優しくしないでもらえますか
これまで当サイトで様々な精神科疾患をお持ちの傷病者にまつわるお話を紹介させていただきました。そのお話に対して、精神科疾患にたいへん詳しい方から「うつ病」とされている方が実はうつ病ではなく、違う病気なのではないかと言うご指摘を頂きました。また、違う病気ではあるにも関わらず、うつ病という傷病名の下に治療が進行していくケースもけっこうあるようです。確かに精神科疾患をお持ちの傷病者には様々な状態の方がいると思いますが、治療中の病気を聞くと「うつ病」か「統合失調症」がかなりを占めていると思います。確かにこの2パターンで細分できるほど簡単な状態ではない状態の方々ばかりです。
この時の事案は10代の女性、もう完治したという疾患はうつ病と境界性人格障害でした。調べてみると…確かに境界性人格障害がぴったりの状態の方でした。
もう日付がかわろうとしていた深夜、いつものように消防署に出場指令が鳴り響きました。「救急出場、Sさん方、10代の女性は息苦しいもの」との指令に私たち救急隊は出場しました。10代の女性の呼吸苦、喘息などの疾患をお持ちの方も多いですが、精神的不安定な状態から過換気症候群になってしまう場合もかなりあります。そんな方の中には精神科疾患をもともと持っている方もけっこういるものです。指令内容から精神科疾患を持っている方である可能性は充分に推察できました。
現場到着
指令先のSさんのお宅に到着しました。資器材を携行して玄関ドアを開く。
救急隊長「こんばんは!Sさん、救急隊です、失礼します!」
ドアを開けると玄関部にはパジャマ姿の若い女性が座り込み泣いていました。この人が傷病者であること、そしてこの不安そうな表情から何らかの精神科疾患を持っていることがすぐに分かりました。
救急隊長「患者さんはあなたですね?どうしたのかな?」
傷病者Sさん「もうこの家になんていられません…。どこかに、どこかに連れて行ってください!」
傷病者はSさん、10代の女性で学校に通っていれば高校生です。
救急隊長「どうしたの?泣かないでどうしたのかしっかり教えてください」
Sさん「うううぅぅうぅうううぅうう…」
Sさんはとにかく不安定で泣き続けているのでした。
母親「どうしたんですか!?」
玄関で大声を出して泣いている娘、そして駆けつけた救急隊に驚いた様子で母親がやってきました。
救急隊長「お母さんですね?どうされましたか?」
母親「どうしたかと言われても…。娘が要請したんですか?」
さらにやっぱり驚いた様子で父親が奥からやってきました。
父親「すみません、娘が要請したみたいです、本当にすみません」
Sさん「だって、救急車しかなかったんだもん、私この家になんていたくない!ううううぅぅううぅうううぅうぅう」
また泣きじゃくるSさん。
父親「申し訳ありませんでした、大丈夫ですから」
救急隊長「ちょっと待ってください、私たちもどうして要請されたのか、状況も分からないままという訳にはいきませんから」
バタバタしたこの現場で、まずこの家族3人に落ち着いてもらい状況を聴取しました。傷病者のSさんは先月までここから20キロほど離れた精神病院に半年近く入院していた方でした。治療していた病気は「うつ病、境界性人格障害」とのことでした。自宅での療養が可能とのことで退院、ここひと月自宅にいたそうです。夕方頃、自宅にて父親と口論となり自分の部屋に鍵をかけて数時間、2階の自分の部屋からの救急要請に至ったとの事でした。両親とも1階のリビングにおり救急要請が行われたことすら知らなかったとのことです。状況を聴取している間に救急隊員がSさんのバイタルを測定していました。特に問題なし。
救急隊長「…そうですか、お話は分かりました」
ただの口論が原因で不安定になった娘が要請したもので病院に搬送する必要なんてないと言う父親、特にバイタルも問題ありません。ただ本人はこう言うのでした。
Sさん「私は病院に行きたいです、こんな所にいたらまた病気になっちゃいます。ううぅううぅうう」
泣きじゃくり病院への搬送を熱望する傷病者、搬送しない訳にはいきません。
救急隊長「ご本人が搬送を強く希望されていますので、私たちもこのまま帰る訳にはいきません。ご両親のどちらかが同乗していただきたいのですが」
Sさん「お父さんは嫌っ!お母さんが来て!」
もともとの原因が父親との口論です。Sさんは母親でないとダメだと訴えました。…さて、これは受け入れ先が決まらないぞ。。
車内収容
救急隊長「それではSさんが今までかかったことのあるご病気はうつ病と境界性人格障害、他に大きなご病気はありませんね?」
母親「はい、そうです」
Sさん「でももう治りました。先生にももう良くなったから退院して良いって言われたんです!なのにお父さんもお母さんもまだ私のことおかしいって思っているんです!うううぅぅう」
救急隊員「ああぁ…泣かないで分かったから、ね、ね?」
