溜息の現場
救急車は緊急車両、119番通報は緊急事態の際に活用するSOSの手段です。とは言え、緊急事態とは思えない際に救急車が活用されていると言うことはこのサイトで数々紹介してきた通りです。
適正な利用がなされていないことが救急要請が増大している大きな要因ですが、その要因のひとつに「入院目的」があります。救急車で医療機関にかかれば入院できると思っている方が多いのです。
もちろん、そんな事はなく救急車で医療機関にかかろうが、自身でかかろうが、入院するかどうかは医師が診察し判断することです。
救急車で病院に行けば入院できるのだろう。「入院できる病院に連れて行ってくれ」こんな訴えはよくあることです。今回、紹介するお話はさらにその上をいく方のお話です…。
出場指令
「救急出場、○町○丁目…T宅、女性は膝の痛み動けないもの」
との指令に私たち救急隊は消防署の車庫を飛び出しました。出場途上に状況を確認しようと通報電話番号に連絡を取るも応答はありませんでした。(119コールバック応答なし)
現場到着
指令番地のT宅の前に停車すると家の前には女性が立っており手を挙げていました。
機関員「あそこです、案内人あり!」
隊長「いや…案内人…ではないんじゃないか?」
機関員「本当だ、小脇に抱えてますね」
女性が抱えているのはバッグ、着替えや洗面用具など入院セットを入れるにはちょうど良さそうなサイズのものです。入院予定や入院希望の方が準備万端で救急要請する場合に持っていることが多いサイズのバッグでした。
傷病者接触
隊長「救急隊です、要請頂いたTさんですか?」
Tさん「そうです」
傷病者のTさんは60代の女性でした。指令の内容は膝の痛みで動けないとの事でしたがしっかりと身支度を整え、家の前で救急車の到着を待っていたのでした。
隊長「患者さんはあなたですか?」
Tさん「ええ」
隊長「膝が痛いとお聞きしているのですがご自分で救急車に乗り込むことはできますか?救急車の中で詳しいお話を聞かせていただきたいのですが」
Tさん「ええ、そのくらいなら問題ありません」
隊長「そうですか、ご自宅はご家族がいます?留守になりますか?」
Tさん「今、皆、出掛けています」
隊長「戸締りや火の元は大丈夫ですか?」
Tさん「大丈夫です、全部確認しました」
ふぅ…やれやれ準備万端だ…。どこかに入院するのが目的の方…か。こんな感じの現場はいつものこと、ところがTさんはさらに上手で…
車内収容
Tさんは自ら救急車に乗り込みました。隊長がTさんから状況を聴取、隊員はTさんのバイタルサインの測定を始めました。
Tさん「○町にM病院と言うのがあるでしょ?そこに連れていってもらいたいの」
隊長「M病院ですか、TさんはM病院がかかりつけなのですか?」
Tさん「いいえ、かかったことはないのだけど膝の治療にはM病院が良いって聞いたのよ、ずいぶん評判も良いって話だし」
隊長「はぁ、そうですか…ただ初診になるのですよね?」
Tさん「ええ、初診じゃダメなの?」
隊長「いえ…ダメと言うことはありませんが、M病院はここからではかなり距離があるものですから…、Tさん、その膝の痛みはいつからですか?同じ症状でどこかにかかられたことはありませんか?」
Tさん「ありますよ、いくつも」
隊長「いくつも?いくつもと言うと?」
Tさん「K病院でしょ、それからE病院、あとはA病院、O病院…それに…」
Tさんはバッグから数々の医療機関の診察券を取り出し説明しはじめたのでした。Tさんが膝の痛みに苦しんでいたのはもう数年も前からのことになるのだそうです。変形性膝関節症という診断名もついていました。
近所にある整形外科のある医療機関はほぼ網羅されていました。どこの病院にかかっても電気治療や痛み止め薬がだされるだけでいっこうに良くはならなかったのだそうです。
Tさん「どこに行っても良くならなかったの、M病院なら手術をしてくれて良くなるって話だからM病院にお願いします」
