現場は迷いの中で

緊迫の現場

救急隊に求められていることは緊迫の現場であっても冷静沈着に判断し、そして安全に迅速に傷病者を医療機関へと送り届けることです。この判断が時には傷病者の生命、予後に大きく影響することだってあります。

とは言え、医師でも何でもない救急隊員たちが病態を推測することはあっても、診断することはないのです。病院前救護の担い手としては、傷病者の利益を考えれば、判断に迷った時には危険側に立って判断する、結果、オーバートリアージになることはありますが、それは容認されて良いこととされています。

迷ったら危険側に立ってオーバートリアージ、時には医師に助言を仰いで傷病者にとってより良い選択肢を判断すれば良い。このより良い選択肢が何なのか、現場は常には迷いがあるのです。


出場指令

「救急出場、○町○丁目…T方、女性は貧血症状、めまい」

との指令に私たち救急隊は出場しました。指令先のTさん方は私たちの受け持ち区域で、しかも消防署からもかなり近い所でした。現場には5分とかからずに到着できました。


現場到着

Tさんのお宅の前では男性が手を振って待っていました。

隊長「Tさんですか?」
夫「どうも、よろしくお願いします、妻が貧血みたいで、ひどいめまいでフラフラしていまして」
隊長「分かりました案内してください」

夫の案内でTさんの部屋に入ると

夫「おい、大丈夫なのか?」
Tさん「大丈夫よ」

傷病者のTさんは40代の女性、玄関に座っており靴を履こうと出掛ける準備をしていました。めまいで動けないと言うことはなさそうです。やれやれこれは自分でも病院に行ける状態だな、タクシー代わりに救急車を使う人が多い中、自ら歩いて救急車に乗り込む方はけっこう多いものです。

隊長「Tさん、担架をお持ちしなくても大丈夫ですか?」
Tさん「いいえ、大丈夫です、そんな担架だなんて、そんなに大げさなものじゃありませんから、すみません」
夫「でもさっきは立つこともできなかったじゃないか」
Tさん「大分、落ち着いたのよ」

現場に先入観は禁物です。タクシー代わりの要請だろうか?そんな思考はTさんの顔色を見て吹っ飛んだのでした。靴を履き顔を上げたTさんの顔色は…

隊長「!!奥さん、ひとまず座ってましょうか、ずいぶんと顔色が悪いですけど」
夫「そうなんですよ、顔色が悪いですよね、先ほどまで立ち上がることも出来なかったんですよ」
Tさん「大丈夫です、本当にそんなに大げさなものじゃありませんから」

そう言うとTさんは立ち上がりスタスタと歩き始めたのでした。

隊員「Tさん、気をつけてくださいよ、倒れたりしたら大変だ、ほら、私が肩を貸しますから」
Tさん「そんなに大げさにしていただかなくても…すみませんね」

隊員が支えてひとまず車内収容し詳細な内容を聴取することとなりました。Tさんの足取りはとてもしっかりしており、隊員の支えなどなくてもしっかりと歩ける状態でした。


車内収容

隊長がTさんと夫から救急車の要請に至るまでの概要を聴取します。隊員はTさんのバイタルを測定していました。

Tさんは昨晩から体調が悪く、今朝になり立ち上がることもままならないほどの強いめまいを起こすようになったのだそうです。

午前中いっぱい横になり休んでいたのですが一向に改善する様子はなく、トイレに行こうと這うようにして移動している妻を見て夫が要請したのでした。

隊長「なるほど、それでは症状は昨晩からあったのですね」
夫「そうなんですよ、でも妻が大丈夫だからと…」
Tさん「明日にかかりつけにかかる予定があるんです、だから明日、先生に相談すればいいやって思って」
隊長「かかりつけとは?」
Tさん「○町のY病院です、この前の検診で子宮筋腫が分かりまして、明日は手術の日取りを決めることになっていたんです」

Tさんは過去、大きな病気を患ったことのない健康な方でした。ただ、最近、町の検診で子宮筋腫が見つかりY病院でオペをする必要があると診断が下っていたのでした。

隊員「…隊長、バイタルなんですけど」

Tさんは意識清明、呼吸状態も正常、ただ、脈拍は140回程度と早く、血圧は収縮期で80mmHg程度でした。顔面も目瞼結膜(アッカンベーした時の瞼の色)も明らかに蒼白でした。

隊長「奥さん、顔色がずいぶんと優れないのですが、不正出血はありますか?」
Tさん「はい、今朝からはかなり量も多くて」隊長「生理ではありませんか?量はどのくらい?」
Tさん「生理がくる時期なんですがいつもの生理とは様子が違くて…量と言われても…ただ、さっきは便器が真っ赤になるくらい出ました」
隊長「ずっと出続けているのですか?」
Tさん「いいえ、そう言う訳ではないのですが、でも今朝とさっきはまるでおしっこが出るみたいにかなり出血しました、だから私も貧血になったんだろうと、私は生理が重くていつも貧血みたいになるんです」
隊長「Tさんは血圧は低い方ですか?」
Tさん「ええ、低血圧でいつも100もいかないんですよ、今回は少し酷いですけどいつもの症状なのかなって」
隊長「なるほど、だから様子を見ていた訳ですか」
Tさん「ええ」
夫「Y病院に搬送してもらうことはできますか?」
隊長「Y病院ですか…救急車でも30分以上はかかる距離ですし…何よりですね…」

明らかに迷っている隊長、こう言う時に隊員や機関員が背中を押すことが大切です。隊員をチラチラ見る隊長、「なあ?どう思う?」隊長の目はそう言っていました。

隊員「ショックバイタルですよ、3次選定が良いと思います」

「だよな?やっぱり」隊長の迷いも吹っ切れたようです。

ショックとは本当に簡単に解説すると循環異常をきたしている状態を言います。その原因が出血の場合、身体はその状態を補う機構を働かせます。血液が多く失われた場合、血管内の圧力は下がってしまう、つまり血圧が低下してしまいます。

