あの病院は点滴に毒を入れるのです
救急隊員たちが出場する現場には様々な背景があります。喧嘩や傷害事件などの現場ではトラブルの果てに怪我人が発生しており、私たちはそのトラブルの真っ只中に飛び込んでいくこととなります。指令段階でそういった状況が予想される場合は、指令と同時に警察官を要請したり、消防隊や指揮隊を同時運用したりと、救急隊も単隊での行動を行わず、複数隊で活動するなどより慎重な活動を行います。この日のこの活動、明らかにトラブルになっている現場、しかもいちゃもんをつけているとしか思えない内容…、巻き込まれたらたいへんでした。
「救急出場、60代の女性は転倒し足部を受傷したとのこと。通報は飲食店○の従業員の○さん」との内容で私たち救急隊は出場しました。
消防署を飛び出した私たち救急隊、指令先までは10分弱と言う距離でした。指令先電話番号に電話を入れます。
救急隊員「もしもし、そちらはお店で○さんですか?」
従業員「はい、そうです」
救急隊員「救急隊です、今、そちらに向かっています。女性が足を怪我されているとのことですが、どうされましたか?」
従業員「えぇ…店の前の段差でつまづいたとかで…怪我をしたから救急車を呼ぶように言われました」
救急隊員「それはご本人にですか?」
従業員「そうです」
救急隊員「それではお話はしっかりできる状態と言うことですね?足以外にお怪我をしている様子はありませんか?出血などありませんか?」
従業員「ありません、大丈夫だと思いますけど…」
救急隊員「分かりました、もう少しで到着しますのでお待ち下さい」
何かふて腐れたような従業員の対応、何かありそうな雰囲気が感じられました。
現場到着
現場は飲食店の前、発生場所はお店の敷地内でした。お店の従業員であろう男性とその横で座っている女性、彼女が傷病者でしょう。
傷病者接触
傷病者は60代の女性でTさん、お店の前で座り込んでいました。
救急隊長「こんにちは、救急隊です」
傷病者「やっと来たわ!私が怪我しているって言うのに救急車を呼ぼうとしないのよこの人たち」
救急隊長「そうですか…足はどちらの足ですか?ちょっとみせてください」
傷病者「左足です、ここです、足首がほらこんなに腫れちゃっているじゃない!」
救急隊長「えっと、左の足首ですね…?ここですか?痛いの?」
傷病者「そう、あんな段差があるから悪いのよ!お店の安全対策がなっていないのよ!」
救急隊員(腫れている?とてもそうは見えないけどな…)
救急隊長「それではTさん、救急隊のストレッチャーに乗ってもらって、救急車の中でよく見せてくださいよ」
傷病者「分かりました、どこの病院に行くのかしら?」
救急隊長「それはTさんのお怪我の様子をもっとよく見せていただいてから連絡します」
傷病者「それならあなた!ちょっと連絡先を教えて!」
従業員「はい、私は店長の○と申します、本当に申し訳ありませんでした」
傷病者「治療が終わったらまた連絡するから!」
店長さんから名刺を貰うTさん、とにかく怒りの収まらない様子でした。この受け答えの様子、それから表情、私たちはこの時点でよく分かっていました。この方、何か精神科疾患をお持ちの方でしょう。それにしてもつまづいたというお店の前の敷地、きれいなタイル張りになっており、つまづくようなところはないように思えるのですが…。
車内収容
Tさんを車内収容した救急隊、隊長が状況を聴取、さらにバイタルサインなどを測定しました。救急隊員は店長さんからお話を聞くこととなりました。
救急隊員「店長さん、患者さんはつまずいたのが原因と言われていますけど、どこにつまずいたのでしょうか?」
店長さん「あの…なんでもそこらしいです」
救急隊員「え?どこ?どこですか?」
店長「いや…だからそこです」
救急隊員「へ…?」
店長さんが指を刺したのはきれいに並んでいるタイル張りの床でした。タイル張りですからタイルとタイルの間に確かに少しは段差があります。その段差、約1mm弱というところでした。
店長さん「それが段差で、それが悪いから怪我をしたと言うことなんですよ」
救急隊員「…そうですか、分かりました」(お気の毒さまです…)
店長さん「あのう…これってうちが悪いってことになるんですか?」
救急隊員「いやぁ…どちらが悪いとかそういう判断は救急隊ではできません、ごめんなさいね」
店長さん「はぁ…、まあそうですよね」
ガックリしている店長さん、いちゃもんをつけられている、からまれている、まさにこう言うことを言うのでしょう。「肩が触れたから骨折した、慰謝料払えやコラ!」まるでどこかのコントに出てきそうなチンピラレベルです。本当にお気の毒様です。
病院選定中
救急隊長「それではTさん、左の足首だけですね、お怪我したのは?」
Tさん「ええ」
救急隊長「かかられているご病気はありますか?」
Tさん「うつ病と統合失調症で○病院にかかっています」
救急隊長「他にはありませんね?」
Tさん「ええ、ありません」
救急隊長「今、ここから一番近くの病院だと、F病院という病院があるのですがどうですかね?」
Tさん「F病院?」
救急隊員「ほら、ここからだと○通りをまっすぐ行けば見えてくる病院ですよ」
Tさん「あのF病院ね!あそこは絶対にダメよ!」
救急隊員「絶対にダメ?F病院はダメですか?」
Tさん「あの病院には昔にかかったことがあったんです、あの病院で点滴に毒を入れたのよ!」
救急隊員「どく?毒ですか?」
Tさん「看護師が点滴に毒を入れたのよ!私はそう訴えたんだけど、そんなことある訳ないって、でもこれは絶対間違いないことなんです」
救急隊長「そうですか、それじゃあF病院にはお連れできませんね」
Tさん「そうです、また毒を入れられちゃうわ!違う病院にしてください」
救急隊長「そうですか、それではもうちょっと遠くになってしまいますがE病院と言うところがありますからそこから連絡してみましょうね」
救急隊長が搬送連絡をしている間にも、Tさんはこのお店の対応にたいへん腹が立ったこと、F病院の看護師に毒を入れられ死にそうになったことがあるなどなど…怒りまくっているのでした。そんな事をおっしゃらずに、まあまあと隊員がなだめるのでした。はぁぁ、ふぅ…、この矛先が救急隊に向いたらたいへんだ…。
病院到着
「左足打撲 軽症」
帰署途上
救急隊長「お気の毒だったな、あの店長さんも」
救急機関員「悪質なクレーマーだよなぁ、でもTさんの場合、本気だからな、だから余計にたちが悪いかもね」
救急隊員「一生懸命やっている看護師さんに毒を入れたとか言う訳ですからね…」
救急機関員「精神科疾患を持っているから診られないと言われてしまう訳だよなぁ」
救急隊長「偏見なんだけどね…今のTさんだって病気からなのか性格なのか分からないよ」
救急隊員「精神科疾患の人がみんなそんなこと言う訳じゃないですからね」
救急隊長「まだ昼間だからよかったけど、深夜だったらこんな風には病院が決まらなかっただろうな」
救急機関員「そんなことになっていたらオレたちにも怒りの矛先が向きそうだな、あのTさんの場合…」
救急隊員「そうですね、あの雰囲気では…町に投書してやるわ!とか言いそう…」
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