救急救命士のため息現場 case28
私今ここで死にますから
救急活動で困ってしまうことは多々ありますが、救急隊員が悩まされることが多いのが精神疾患をお持ちの患者さんです。「痛いところはありません…なんか家にいたら不安になってきたので」「私気が狂っているんです、精神病院に連れて行ってください」「ち、地球が爆発する!ちち地球がぁ〜」救急隊は原則、精神科に患者さんを運ぶことはできません。医者でもない私たち救急隊が「この方は精神科に搬送だ」と判断すること自体、人権問題になる可能性があるからです。もちろん全部が全部そういう訳ではなく地域によっても異なるようですが、難しい法律、規定等々が絡み私ではとてもここで解説できませんがとにかくそういうことになっています。今回のお話は精神科への通院暦を持っている未成年の女性のお話です。
「救急隊、消防隊出場、○公園南入り口のベンチ、女性は手首を切り出血、なお自損(自殺)の模様」との指令に私たち救急隊、そして同じ消防署の消防隊がペアで出場しました。
現場到着。既に警察官数人が到着しており傷病者の少女と話をしていました。少女と話をしている警察官の手には少女から取り上げたカミソリが握られていました。
傷病者接触。
少女「だからあなたには関係ないじゃないですか、私がここで何をしたっていうんですか?」
警察官「いやね、別にあなたが悪いことをしたから私たちが来た訳じゃないんですよ」
少女「だったらほっといて下さい。私がなにをしようとどうなろうと関係ないじゃないですか」
警察官「ほっとく訳にはいかないよ、私たちが帰っちゃったらまた君は手首をコレ(カミソリ)で切っちゃうかもしれないでしょ?」
少女は10代の高校生、と言っても高校に行っているのかどうかは分かりませんでしたが。こんな感じで警察官とけっこうな剣幕で言い争いをしていました。ようは警察官に食ってかかれるくらい元気ということです。緊急性も重傷度もなさそうだ。私たち救急隊も精神科既往をお持ちの傷病者にはよく当たります。私の隊では多いときには10件中5件精神科疾患既往をお持ちの方だったなんてことまでありました。パっと見てだいたい分かります。
救急隊長「…とりあえずは創傷処置してきて、オレは警察官から情報取ってくるから」
救急隊員「了解!」
少女「だからほっといてくださいよ!関係ないでしょ!警察だからって悪いこともなにもしていない私をどうこうできる権利なんてあるんですか!」
警察官「別にどうこうするなんて言ってないじゃない」
本当におまわりさんも大変です。まさに困ってしまってワンワン泣いてしまいそう。そのおまわりさんに小声で声をかけた。
救急隊員「おまわりさん、どうもお疲れ様です。救急隊です。とりあえずですね、怪我の処置をさせてもらっていいですかね?」
警察官「あ、どうもどうもお疲れ様です。…そうですね、お願いします」
救急隊員「どうもこんばんは、救急隊です。お怪我したところを見せてもらっていいですか?」
少女「別にたいした怪我じゃないですからそんなことしてもらわなくていいですよ、ほっといてください!」
救急隊員「そんなこと言わないでさ、せっかく救急隊もこうして来たんだからひとまず怪我を見せてくださいよ、ね?」
そう言うと少女は不機嫌な表情で左手を救急隊員に見せた。左手首には3,4本のほそ〜い切創、新品のノートをめくったら指が切れちゃったなんてことありますよね?ちょうどあのくらいの深さです。もちろん出血は止まっている。カミソリで切ったというよりは撫でたって感じの創です。ただ、この少女、以前にも何度も同じようなことをしているのでしょう。手首には細かい傷痕が無数にありました。
救急隊員「ここを切っちゃったんですね?他に怪我しているところはありませんね?」
少女「…別にないです」
救急隊員「あなたはお名前を教えてください」
少女「…」
救急隊員「お名前教えてくださいよ」
滅菌ガーゼを当てながら声をかけるも教えてくれない。
少女「なんで名前を言わなくちゃいけないんですか?」
救急隊員「だって、病院にお連れするのに名前も分からない人を私たちもお連れできないもの。名前と生年月日を教えてもらって、お医者さんに状況や怪我したところを説明して救急隊は病院にお連れするんですよ」
少女「別にこんなの怪我じゃないですよ、病院になんて行かなくたって大丈夫です。」
救急隊員「(おっしゃるとおり!)そんなこと言わないで消毒してもらった方がいいですよ。ね、お名前教えてください」
警察官「そうだよ、ほら救急隊だってこうやってあなたのために来ているんだから名前教えてよ」
少女「名前を言うくらいなら私今ここで死にますから」
救急隊員「そんなこと言わないでよ」
警察官「ずっとこうなんですよ、名前も年齢も何にも言いたくないって…」
少女「…だからなんであなたたちにそんなこと言わなくちゃいけないんですか、あなたたちが勝手に来て騒いでいるだけじゃないですか」
警察官「そんな言い方ないでしょ!みんな心配してこうして集まっているんじゃない!」
少女「別に心配なんてしてくれなくていいですよ」
この少女のふてぶてしいことふてぶてしいこと…。でもおまわりさん、イライラしちゃだめ、そういうものだから。
救急隊員「分かった、じゃあね、お名前はとりあえずいいですから、あなたが今かかっている病院とか治療中のご病気とかあったら教えてください。私たちは救急隊ですからともかくあなたの身体が心配なの、大事なことですからこれだけはしっかり教えてください。」