これを補うために脈拍数を上げてどうにか身体に酸素と栄養を運搬しようとするのです。しかしこの機構にも限界があり、限界を超えるとあっという間に容態変化してしまいます。出血性ショックによる容態変化は劇的で一気にCPAになってしまうこともあるのです。

隊長「お連れする病院なのですが、Y病院ではなく救命センターと呼ばれる医療機関を選定したいのですが良いですか?」
Tさん「Y病院ではダメですか、かかりつけですしY病院が良いのですけど」
隊長「今のあなたの状態なのですが、仰る通り出血が原因の貧血の可能性が高いと思います、しかもその原因も子宮筋腫から来ているのでしょう、Y病院で確定診断されているのですものね?」
Tさん「ええ、そうです」
隊長「ですからオペをすることまで決まっているY病院で治療を受けたら良いと言うのはよく分かるのですがね、私はまず近くの医療機関で早く処置をしてもらわないといけないと思います」
Tさん「でも、大丈夫ですよ、だって私はこんなにしっかりしているじゃないですか」
隊長「確かにお話もしっかりされていますが、相当に出血されていると思うのですよ、血圧や脈拍が相当量出血した時に出る数値なのです、あなたは重症だと判断しているのですよ」
夫「そんなに悪いんですか?こんなにしっかりしているのに?」
Tさん「近くというとどこですか?」
隊長「これから確認しますが、一番近くの○病院の救命救急センターと言うところから選定しようと思います」
Tさん「○病院ですか…でもY病院もかなり大きな病院ですよ」
隊長「いえ…病院の大きさとかではなくてですね…」

さらに迷い所であったのはTさんがかかりつけであるY病院は大学病院クラスの大病院、救命センターは併設していませんが、3次医療機関に準じるほどの設備がある病院です。

ここから数分の距離にあれば、あるいは医師に状況を説明して受け入れてもらうと言う選択肢もあるかと思います。しかし、Y病院までは緊急走行でも30分以上はかかるでしょう。隊長の説得が続きましたがTさん夫婦はY病院への搬送を強く希望しました。

隊長「Y病院まではリスクが高すぎるよな?」
隊員「ええ、きっとかなり出血していますよ、もともと低血圧の方と言っても脈拍が高すぎる」
隊長「そうだよな?こんなにタキっている(頻脈)説明が付かないよな?」
隊員「ええ、相当量の出血以外は…」
隊長「ふぅ…分かりました、Tさんもご主人も、Y病院の先生に相談してみましょう。あなたの状態もご存知だし、今の状況を説明して先生にも相談の上で搬送先を決めましょう、もし先生が我々の言うように近くの救命センターに行くよう言われるのならそれに従ってください、どうですか?よろしいですか?」
夫「う~ん…そうですね、先生がそう言うのならその方が良いですものね」
Tさん「そうですね、分かりました」

私たち救急隊は緊急度も重症度も高いと判断し3次選定を判断していました。しかし、Tさん夫婦はかかりつけY病院への搬送を強く希望していました。

Tさん夫婦の言い分も非常によく分かるのですが、とにかくリスクが高すぎます。Y病院に搬送した場合、途中で容態変化してもおかしくない…。

隊長はY病院の医師からも説得してもらおうという意図も含めてかかりつけのY病院へと連絡したのでした。

病院連絡医師「…状況は伺いました、すぐ近くで処置してもらった方が良いよ」
隊員「そうですか、先生、私たちも重症度が高いと判断しています、直近の3次医療機関に搬送しようと思います」
医師「そうですね、それが良いですよ」
隊員「先生、アドバイスありがとうございます、このままお待ち頂けますか、今ご本人にも説明しますから」
医師「私が代わろうか?私が説明した方が早いでしょ?」
隊員「お願いします、先生に話していただければそれが一番です」

電話を代わったのはご主人でした。

夫「はぁそうですか、先生がそう仰るなら、はい、そのようにします、はい…」
Tさん「何ですって?」
夫「いや、救急隊の言う通り、危険な状態だから早く近くに行くようにって…」
Tさん「…そう」
隊長「お二人とも良いですね?近くを選定しますよ」
Tさん「はい、お願いします」


救命救急センター到着

隊長「先生、やはりかなり出血していたのでしょうか?」
医師「う~ん、そうだね、恐らくかなり、輸血しないといけないかもしれない」

「不正出血 重症」

帰署途上

隊長「Y病院の先生が説得してくれて助かったなぁ」
隊員「でも、大丈夫だろうから来いって言われても困りましたね」
隊長「そうだな、リスクが高すぎるよな?結果的には大丈夫であったとは思うけど」
隊員「結果的には先生も重症の判断、3次選定で良かったですね」
隊長「今回の場合、判断は問題じゃないよ、難しかったのは説得だ」
隊員「ですね、本当、現場って難しいですね」

この状況とバイタルから重症度を判断できない救急隊はいないと思います。テキスト的、プロトコール的にどうすれば良いか判断できても、それを傷病者や家族が理解してくれるかは別問題です。

今回のTさんの場合、意識は清明でとてもしっかりした方でした。だからなおさら重症だと言われてもピンと来なかったのでしょう。傷病者や家族の希望に沿うことも救急隊の務めですが、最も優先されることは当然、傷病者の生命です。

病院前救護を担う医療従事者の端くれとして、かつ公僕として住民の希望にも応えなくてはならない。救急隊の現場はいつも様々な迷いの中です。

緊迫の現場
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