縛って連れていって

仰天の現場

救急隊の責務は緊急事態にある傷病者を安全に確実にそして迅速に医療機関の医師の管理下に搬送することです。

それを果たすには、迅速に出場、傷病者の下に駆け付け、確実な観察を行い、傷病者の状態を的確に判断する必要があります。

この一連の流れが果たせなければ傷病者にとってどの病院に、どんな科目に搬送すべきかが良いのかを判断することができません。ところが…。


出場指令

日が変わろうとしている深夜、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「○救急隊出場、…○町○丁目○号、M方、女性は気持ち悪いもの、通報は母親から」


出場途上

出場途上の救急車内、隊員が通報者の母親のもとに電話をかけます。

(119コールバック)

隊員「もしもし、救急隊の者です、Mさんのお宅ですか?」
母親「はい、あの…サイレンを止めてきてください」
隊員「救急車は緊急車両ですからサイレンは止めて向かうことはできません、ご理解くださいね、娘さんのご様子を教えていただきたいのですが」
母親「この時間じゃご近所迷惑になるから困るんです、それに…、とにかく止めてください」
隊員「近くまで行けば控えますから、ただサイレンは止めて走行できません、娘さんのご様子はいかがですか?」
母親「どっちから来るのかしら?○公園の方から来るのかしら?」
隊員「ええ、私たちは○救急隊です、Mさんのお宅には○公園の方から向かいますよ、娘さんはお話ができる状態ですか?」
母親「○公園で待っています、○公園にいるからお願いします」
隊員「いえ、Mさん、娘さんは歩ける状態なのですか?ご自宅で安静にしていなくて大丈夫ですか?Mさん?」

ツーツーッー…。電話が切れた…。ふぅ…やれやれ…。

隊長「何だって?」
隊員「○公園で待っているからそこまで来いって、一方的に切られました、傷病者の状態は何も取れませんでした」
機関員「やれやれ、サイレン止めて来いって?」
隊員「ええ、もうそれだけ言われて…」

サイレンを止めてきてほしい、ほとんどのケースの場合、このキーワードがあった場合、軽症者を扱うこととなります。

…とはいえ、中には息子が首を吊っているのに、夫が呼吸をしていないのに、サイレンを止めて向かってほしい、これを第一声に訴える方もいるのです。油断は禁物です。


現場到着

○公園が見えてきました、この先の住宅街を100mほど入ると要請先のMさんのお宅なのですが…大きく手を振る初老の女性の姿が見えました。

機関員「あの人が通報者のお母さんじゃないか?」
隊長「きっとそうだな、ひとまず停車しようか」
機関員「あれ?ただ、ひとりみたいだけど…」

救急車は手を振る女性の前で停車しました。

隊長「通報いただいたMさんですか?」
母親「そうです」
隊長「患者さんはどちらに?」
母親「まだ家にいます」
隊長「そうですか…分かりました…、このままサイレンは止めて向かいますから案内していただけますか?」

傷病者を家に残してここまで出てきているのです。それでも緊急車両なのだからとサイレンを鳴らしてこの住宅街を抜けていけば母親との信頼関係を築くことはできない、この人はどうしても近所迷惑になりたくないのだろうと隊長は配慮してこのように声をかけたのですが…。

母親「いいえ、ここでけっこうです」
隊長「えっと、それはつまり患者さんもこれからこちらに来ると言うことですか?」
母親「いいえ、救急車が突然やってきたりしたら娘はパニックを起こしてたいへんだと思うんです、だからここで病院を決めてもらって入院させてください」
隊長「それはどういうことでしょうか?」
母親「今、娘は精神状態がとても不安定なのでどこかの精神病院に入院させてほしいんです、ここで病院を決めてもらってから娘の所に行ってもらいたいのです」
隊長「あの…ちょっとお話が良く分かりません、Mさん、もう少し詳しくお話を聞かせていただけますか?」

公園の前で母親から詳しくお話を聴取することとなりました。

傷病者は数年前から精神病を患っており、かかりつけの精神科のあるクリニックに通い自宅療養を続けているのだそうです。ここ数週間、状態が不安定で昼夜が逆転した生活をしており、突然パニックを起こしたりすることが度々あったのだそうです。

今日も深夜に母親に対して大声を上げたりと、ほとほと困ってしまい、どうにかどこかの精神病院に入院させようと119番通報したのだそうです。

隊長「なるほど、そうですか…、かかりつけのクリニックには相談されたのですか?」
母親「お薬を調整するからって、入院の必要はないって言うんです、○クリニックは入院できる施設ではないし、この時間ではやっていないので…、どこか入院できるところに連れて行ってください」
隊長「Mさん、まずですね、入院の必要があるかどうかは医師が診察の後に判断することなので私たちが入院させてくれる病院を選定するなんてことはできません、医師に診察してもらってから、入院になるかどうかは患者さんと一緒に医師によく相談してください、最終的には医師の判断になります」
母親「はぁ、そうですか…」
隊長「まずは患者さんの所に案内していただけますか、患者さんの様子を見せていただけないことにはどうにもなりませんから」
母親「それは困ります、救急車を呼んだなんて知ったらあの子はパニックを起こして大騒ぎするわ」
隊長「しかし、患者さんの状態が分からなければ我々もどうにもなりませんよ」
母親「入院できるかどうかは医者の判断だということは分かりました、だからここでどこか病院を決めてもらって連れて行ってください、あとは私が先生にどうにか入院させてもらえるように相談しますから」
隊長「Mさん、それは無理ですよ、患者さんの様子が分からなければ私たちもどうにもなりませんよ、患者さんの状態を確認させていただいて搬送すべき病院や科目を判断させていただかないと…」
母親「入院できる精神科なら大丈夫です」
隊長「いえ、そういうことではなくて…」