TさんはM病院への搬送を強く希望し、おまけに手術をしてほしいと訴えたのでした。
隊長「いや、あのですね…Tさん、まず仮にM病院にかかったとしても入院して治療するか、手術をする必要があるのか、そういったことは医師が診察した上で判断することですから、我々にはどのような治療がされるかは分かりません」
Tさん「…そうですか」
隊長「…それから救急車は緊急車両です。救急隊は患者さんの状態を確認させて頂いて、症状に合った科目で対応可能な医療機関を近くから選定するのが原則です。もちろん、かかりつけや同じ症状でかかったことがあるなど考慮する部分はありますが…、ですからTさんの場合、同じ症状でかかられたことのある整形外科の病院が近くにいくつもありますので、いきなりかかったことのないM病院に連絡というのはちょっと…」
Tさん「でも、この近所の病院ではちっとも良くならないのよ」
隊長「はぁ…ただ、M病院なら良くなるなんて事は分かりませんし、それにその痛みがいつもの変形性膝関節炎から来る痛みなのかどうかも我々には判断がつきません。むしろ、同症状でかかったことのある医療機関の方がいつもの変形性膝関節炎からの痛みなのか、違う原因がら来ている痛みなのか、過去の経過が残っている病院の方が良いと思いますよ」
Tさん「これはいつもの痛みです、もう何年もこの膝と付き合っているのよ、間違いないわ」
隊長「そうですか…ただ、万が一、緊急性のあるものが原因の場合もありますから、我々としてはお近くの医療機関に早くお連れしたいのですが…」
Tさん「でも…これはいつもの痛みです、そんなに緊急ってことはありません、この痛みをどうにかしたのよ、M病院にお願いします!」
…Tさんはこの痛みは緊急じゃないと宣言し熱烈にM病院への搬送を希望したのでした。緊急じゃない時に救急車を使っちゃダメ…。
Tさんの希望通りM病院に連絡した場合、「それはまず経過の分かる近くの病院から連絡をとるべきでは?」と指摘されることが目に見えています。
それに救急車は公共のサービスです。近くの医療機関に傷病者を搬送し、早期に次の災害に備えることも大切な仕事なのです。原則に目をつぶりM病院から連絡を始める活動はどうなのでしょうか?それは全体の奉仕者としていかがなものか?さらにはTさんにとってだってそれは良いことなのでしょうか?
とは言え、どうにか説得し、かつて同症状でかかったことのあるがいっこうに良くならなかったという近所の医療機関から選定すればどうなるでしょうか?「救急隊は私の希望を無視した」とトラブルに繋がることもあり得ます。…さて、どうしたものか。
トントン…救急車のサイドドアを叩く男性が…
男性「あの~…」
隊員「はい」
男性「もしかして乗っているのはTではありませんか?もしそうなら私は息子なのですが」
隊員「Tさんですか?」
男性「はい、そうです」
出掛けていた息子が帰宅したのでした。
息子さん「母はどうしたのですか?大丈夫なんでしょうか?」
隊員「膝が痛いと要請されました、お話はしっかりできる状態ですから、こちらからどうぞ」
息子さんが救急車に乗り込みました。
Tさん「いいわよ、私ひとりで行くから、あなたは家にいなさい」
息子さん「何言っているんだよ、救急車を呼ぶほどのことなんだろ、家族が一緒の方が良いじゃないか」
Tさん「そんなに大したことことじゃないわよ」
息子さん「何言っているんだよ、で?どこの病院に向かうのですか?」
隊長「いえ、それがまだ決まっていないのです」
息子さん「そうですか、それならA病院はダメですか?何度もかかったこともあるし、なぁお袋、この前までかかっていたよな?A病院に連れて行ってもらおう」
Tさん「…」
隊長「…いや、そのですね…、お母さんがご近所の医療機関は希望されていなくてですね…、○町のM病院を希望されていまして…」
