まだ行けない

仰天の現場

救急隊の活動は医学的な根拠に基づいたプロトコールに従い傷病者にとって何がベストなのかを判断します。

なぜ、このような活動をしたのか?なぜ、こんな判断をしたのか?医師から問われた時、理論的に説明ができる必要があります。

ところが、現場は理屈じゃ回らないことなんてたくさんあって…。この時の経験は理論的とか、理屈とか、そんなのさらに超えていて…。


出場指令

深夜の消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急隊、消防隊出場、○町Y方、男性は意識・呼吸なし、通報は娘さんから」

との指令に同じ消防署の救急隊と消防隊がペアで出場しました。Yさんのお宅はこの消防署の受持区域、数分で到着できる距離です。


出場途上

救急車の後部座席、救急隊員が119番の通報電話番号に電話をかけ情報収集を図ります。

(119コールバック)

隊員「もしもし、そちらに向かっている救急隊です、ご通報頂いた娘さんですか?到着まで応急処置の方法など伝えします、患者さんは今も息ができていませんか?」
娘さん「はい、もうダメみたいです、今、兄が心臓マッサージをしていますが…まったく反応がありません」
隊員「心臓マッサージは実施しているのですね?私達が到着するまで続けてください、患者さんは何かご病気をお持ちの方でしょうか?」
娘さん「はい…末期の肺癌でもう全身に転移しています、もう先がないことは分かっていました」
隊員「…そうですか、どちらにかかっているのですか?」
娘さん「○病院にかかっていたのですが、もうできることは何もないと…先月からF病院のホスピスに入院していました、今は仮退院中です」
隊員「仮退院…と言うことは、今もF病院にベッドがあるということですか?」
娘さん「はい、F病院に搬送してもらえればと…」
隊員「連絡は取られましたか?」
娘さん「はい、連れてくるように言われています」
隊員「分かりました、今、急いで向かっています、私たちが到着するまで頑張って心臓マッサージを続けてください」

内容を救急隊長に報告します。

隊長「なるほど、かかりつけに搬送だな…、家族の意向は現場でもう一度確認するけど、特定行為は実施しないからな、いつも通り、CPRだけは実施するつもりで」
隊員・機関員「了解です」


現場到着

Yさんのお宅は一般の一戸建て、家の前には家族が案内に出ていました。

家族「お願いします、こっちです」
隊長「今も呼吸はできていませんか?」
家族「はい、まったく反応がありません…」

傷病者接触

隊長「観察実施、オレはご家族から状況を取る」
隊員「了解、ご家族の方、心臓マッサージを替わります、ありがとうございました」

隊員と機関員が傷病者の状態を観察します。連携した消防隊と共に心臓マッサージなどの処置を継続します。隊長は家族から状況を聴取しました。

傷病者は70代のYさん、末期の肺癌で全身に転移、治療の施しようがない状態でいつお迎えがきてもおかしくな状態なのだそうです。

今もF病院に入院中、家族との最後の時間を過ごすために仮退院中でした。医師からは自宅で何があってもおかしくない、その時が来たらF病院で看取るからと言われているのだそうです。

既に家族からF病院に連絡済み、病院から救急車で連れて来るように指示されたのだそうです。

隊長「なるほど、ご家族としてはF病院に搬送をご希望されている訳ですね、我々が救命のための処置をさせていただくことはどうでしょうか?」
娘さん「…それはけっこうです、医師からもその時が来たら看取ると言われています、何もできることはないからと」
隊長「分かりました、それでは私達ができる救命処置は実施しません、私達からもF病院に確認を取らせて頂いて搬送させていただきます、みなさんもよろしいですね?」

他の家族も皆、深く頷いたのでした。

隊員「隊長、傷病者はCPA、心電図も心静止です、バックマスク換気は良好」
隊長「了解、ご家族の皆さん、私達ができる救命処置は実施しませんが、心臓マッサージと人工呼吸だけは実施させていただきますからね」

隊長は家族の意向を尊重し、救急救命士が行う特定行為(喉にチューブを挿入する、点滴を打つなど)などの処置は実施せず、連絡が取れているかかりつけのF病院へのを判断しました。ただ、胸骨圧迫心マッサージと人工呼吸だけは実施し搬送しました。

かかりつけのF病院に連絡を取ると「話は受けている、すぐに搬送してください」と回答が得られました。現場で胸骨圧迫心マッサージを実施していた息子さんを乗せて現場を出発しました。

