何となく、何かヤバイ…

緊迫の現場

ここ数年、私の消防署にも大学や専門学校で救急救命士資格を取って入ってくるいわゆる免持ち救命士の後輩が増えてきました。専門学校では2年、大学では4年もの時間をかけて勉強してくるのです。みんな知識があってうかうかしていられないと良い刺激を貰っています。

ただ、知識のある後輩にもこれだけはまだまだ負けないなと感じることは何といっても経験です。消防官になってから様々な過程を経て救急救命士となった者としては、現場でそれはそれはたいへんな苦労をしてきたのです。

知識だけでは回らないのが現場、経験だけでも回らないのもまた現場です。現場では経験を積んでいかないと身に付かない「第六感」のようなものがあって、この部分に助けられることがけっこうあるのです。


出場指令

昼間の消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁目M方急病人、女性は意識があるも動けないもの、通報は夫から」

との指令に私たち救急隊は消防署を飛び出しました。

良い天気の昼間、日差しの眩しい町を救急車が駆け抜けます。指令先のMさんのお宅は受け持ち区域、現場到着まで5分程度の距離でした。到着まで傷病者の情報を執ろうと通報電話番号に電話をかけましたが応答はありませんでした。


現場到着

指令先はマンションの一室でした。呼び鈴を鳴らし救急隊長がドアを開けます。

隊長「Mさん、こんにちは、救急隊です、失礼します」

この声に奥から50歳くらいの男性が出てきました。この人が通報者である旦那さんでしょう。

Mさん「お願いします、こっちにいます」
隊長「分かりました、失礼します」

隊長に続こうと部屋の玄関に入ると…あれ?何だ?何かおかしい…?何か違和感を感じるのです。臭いが…臭いって訳じゃないけど…何だ?何となく、何かヤバイ…おや?あれは?

隊員「隊長、何か臭いませんか?あのシミ、気を付けた方が良いかも…」
隊長「どれ?」
隊員「ほら、あのシミ、ひょっとすると…」
隊長「ああ…分かった、踏まないように気をつけよう」
隊員・機関員「了解」


傷病者接触

Mさんの案内で奥の部屋に進むと布団に女性が横になっていました。彼女が傷病者のTさん、やはり50代の女性でした。パっと見て明らかに顔色が相当に悪い方でした。Mさんは夫との事でしたが二人は別の姓、ここで一緒に暮らしているとの事でした。

隊長「こんにちは、どうされましたか?」
Mさん「ずいぶんと前から体調が悪かったのですが今日の昼頃からはトイレにも行けなくなってしまったので…」

Tさんの顔色はとても悪く土気色、体調不良で歩くこともできない状態とのことでしたが意識は清明で話しはしっかりとできる状態でした。隊長が傷病者とMさんから情報聴取を進めます。その間に隊員はバイタル測定を実施していました。

隊長「…そうですか、それではもうひと月も前から体調不良を感じていたのですね?」
Tさん「はい、先月くらいから身体がだるくてだるくて…」
隊長「どちらか病院にはかかられなかったのですか?」
Tさん「はい…それが…病院に行かなくてはと思ってはいたのですが…」
隊長「何かご病気はありませんか?現在治療中のものなどはありませんか?」
Tさん「はい、特に持病はありません、かかっている病院もありません」
隊長「そうですか、分かりました」

Tさんはこれといった病気はないと言いますが、もちろんそんな訳はありません。今のこの状態はただ事じゃない、ただ病院に行っていないというだけでしょう。Tさんの呼吸状態は正常、脈拍は100回/分程度、SPO2は97~98%程度、血圧は収縮期で90mmHg程度でした。顔色は非常に悪く目瞼結膜は蒼白、循環状態が悪いのは明らかでした。ショックになる手前だろうか?それにこの体型は…

隊長「Tさん、ちょっとお腹を見せていただいてよろしいですか?」
Tさん「はい」
隊員「ちょっと服をめくらせていただきます」

まるで妊婦のように膨れ上がったお腹、細いTさんのお腹は不自然に盛り上がっているのでした。これは…やっぱり…メズサの頭…。

隊長「このお腹はいつからですか?」
Mさん「先月くらいから気になり始めていました…」
Tさん「少しずつ膨れていつの間にかこんな風に…」

このお腹にはきっとかなりの水が溜まっているのでしょう。この土気色の顔色は黄疸、腹壁静脈がこんなにも怒張している。これは明らかに肝硬変の症状です。しかもかなり進行してしまっていると思われます。

隊長「Tさんはお酒はかなり飲まれる方ですか?」
Tさん「はい…」
Mさん「実は…ここ数ヶ月、食事もほとんどしないで酒ばかりでした、それがここ2日ほど前からは酒も飲めなくなってしまって…」
隊長「どのくらい召し上がっていましたか?」
Mさん「1日に一升くらい…」
Tさん「…」
隊長「一升!?それをずっとですか?」
Tさん「はい…」
隊長「…もう一度聞かせていただきますけど、ご病気は何もありませんか?肝硬変やアルコール依存症などと指摘されたことなどありませんか?」
Tさん「はい…でも、私も何かおかしいと思っていました…」
Mさん「お酒の量はさすがに異常だったので何かの病気だとは思っていたのですが…」
隊長「便はちゃんと出ていますか?」
Tさん「それが…」
隊長「気にはなっていませんか?例えばずいぶんと黒かったとか?」
Tさん「はい、気になっていました、先週くらいからずっと真っ黒で…」
隊長「血を吐いたりはしていませんか?」
Tさん「それはありません、ただ…」
Mさん「実は、さっき私が支えてトイレに行こうとした際に漏れてしまいまして…それがあまりにおかしいから救急車を呼んだのです」
隊員「Mさん、ひょっとして玄関にあったあのシミって?」
Mさん「はい、漏れてしまった時に汚れてしまったものです」

やっぱり!あのシミ、そして何となく臭ったあの臭いはそういう事だったのか。大分、話が繋がってきました。

隊長「どんな便でした?海苔の佃煮のような、コールタールのような真っ黒い便ではありませんでしたか?」
Mさん「そうです、まさにそんな感じのものでした」
隊長「ずいぶんとたくさん出ました?」
Mさん「はい、それはもうたくさん」
隊長「それは全部片付けてしまいましたか?」
Mさん「カーペットについたものは拭き取ったのですがトイレの中でも床に落ちてしまって、それはまだ片付けられていません」
隊長「Tさん、便なんて見られたくないだろうけど見せていただきますよ、とても大事なことなのです」
Tさん「はい」
隊長「確認して」
隊員「ええ、見てきます」

隊員はトイレの様子を確認に向かいました。トイレの床にはまさにコールタール、しかもかなりの量の便が付着していました。間違いない、これはタール便です。

Tさんは下血が続いている状態ということです。救急隊はTさんをひとまず車内に収容し受け入れ先医療機関を選定することにしました。

続・何となく何かヤバイ…につづく

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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