お父さん死なないで
ため息の出る現場から呼吸も脈拍もない方のところへ駆けつける緊迫の現場までと様々な現場へと出場するのが私たち救急隊です。非日常の救急現場ですが、そんな非日常にでもいつの間にか慣れていくものです。経験を積み重ねていく中で、人の死にだって慣れなくちゃいけない。搬送先で看取られる傷病者、その度に感情を左右され引きずっていくようでは次に良い活動ができません。当たらない時にはなかなか当たらない緊迫の現場ですが、この時は2当務連続で心肺停止の傷病者に当たりました。どちらの方も80歳を超えるお年寄り、二人とも病院に運び込みすぐに死亡が確認されました。辛い現場ではありますが、しかしお年寄りの死にはもう大分慣れました。人間年をとればいずれ必ず死ぬ。もちろん救命のために最善を尽くしますが、お迎えが来た方を病院に搬送し医師が死亡を確認する、それもまた私たち救急隊の一業務なのでしょう。非日常である人の死すらも業務である以上、慣れなくてはいけないのかもしれません。ただ、どうしても慣れることのできない現場があるものです。この時は本当に辛かった…。いつも組んでいる正規の救急隊長がお休みであったため、この日の私は救急隊長を務めていました。
救急隊長「この前とその前と2当務連続でCPAに当たっているから、今日は静かだといいんだけど」
救急隊員「そうですか、そう毎当務、毎当務はないでしょ」
朝の車両点検時、この日隊員を務める後輩の予備隊員とこんな会話をしていました。日中、嵐のような忙しさもなく、判断に迷うような重症の傷病者も扱うことはありませんでした。そうそう毎当務、緊迫の現場には当たらないものです。なんて…そうならないのが現場です。仮眠を摂っていた深夜、救急寝室に出場ベルが鳴り響きました。
「救急出場、40代の男性は頭痛を訴え、現在はいびきをかいているもの」との内容に私たち救急隊は飛び起きました。
出場途上
消防署から現場までは数キロ、現場まで5、6分で到着できる距離です。後部座席から救急隊員が通報先電話番号に連絡を入れていました。
救急隊員「もしもし、そちらに向かっている救急隊の者です、もしもし!落ち着いてください!どうされましたか?奥さんとにかく落ち着いて!患者さんは息をしていますか?」
情報を取っている救急隊員からこの現場ただならぬ現場であることが伝わってくる。
救急隊員「隊長、家族は大分混乱しています!傷病者は呼吸がないみたいですよ!」
救急隊長「了解!CPRを指導して!混乱しているようなら胸骨圧迫だけでもいい!こっちで応援要請する!」
隊員はうなずくとまた電話に話し始めました。
救急隊員「奥さんとにかく落ち着いてください、今からご主人にやるべき蘇生方法を伝えます、奥さん!頑張ってください、私たちが到着するまであなたが蘇生処置をするんですよ!」
救急隊長「本部ですか?救急隊です、○丁の現場、現在情報収集中です。本件はCPAである可能性が高いです、消防隊を応援要請、どうぞ」
本部「了解しました、消防隊1隊応援要請の件、了解」
出場途上でこの後行うであろう蘇生処置、さらに搬送、マンパワー確保のために消防隊を応援要請しました。
現場到着
現場は一戸建てのお宅でした。大きく手を振る男性の姿が見えた。
男性「早く!早く!早く来てください!息をしていないみたいなんです!早く!」
救急隊長「分かりました、案内してください。機関員!隊員と先に行く、車両を停車してからすぐに現場へ、搬送資器材は後から来る消防隊に任せよう」
救急機関員「了解!」
傷病者接触
傷病者は40代の男性でKさん、自宅の床に仰向けになっており口から粘液が溢れていました。呼吸をしていれば口や鼻から泡が吹き上がります。まったくそんな様子はありませんでした。一見して呼吸がないことが分かった。
家族「頑張れ!K、死ぬんじゃないぞ!しっかりしろ!」
子供たち「お父さん、しっかりして!死なないで!」
現場の部屋には奥さん、子供たち、案内に出てきてくれた他の家族など数名がいて、現場は混乱していました。さっきまで元気であった働き盛りの男性が今、たいへんな事態になっているのです。この時の私は駆け出しの救急救命士、予備の救急隊長です。現場に飲まれてしまいそうなこの緊迫の状態で必死に必死に冷静になるよう、まるで自分で自分に言い聞かせるように隊員に下命しました。
救急隊長「まず観察、基本通り活動するぞ」
救急隊員「了解」
救急隊長「…脈拍なし」
救急隊員「…呼吸感ぜず」