ぜんぜん大丈夫じゃない…もう滅茶苦茶、観察もすることなくどうやって病院を決めれば良いのでしょうか?

隊長は母親に救急隊の活動は傷病者を観察させてもらいバイタルサインや既往、現病歴、今の症状や状態を伝えた上で医療機関に連絡するのだと説明しました。

隊長「…ですから、患者さんに会わせていただかないことには我々にはどうにもならないのですよ」
母親「はぁ、そうですか…困ったわね…」
隊長「Mさん、お話からすると、そもそもですね…、娘さんは病院に行くことにご理解いただけるのですか?」
母親「いいえ、多分、それは難しいと思います、だから救急車が来たなんてなると、たいへんだと思って、病院が決まったら縛ってでも連れて行ってもらえばと思ったんです」
隊長「Mさん、そんなことはできませんよ、まず、ご本人が病院に行くことに納得してもらわないと…」

縛って病院に連れて行くだって?そんなこと絶対にできない…。隊長は根気よく母親と話を続けたのでした。

隊長「…Mさん、私たちもですが、病院も同じことなのですよ、患者さんが診察を希望していなければ無理矢理に診察するなんてことはできません、だから私たちもご本人が病院に行くことに納得していただかないと搬送なんてできないのです」
母親「ではどうすれば良いのですか?私じゃとても病院になんて連れて行けないし、病院に行こうって言っただけでも大変なんですよ!」
隊長「…」

声を荒げる母親、困り果てての救急要請なのでしょうが、傷病者への接触を拒否し、病院をどうにか決めてから力ずくででも搬送し入院させてほしい、私たちには全く応えることができない要望です。

隊長「ひとまず患者さんのところに案内してください、私たちも一緒に病院に行くように説得しますから、患者さんの下に行かせていただかないことには私たちにはどうすることもできませんよ、ご理解ください」
母親「あなたたちの言っていることも分かりますけど、そんなことをしたらたいへんなことになるんです、救急車を呼んだなんて知ったらどんなことになるか…」
隊長「お母さんの立場も分からないでもありませんが、患者さんの様子も見ないで病院を選定するなんて絶対にできませんよ」
母親「…」
隊長「患者さんの様子も分からず病院を決めることはできません、そんな状況で受け入れてくれる病院なんてありません、どうにか私たちを患者さんに会わせてください」
母親「…それは無理です、本当にそれだけはどうにか勘弁してください」

母親は救急隊を要請しておきながら、私たちが傷病者の下に向かうことを拒否したのでした。どうすれば良いの…?隊長と母親の押し問答は続きました。

母親「それならもう結構です、帰ってください」
隊長「それも困りますよ、私たちも緊急の方がいるからとやってきました、患者さんがどのような状態にあるか分からないままでは帰れませんよ」
母親「だって、病院には連れて行ってはくれないのでしょう」
隊長「そんなことは言っていませんよ、患者さんの様子を見せていただかないことには病院に連絡を取ることすらできないと申し上げているのです」
母親「だから救急車が来たってなるだけでダメなんです、力ずくで運んでもらえないなら無理じゃないですか」
隊長「ですから、病院に行くよう一緒に説得させていただきますよ」
母親「だから、それ自体がダメなんです、ですからもう結構です、帰ってください!」

話は平行線、答えが見えない…。押し問答は何の解決もなく要請者の母親は怒り出すばかり。隊長の後ろで黙ってこの状況を見守る隊員と機関員…。困ったなぁ…。

数十分に及び隊長は母親を説得したのですが全く話は進展しませんでした。頑として娘の下には行かないでほしい、帰ってほしいと訴える母親…。

隊長「ふぅ…分かりました、それでは仕方がありませんね、私たちは引き揚げます、ただ、もし万が一、娘さんの状況がおかしくなった時にはまた私たちを要請してください、よろしいですか?」
母親「…はい、分かりました」
隊長「もし、娘さんが病院に行き診察を受けることに納得いただけるのなら私たちがお力になれることもあります、ただ、患者さんの様子が分からないことには私たちにお力になれることはありません、それをどうかご理解ください」
母親「…はい、それも分かりました」
隊長「Mさんが困って要請したのはよく分かりました、かかりつけのクリニックにかかる際、担当の先生によくご相談なさるのが良いと思いますよ、お力になれず申し訳ありませんね」
母親「…いいえ」
隊長「それでは私たちはこれで…」