息子さん「はぁ…○町のM病院、…ですか?何でまたそんな遠いところまで?」
隊長はこれまでの経過、救急隊はまだ選定を始めてもいないことを説明しました。
息子さん「なるほど…分かりました、とりあえず近くで診てもらって判断してもらおう」
Tさん「ダメなのよ、だってちっとも良くならなかったんだもの」
息子さん「救急隊は緊急のものなんだよ、早く診てくれるところに連れて行くのが仕事なんだよ、そんなわがまま言ってちゃダメだろう」
Tさん「…A病院?」
息子さん「そうだよ、A病院でもK病院でも良いよ、まずは近くの病院で判断してもらえば良いじゃないか」
Tさん「だってどうせ痛み止めが出るだけなんだもの…手術するほどのものではないって…」
息子さん「そんなの診てもらわないと分からないじゃないか」
Tさん「分かるわよ!いつもそうなんだから、手術してもらわないともう良くなんてならないのよ」
隊長「いや…ですからTさん、M病院なら手術をするなんてことはありませんよ」
息子さん「なんだってそんなにM病院が良いんだよ?」
Tさん「だって、ほら、○さんところの奥さんがM病院で手術してもらったらすっかり良くなったって…」
息子さん「何言っているんだよ!そんなことで救急隊の方に迷惑かけるんじゃないよ、どこかの奥さんと同じじゃないだろ、何言っているんだ!」
Tさん「…」
息子さん「もうけっこうです、申し訳ないですが近くから連絡して頂けますか?」
隊長「はぁ…よろしいですか?Tさんもそれで良いですか?」
Tさん「いいえ…もうけっこうです、近所の病院にかかっても仕方がありませんから、自分でM病院に行きます」
隊長「はぁ、そうですか…ただ、先ほどから申しあげている通り、その痛みがいつもの変形性膝関節炎からのものなのかどうか我々には判断がつきませんから大丈夫かどうかは分かりませんよ」
Tさん「大丈夫です、自分で行きますから」
息子さん「じゃあオレが車で連れて行くよ、そうしよう」
Tさん「いいわよ、タクシーでも呼んで自分で行くわよ!」
隊長「そうですか…」
「不搬送、傷病者搬送を辞退」
ふて腐れた様子のTさんは救急車を降りて家に入っていきました。
息子さん「ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした、本人があのように言っていますので大丈夫です」
隊長「いいえ、とんでもありません、それではこれで私たちは失礼します。お母さんなのですが、膝が痛いのは事実でしょうから、どちらかにはかかられた方が良いと思います、それはお願いします」
息子さん「ええ…それは私も知っているんですよ、もうあちこちにかかっては良くならない良くならないって…いい加減にしろって言っていたものですから…本当に申し訳ありませんでした」
隊長「いいえ、失礼します」
帰署途上
機関員「また新しい病院に連れて行けなんて言ったら怒られるから息子の留守にオレたちを呼んだってことですかね?」
隊長「多分そうなんだろうな…」
機関員「やれやれ…受診するのは自由だけど救急車でってのがなぁ…」
隊長「入院希望かと思ったらあの奥さんはもっと上手だったな」
隊員「ええ、まさか手術希望とはね…救急車で行けば入院になって手術してもらえるって思ったんじゃないですか?緊急車両を呼んでおいて緊急じゃありません、…ですからねぇ…」
機関員「うちの奥さんにも似たようなところがあるんだけどさ、何だってあんなに近所の奥さん仲間の情報を信頼するのかね?」
隊長「ああ、うちもそうだ、テレビ番組の司会者が良いって言ったらいつも翌日に買ってくるよ、この前なんてスーパーで売り切れてるの、同じような人がいっぱいいるってことだよな」
隊員「専門の整形外科を巡ってどの先生もみんな大丈夫って言っているのが信じられなくて、近所の奥さんの言うことは真に受けるのだから意味不明ですね」
機関員「大丈夫じゃないって言われないとダメなんじゃないのか?」