この少女、警察官にはたいへんふてぶてしい態度なのですが救急隊にはふてぶてしい態度ではあるものの、まあいくらか素直に応えてくれました。
少女「○クリニックでパニック障害…それから統合失調症とも言われています」
救急隊員「(ああやっぱりね)そうですか、今も治療しているんですね?お薬ちゃんと飲んでいますか?」
少女A「はい…」
救急隊員「はい、分かりました」
さてと…どうしましょう。手首の創傷処置も終わっちゃったしバイタルも取った。ともかく本人が病院に行きたくない、おまけに名前も言いたくないって言うんじゃな…。ひとまずベンチの後ろの方で難しい顔をしている隊長に報告しよう。救急隊長はこの現場を指揮している警察官と話をしていました。
救急隊員「隊長、やっぱり○クリニックかかりつけでパニック障害と統合失調症を治療しているんですって、名前は言いたくないって、あと搬送も拒否です」
救急隊長「困りましたね…どうしましょうか?」
警部補「本当ですね、未成年だしな、このままほっとく訳にはいかないよなぁ…」
救急隊としても本人が搬送を拒否しているとはいえ未成年、やっぱりお医者さんに連れて行ってひとまず手首の消毒をしてもらって、もしお医者さんが精神科的治療が必要と判断したのなら精神科の医師が診察するって流れがベストです。警察官としても自分の手首を切っていた少女をこのままにしてまた何かあったら困ってしまいます。保護して保護者に引き渡すまではやはり帰る訳にはいかないでしょう。
救急隊長「ひとまず病院探そうか、事情を説明してさ、どうにか診てくれる先生みつけよう」
救急隊員「了解しました。じゃあ私は病院連絡してきますね」
救急隊長「病院に連れて行って消毒してもらうように説得しましょう。おまわりさんもいつまでもここにいてもらちがあかないですからそれでいいですよね?」
警部補「…そうですね、そうしましょうか、本当困りましたね」
救急隊長「そうですね、でも簡単には病院決まりませんよ」
救急隊のPHSを持って少女、救急隊、警察官の輪から離れた。消防隊員が駆け寄ってきた。あ!そう言えばペアで出場したんだった。
消防隊員「消防隊はいりませんよね?」
救急隊長「…そうだね、もう処置も終わっちゃったしあんな感じの傷病者だからね」
消防隊員「あの子かまってほしくてこんな騒ぎ起こしているんでしょ?困りましたね」
救急隊員「そうだね、そういう気持ちもあるのかもしれないね、ところで消防隊長とか他の隊員は?」
消防隊員「公園の防火水槽を見に行くとか言ってほらあっちにいますよ、もう帰っていいか俺に聞いてこいって」
公園の彼方で水利の位置を確認している消防隊長、さぞ退屈したのでしょうね。いつでも水利の位置を意識するのは消防官として素晴らしいですが今はだめだって〜…。
救急隊員「救急隊長に声かけて消防隊は引き上げたら」
消防隊員「そうですね、救急隊長に言ってきます」
病院連絡。
救急隊員「…そこをどうにかなりませんかね?入院治療の必要はないですから、本当手首をちょっとだけ切っているだけなんです」
看護師「未成年で名前も分からなくて精神科の現病でしょ、うちの当直は私と先生ふたりだけだもの、何かあったら(また自殺未遂でも起こされたら)とても対応できないわ、他の病院を当たってください」
救急隊員「そうですか、分かりました…」
はぁぁ、病院が決まらない…。ブロロロロロロ〜!あ〜あ消防隊が引き上げていく。消防隊長がお疲れさん!と小さな敬礼をして行った。あんた水利調査してただけじゃね〜か。…次はどの病院に当たろう。何件当たったでしょうか?ひとまず診てくれる病院が決まりました。診察の条件は保護者が来ないようなら救急隊でも警察官でもいいから少女を絶対ひとりにしないこと。警部補さんもそれに納得し救急隊は少女を乗せて病院に向かいました。
少女を自力歩行で車内収容、そして現場出発。30分くらいかかったでしょうか。ただこの少女、先ほどまでのふてぶてしい態度もなくなり名前や生年月日を教えてくれました。
病院到着。怪我はもちろん軽傷で消毒してバンソウコウを貼っておしまいです。治療が終わり病院の待合室に私たちは待機、病院との約束、少女をひとりにしないためです。すぐに警察官が病院にやってきました。で、この少女、警察官を見たとたんまたあのふてぶてしい態度に。とにかく警察官が気に入らないのでしょう。
警察官「それじゃあ治療も終わったしご両親に迎えてきてもらおうよ」
少女「親に連絡されるくらいなら今ここで死にます」
警察官「またそんなこと言う…」
このおまわりさんにはたいへんたいへん申し訳なかったのですが、救急隊はそ〜っと帰ってきました。
救急隊員「看護師さん、おまわりさん来てくれましたから私たち引き上げますね」
看護師「はい、分かりましたお疲れ様です」
警部補「どうもお疲れ様です」
なんだよ、帰っちゃうの?そんな感じで恨めしそうに言いました。
救急隊「どうもお疲れ様です。後はよろしくお願いします」
結局この少女は警察官に保護されたのか、それとも親が迎えに来たのかはわかりませんでしたが、出場から引き上げまで相当の時間を要したのは間違いありません。精神科に絡む出場要請は困らされることが多いのは事実ですが、まだまだ精神科の病気に対する社会的な偏見、差別が非常に大きいと言うのも痛感します。
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