はぁぁ…隊長は大人だなぁ…。現場に駆け付けてみれば傷病者も要請者も既に立ち去っていたなんてことは良くありますが、傷病者は間違いなくいるというのに要請したはずの方に拒否されて帰ることになるなんて…。まぁ似たような現場は時々あるのですが…。


帰署途上

救急車に戻った3人

機関員「やれやれ…滅茶苦茶だったな…」
隊員「本当ですよ、傷病者に接触もしないでどうやって病院を決めればよいって言うんでしょうね?縛ってでも連れて行けなんて…」
隊長「まあ、そう言うなよ、あのお母さんだって困り果てての要請なんだから」
隊員「隊長は本当、大人ですねぇ、オレはそんな気持ちにはなれないなぁ…」機関員「本部に引き揚げ報告を入れますよ」
隊長「ああ頼むよ、引き揚げよう」

さすが隊長、憤る隊員と機関員にそんなこともあるさと実に人間のできた対応をするのでした。救急隊長なんてやっていると現場で無理難題を突きつけられることは日常茶飯事、このくらいの器のでかさがないといけないのかもしれません。

まだまだ隊長になんてなれないなぁ…。10年早いか…。機関員は本部への引き揚げを報告していました。

機関員「…という状況でしたのでこれから引き揚げます、…え?いえ…、それはそうですが…、はぁ、それはそうでしょうけど…、ええ…」

おやおや…これはまた何やらまた面倒な匂いがしています。何となく予想はつくけど…。

機関員「…はぁ、それはそうですけど…ちょっと待ってください」
隊長「何だって?」
機関員「いえね、観察もしないで引き揚げて、傷病者は大丈夫なのかって…」
隊長「そりゃそうだけど、どうにもならないだろ?それが分からないからずっと説得していたんじゃないか、でも、どうにも分かってもらえないから引き揚げるって話じゃないか」
機関員「いや…、そうですよ、もちろんそういう話なんですけど…」
隊長「…ふぅ、代わるよ、オレが出る」
機関員「すみません、お願いします」

本部と交信を始めた救急隊長、そこは大人ですから…、穏やかに…。ねえ?

隊長「ええ、その通りです、もちろん、傷病者と接触もしなければ何も判断できませんよ!でも要請者がそれはダメだっていうんですよ!ええ…ええ…、そうです、そうですね…、ではどうすれば良いんですか!もちろんずっとずっと説得しましたよ!まさか力ずくで傷病者の家に上がり込む訳にはいきませんよね?だからずっと説得を続けたんです!もちろんそんなことは分かっていますよ、…ええ、そうです、…ええ」

本部との交信内容は要約すれば、傷病者と接触することもなく引き揚げてしまうのはまずいのではないか、仮に要請者が拒否したとしてもどうにか説得し少なくとも傷病者に接触し状況を把握する必要があるのではないか、万が一、傷病者に何かあった場合、救急隊の活動に問題があったとトラブルに発展する可能性があるのではないか、まあそんなところです。

まさに正論…、先ほどまで大人の対応であった隊長が怒っているのがひしひしと伝わってきます。

隊長「何かあるかの可能性なんて確かに傷病者と接触もさせてもらえなかったのですから分かりませんよ、ええ!そうです!それはその通りです、でも逆にこれ以上説得を続けることの方がトラブルの火種だと私は判断しました、ええ、けっこうな剣幕で帰れって言われましたから、…ええ、…ええ、もちろん説得し続けましたよ!」

こりゃ雲行きが怪しいぞ…。やばいぞやばいぞ、顔を見合す隊員と機関員。

隊長「…はい、ええ…、お疲れ様でした、○救急隊は引き揚げます」

無線交信を終えた救急隊長

隊長「ったく冗談じゃねえぞ!オレ達が傷病者をほったらかして帰ってきたとでも言うのか!なあ?」
機関員「…いや、そう言うことではないんじゃないですか?」
隊長「説得は続けたのか?分かってはもらえなかったのか?とか、そんなことを言われたよ、そんなことは現場の人間が一番分かっているってんだよ!なあ?そうだろ?傷病者に何かあったらどうするんだなんてオレたちはいつも考えているじゃないか?なあ?」
機関員「いや…もちろんそうですよ」
隊長「仮に何かあったら攻められるのはオレたちだ、そんなことは分かってるってんだよ!帰れって言われているのに行けって言うのか?無理矢理家に上がりこめって言うのか?冗談じゃねえぞ!クソっ!」
機関員「…いや、ほら隊長、本部もオレたちのことを心配してのことですから、何かあったら攻められるのは救急隊だから大丈夫なんですかってそういう話ですから、ねえ」
隊長「そんなこたぁ分かってんだよ!現場の責任者はオレだって、だから話にならない現場でも話をしてんじゃねえか!冗談じゃねえってんだよ!」

荒れに荒れている救急隊長、まあまあとなだめるベテランの機関員

隊員「…さてと。」

とか言いながら次の活動の準備をする救急隊員、あれ?次の活動の準備って?そういえば今の活動、何も使ってないや…。やっぱりまだまだ隊長になんてなれないなぁ…。

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