車内収容した直後はまだ落ち着かない様子が続いていたSさんでしたが次第に落ち着きを取り戻していきました。ただ、「不安、自分の家にいたくない、何となく息苦しい」と言う訴えは変りませんでした。先月まで入院していた病院は受け入れ不能、さらにこの病院を紹介したというもともとかかりつけだった近くの病院も受け入れ不能とのことで断られました。長時間の活動を覚悟していた選定3件目、まさかの受入れOKとなりました。
看護師「患者さんは今は大分、落ち着いているんですよね?」
救急隊員「ええ」
看護師「ひとまず診察することはできます。付き添ってくれる親御さんはいるんですよね?」
救急隊員「お母さんの同乗があります」
看護師「分かりました、どうぞこちらに搬送してください」
ひとまず内科医が診察する、もし精神科治療が緊急に必要な場合は他医療機関に転送となること、親の同乗があることが条件でしたが受け入れてもらえることとなりました。
病院到着
傷病者接触から病院到着までの間、不安定な状態だったSさんに優しく語りかけ続けた救急隊長と救急隊員、病院に到着する頃にはSさんの様子もすっかり落ち着いていました。ご機嫌が直った、そんな感じでした。歩いて救急車を降りたSさんは診察室へ
医師「こんばんはSさん、ちょっとお体を診せてもらうからそこに横になってね」
Sさん「はい、分かりました」
医師「救急隊さん、サインするよ」
救急隊長「お願いします」
医師の初期診断名は「呼吸苦 軽症」でした。
救急隊長「Sさん、それではお大事にしてくださいね、私たちはこれで引き揚げますから」
Sさん「…もう帰っちゃうんですか、…帰らないで下さい」
救急隊長「…お大事にね」
すがり付くような目で帰らないでと訴えたSさん、そんなこと言われても…医師に引き継いだら私たちは次の出場に備えないといけません。医師への引継ぎを終えて診察室を出ると待合室のベンチに母親が座っていました。
救急隊長「お母さん、救急隊はこれで引き揚げます、お大事に」
母親「あの…ちょっとよろしいでしょうか?」
立ち上がった母親はそう言って手招きをしています。
救急隊長「はい?」
救急隊長を待合室の隅まで連れてきた母親は小声で話し始めました。
母親「あの…お分かりかと思うのですが、あの子の病気治ってなんていないんです」
救急隊長「…。そうみたいですね」
母親「半年ほど入院したのですが、入院して治療できるものではないとの事で…、自宅で生活していく過程で治療するしかないそうなんです。怒鳴ったりするのは何の解決にもならないのは私たちも分かっていたのですが、今日はちょっといろいろあって主人がつい怒鳴ったんです、そうしたらこんなことに…」
救急隊長「…そうですか」
母親「あの…またあの子が119番通報したら来ないでもらうことはできませんか?」
救急隊長「いや…それはちょっと…、私たちは緊急に駆けつけるためにいますので…」
母親「そうですよね…、あの子またこうやってみなさんにご迷惑をおかけすることになるんじゃないかって思うんです…。あの…せめて優しくしないでもらえますか?」
救急隊長「…と言いますと?」
母親「あの子、とにかく依存するんです。入院していた時もそうなんです。優しくしてくれるお医者さんや看護師さんにとにかく依存して、そういう人たちにずっと迷惑を掛け続けるんです。そういう環境はむしろ良くないって先生が…だから退院することになったんです。」
救急隊長「娘さんが1日に何度も何度も救急車を要請するようなことになったら考えなくてはならないでしょうが、私たちもSさんのお宅には始めていきましたし、救急要請を何度もすると言うことはないですよね?」
母親「はい…、救急車を呼ぶなんてはじめてです」
救急隊長「私たちは要請されれば緊急に駆けつけることが使命ですし、患者さんの立場に立って活動するよう努めています。おっしゃることも良く分かるのですが…今ここで私の一存ではなんとも…」
母親「…そうですよね、分かりました。本当ご迷惑をおかけしました。」
救急隊長「いいえ、私たちはこれで引き揚げます、お大事になさってください…」
帰署途上
救急隊長「要請しても来ないでもらう方法はないかってさ」
救急機関員「要請されれば何があってもすっとんで行くのがオレたちの仕事ですからね~」
救急隊長「だよなぁ…オレたちの仕事の根幹から覆っちゃうよなぁ」
救急隊員「でも、お母さんの言うことも切実ですよね」
救急隊長「そうだね、あの様子だと繰り返しそうな感じだよな。依存するから優しくしないでくれとも言われたよ」
救急隊員「傷病者に優しく接するのも救急隊の仕事ですもんね」
救急隊長「本当、救急隊がやるべきことの逆を求められているからね…どうしたもんだろうね…」
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