救急隊長「これじゃ人工呼吸はできない、胸骨圧迫のみ実施、口腔内の粘液吸引まで連続で胸骨圧迫のみ実施しろ」
救急隊員「了解!1,2,3,4…」
傷病者の口、鼻、空気の通り道は粘液で満たされていました。胸骨圧迫心マッサージと人工呼吸、30:2の割合で実施しなくてはならないのですが、このままでは人工呼吸はできません。隊員がともかく絶え間なく胸骨圧迫心マッサージを実施、救急隊長は人工呼吸ができるようにするために口に吸引器のチューブを入れて吸引する。ずるずると吸い上げられる粘液、かなりの量の粘液が口腔を満たしていました。
救急隊長「ご家族の方、落ち着いて聞いてくださいね、現在、Kさんは呼吸も脈拍も感じられない危険な状態です。今、私たち救急隊で心肺蘇生法を実施しています」
奥さん「いやー!しっかりして!何やってるの!しっかりしてー!」
救急隊長「奥さん、しっかりしてください!今、蘇生処置をしています。たいへんな時ですが、教えてください。ご主人は何かご病気とかお持ちではありませんか?」
奥さん「何も病気なんてありません、今日もずっと元気でした」
救急隊長「頭が痛いとの通報でしたが」
奥さん「昼間、頭が痛いって言っていました、あと肩がこるとも、ただこんな風になるなんて…」
救急隊長(頭痛、突然のCPA、くも膜下出血か?でもこの粘液は?何が原因だ?どうする?…どうする??)
救急機関員「隊長、到着しました」
救急隊長「傷病者はCPA!AEDを装着しろ」
救急機関員「了解」
原因を検索するも判断が難しい。迷う時にはとにかく基本に立ち返ろう「救命のABC」Aは気道、Bは呼吸、Cは循環です。この傷病者は原因はどうあれまず肝心のA、気道が粘液で塞がれていました。
救急隊長「これから指示要請を入れる、特定行為は気道の確保から実施する」
救急機関員「了解、準備します」
緊迫の現場の中、家族へ現在の状況を説明し、救急救命士として行うべき特定行為の必要性を理解してもらった。本部の医師へ連絡を入れる。
救急隊長「○救急隊です。40代の男性はCPA、CPRを実施中…」
消防隊長「消防隊到着しました」
救急隊員「CPR実施中です、消防隊はCPRを支援してください。隊長は指示要請実施中です」
消防隊長「了解」
到着した消防隊によりCPRやこれから行うべき搬送の支援が行われます。消防隊の支援でマンパワーが確保された。救急救命士が行う特定行為はどうしてもそれを補助してくれる隊員のサポートが欠かせません。
救急隊長「指示要請完了、医師の指示を得た、気道の確保から実施」
消防隊員「了解、準備できてますよ」
消防隊長「よし、心マ中断、口腔内を再度確認」
Kさんの口腔内はまだ粘液が満たされていました。吸引を実施し喉の奥までWBチューブを挿入した。
救急隊長「挿入完了、換気確認」
WBチューブに装着したバックマスクをもんだ。傷病者の胸は上がるが胸部からはずるずると粘液の音が聞こえる。換気は十分とは言えない…。それでもチューブを入れて少しは換気が改善した。抜いてしまっては傷病者の肺に酸素を送り込むことはほとんどできない。
救急隊長「換気に雑音あり、でもチューブは抜かない、上がってくる粘液は随時吸引実施、このままCPRを実施、換気が全く実施できなくなったらすぐに報告しろ」
救急機関員「了解」
さらにKさんの右腕から静脈路確保を試みました。しかし、静脈路確保はできず、静脈瘤置針に逆血はなし。
救急隊長「搬送開始、消防隊長、支援してください」
消防隊長「了解、準備できてるよ」
子供たち「お父さん頑張って!お父さん死なないで」
現場では家族の悲痛な叫びずっと響き渡っていました。
車内収容
救急機関員「車内収容完了、…了解、○病院救命センターに出発します」
Kさんのお宅から○病院救命センターまで約10分、深夜と言うこともあり救急車はほぼノンストップで走行できました。
家族「どうにか、どうにか助けてやってください、とにかくどうにか命を…」
救急隊長「今、ここでできる限りのことを実施しています」
家族「はい、どうにか助けてやってください」
病院到着
到着と同時にKさんは救命センターの処置台の上に移されました。医師たちの激しい声が飛ぶ
救命センター医師「状況を教えてください」
救急隊長「はい、傷病者は40代の男性でKさん、救急隊の到着時、自宅居室でCPAでした。特にこれと言ったご病気もない方で…」
