吸、凄惨な現場を見て駅員に知らせようとしたんだけど事務室で過呼吸になって座り込んじゃったってさ」
隊長「なるほどね…」
○救急隊長「でも彼女はたいしたものだよ、今はすっかり落ち着いてる、死んでいる人なんて見たのははじめてだったからパニックになっちゃったって、自分のことをよく分かっているよ」

彼女は寝坊し完全に遅刻、2時限目に間に合えばよいかと駅を降りたのだそうです。おしゃれな子でこのままの格好では登校できないと障害者トイレの開くボタンを押すとそこには凄惨な現場があったのだそうです。

駅員に知らせようと事務室に駆け込んだのですが、過呼吸状態となってしまい話もできなくなってしまった…ということでした。


帰署途上

隊員「その女子高生は化粧でも直しに行ったんですかね?」
機関員「何言ってんだよ、逆だよ、化粧を落としに行ったんじゃないか?化粧したまま学校に行ったら指導されちゃうだろ?」
隊長「校則に触れる何かを身に着けていたから外しに行ったのかもしれないな?オレの娘も登校の時用の靴下と、登校してからの靴下を履き替えるんだとかなんとか言っていた頃があったぞ」
隊員「はぁ…よく分からないですね…」
機関員「お前もおっさんの仲間入りだな、もうこっち側だ」
隊員「ええ、嫌だなぁ…」
機関員「失礼な奴だなぁ…」
隊長「本当、思い込みって身を亡ぼすよな?現場って改めて恐ろしいよな?」
機関員「ええ…本当ですね…ナメてかかるととんでもないですね…」
隊員「過呼吸だろうってのは外れていた訳じゃなかったですけどね」
隊長「ああ…まさかそこに自殺した女性もいるとはね…」
機関員「でも、結果的には重症の人に迅速に着手できた訳だし悪い活動ではなかったんじゃないですか?」
隊員「オレもそう思いました、女子高生も軽症だったって言うし」
隊長「…実はオレはそうは思ってないんだよな、この現場、課題がある、いや…今回の活動はこれが良かったと思うよ、ポンプ隊も良くやってくれていたし、でも、これで良しとしてはいけないと思う」
機関員「何です?搬送時間だってけっして遅くないですよ」
隊長「まあ、帰ってからにしよう、どうせ上から苦言が入るさ、みんなで考えよう、勉強になる良い事案だよ」
隊員「事後検証ってやつですか?」
隊長「ああ、救命士制度の柱だ」


ひとつとして同じ現場なんてない、現場には必ず例外がある…。この現場ではそれを思い知ったのでした。消防署に帰り、この活動について、隊長の言ったように上司からいくつかの苦言というか課題が突き付けられたのでした。

この活動が間違っているとか指弾された訳ではありません。ただ、現場の難しさ、そして答えなんてきっとないんだと痛感させられる忘れられない事案になったのでした。隊長が言う課題とは?みなさまはどう思われますか?

SNSでコメントを頂けると嬉しいです。その話はまた今度。

緊迫の現場
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