搬送途上

隊長「…なるほど。では、明日にはまた病院に戻ることになっていたのですか」
息子さん「ええ、私が車で送っていくつもりでした、週末だけ家族で過ごすようにと自宅に戻っていたんです」
隊長「そうですか、患者さんはどなたと暮らしていたのですか?」
息子さん「私達の家族とです、妹は父が仮退院するからと帰ってきていました」
隊長「なるほど」

現場には119番した娘さん、今、同乗している息子さん、他にも家族が集まっていました。まさに最後を家族と迎えるための仮退院だったのです。Yさんは自宅で息子や娘、孫達と最後の時を迎えられたようです。

医療機関到着

病院の正面玄関からストレッチャーを引いて処置室まで向かいました。F病院は救急病院ではないため処置室までは距離があります。途中、医師が駆けつけて…

医師「救急隊さん、もういいよ、心マはやめて」
隊長「よろしいですか?」
医師「うん、すぐ看取るから、息子さんもよろしいですね?」
息子さん「はい、分かっています…」

処置室に入るとすぐに医師による死亡が確認されました。

医師「Yさんはよく頑張ったよ、最後は自宅で皆さんと過ごせたのですか?」
息子さん「ええ、皆集まっていたので」
医師「それは良かった、自宅で過ごせたのは何よりでした」
息子さん「ええ、先生、おかげで…、最後は家族で見守ることができました」
医師「それでは息子さん、処置室の外でお待ちください、お身体を綺麗にして、それから霊安室にご案内しますから」
息子さん「はい、ありがとうございました、救急隊の方も…ありがとうございました」

息子さんは深々と頭を下げて処置室の外に出て行きました。医師からサインをもらい救急隊も引き揚げます。救命だけが救急隊の仕事ではない、こんな活動だって救急隊の大切な仕事なのです。

Yさんは身体を綺麗にしてご遺族との時間を作るなどの対応はエンゼルケアと呼ばれます。エンゼルケアの準備を進める看護師が救急隊に話しかけてきました。

看護師「ねえ、まだ行けないって言っているんだけど」
隊員「はい?」
看護師「いえね、まだ行けない、連れて行くなって私に言うの…」
隊員「…?」
看護師「そうそう…いつもそんな顔をするのよね」
隊員「誰が行けないって?」
看護師「だからこの人が」
隊員「やめてよ、悪い冗談を言うのは…」
看護師「そうなのよねぇ、いつも悪い冗談って言われちゃう」

そう言って看護師は悪戯っぽく笑うのでした。

看護師「でも、K子が心配だ、まだ行けないって…」
隊員(…ったく、…悪い冗談)

帰署途上

隊員「…なんてこと言うんですよ、あの看護師さん」
隊長「ははは、そりゃお前をビビらせようと思ったのさ」
隊員「悪い冗談ですよ、まったく…」
機関員「オレはまんざら冗談だとも思わないけどなぁ、本当に言っているのかもしれないぜ」
隊員「やめてくださいよ」
機関員「いやいや本当に、オレにはまったくないんだけど、オレの家系にはけっこういるんだよ、うちの婆さんなんてさ…」
隊員「もういいですって」
隊長「で、さっきのYさんがまだ行けないって言うんだって?」
隊員「ええ、なんでも看護師さんにまだ行けない、K子が心配だからとかなんとかって」
隊長「えっ…K子?」
機関員「まさか、本当に…?」

救急隊が記載する活動報告書には応急手当を実施していた方、119番通報した方など記録し残す必要があります。搬送途上に119番通報した娘さんの氏名を同乗した息子さんから聴取していたのでした。隊長は記載したメモを確認し…

隊長「…そうだ、やっぱり、119番通報したあの娘さん…K子さん…」
機関員「おいおいおい、こりゃなかなかのホラーだな」
隊員「…いやいや、事前にカルテは準備している訳だし家族の名前を知っている可能性だって充分ありますよ、悪い冗談ですって」
機関員「本当にそうかなぁ~」
隊員「だから、やめてくださいって!」
機関員「フフフ…」

機関員はハンドルを握り悪戯っぽく笑うのでした。悪い冗談…だよなぁ…。

あの看護師さんが本当のことを言っているのか、それとも周到な準備の上での悪戯なのか?今となっては分かりません。でも、医師や看護師から似たような話は時々、聞くことがあります。

帰署・深夜の消防署

隊員「あのぉ…倉庫に資器材の補充に行きたいんですけど…」
機関員「ああ、そうだな頼むよ」
隊員「…一緒に行ってもらえますか?」

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