医師への引継ぎを行い、さらに病院にある書類に記載を行います。現場ではどのような状態であったのか、発見者は、行った処置はなどなど詳細な情報を記載します。救命センター処置室内、Kさんは一時、心拍が再会するなど救命の可能性が見える反応がありましたが、私たちが運び込んで1時間を待たず医師が死亡を判断するに至りました。処置室の外で待ったいた家族が入れられた。この時には奥さん、子供たち、他にも数名の家族たちが集まっていました。
奥さん「ねえ、ウソでしょ?しっかししてよ、何やってるのよ」
子供たち「お父さん、しっかししてよ!死んじゃ嫌だよ」
家族の男性「K、お前何やっているんだ!しっかりしろ」
救命センター医師「私たちも最善を尽くしましたが残念ですが…」
家族男性「先生、どうにかしてやってください!」
救命センター医師「私たちも最善を尽くしたんです、心臓がもう止まっているんですよ…」
家族男性「もうダメなんですか?」
救命センター医師「…はい、これ以上、蘇生処置を続けても可能性はありません…」
泣き崩れる家族たち、叫ぶ人、絶句する人…、Kさんにすがり付きとにかく生き返ってくれと訴える子供たち…。誰もかけてあげられる言葉が見つかりません。そんな時間がどのくらい続いたのでしょうか。
救命センター医師「これからKさんに刺さっている管や針を抜きます。ご家族は外でお待ち下さい、私の時計で○時○分、死亡を確認させていただきます」
泣き崩れた家族たちは処置室から出ていきました。
「心肺停止 死亡」
医師から傷病名と署名を貰った。
救急隊長「先生、原因はいったい何だったのでしょうか?」
救命センター医師「解剖してみないと原因は確定できませんが、肺が水浸しでした。経過からみても多分くも膜下出血の可能性が高いですね」
救急隊長「あの粘液は肺水腫から来ているってことですか?」
救命センター医師「多分そうだと思いますよ」
神経原性肺水腫、救急救命士テキストにも載っている病態ですが、それにしてもまるで溺れているようでした。
救命センター初療室から出た救急隊長、外にはKさんの家族たちが呆然と立ち尽くしていました。かける言葉がみつからない…。私を見つけたKさんの家族がこちらに駆け寄ってきました。
救急隊長「Kさんのご家族の方々…、私たちも最善を尽くしましたが残念な結果になってしまいました。お役に立てなくて申し訳ありませんでした。」
Kさんの家族「いえ、救急隊のみなさんには良くやっていただきましたありがとうございました」
救急隊長「私たちはこれで引き揚げます。失礼いたします。」
奥さんや他の家族の方たちからも感謝の言葉を頂きました。
奥さん「…ありがとうございました。他の隊員の方々にもよろしくお伝え下さい」
救急隊長「はい」
辛い現場、こんな中、私の心に一番突き刺さったのはKさんの子供さんからの言葉でした。
Kさんの子供「ありがとうございました」
救急隊長「…」
涙をいっぱいに溜めた目でかけられた感謝の言葉、私には返す言葉がありませんでした。ごめんね、何の役にもたてなかったんだ、君のお父さんを助けてあげることができなかったんだよ、ごめんね…。
帰署途上
救急隊員「本当に辛い現場でしたね」
救急隊長「そうだね、みなさんにもよろしくお伝え下さいって感謝の言葉を頂いたよ」
救急機関員「結局、助けてあげられなかったですけどね」
まだ辺りは真っ暗、深夜でした。帰署し、事務処理を終えてから仮眠を摂ろうと横になってもなかなか寝付けませんでした。救急救命士を職業にする以上、最善を尽くした傷病者の死亡が確認される、そんなことにも慣れなくてはいけないのでしょう。次の現場が待っているのです、切り替えなくちゃいけない。それでも私たちは人間です。そう簡単にはいきません。何度も寝返りを繰り返しているとまた救急寝室に出場ベルが鳴り響きました。…今夜も一睡もできないか。
忘れられない現場、私にはあの時のお子さんの「ありがとう」が今でも心に突き刺さっています。もっと良い指揮がとれていたならもっと早く搬送できたかもしれない。静脈路が確保できていたのならどうだっただろう?気管挿菅ができたのならどうだっただろう?薬剤投与ができていたなら?今でも自問自答することがあります。ただ、あの時はあの時できるベストの活動であったとも思います。あの時の悔しさを忘れず、もっと腕の立つ救急救命士になる。私にできることはそれしかありません。
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