ラーメンを作ってくれないかしら

仰天の現場

日本の高齢化社会が年々進んでいます。そんな話はもう何年も前から問題とされ、この国がこれから解決しなくてはならない大きな課題とされてきました。

とは言え、私はこれまで日常生活の中で高齢化社会を実感することなどなかなかありませんでした。

職場環境を見れば多くの先輩方が定年退職を迎え、後輩が大勢入ってきました。高齢化どころか逆に職場は若返っているのです。

高齢化社会をあまり感じない職場ですが、一歩外に出るとそこには違う世界が広がっているのでした…。今回紹介するお話は高齢化社会、行政、核家族、福祉などなど様々な問題が入り組んでいます。みなさんはどう思われるでしょうか?


出場指令

お昼時の消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁○アパート○号室Tさん方に詳細は不明、高齢の女性は腰部痛、動けないもの、通報は○町にあるケアセンター職員のHさんから」

救急隊は昼食を流し込み現場に向かいました。指令を受けた消防隊員が声をかけてきました。

消防隊員「隊長、指令の付加情報です。Tさんは高齢の女性だそうで○町のケアセンターで介護のサービスを受けている方だそうです。今日はそのケアセンターに動けないからと通報があったとのことだそうですよ」
救急隊長「了解、頼まれ通報だから詳細は分からない訳だね」
消防隊員「ええ、そうみたいです」


現場到着

指令先は昭和の臭いの漂うアパートでした、Tさんのお部屋は○号室です。隊長がドアを叩き呼びかけます。

隊長「こんにちは、Tさん、救急隊です、開けますよ~」

ガチャ…ドアを開くとそこには高齢の女性が立っていました。あれ?腰部痛で動けないのでは?そんな疑問よりも何よりもこの部屋は…


傷病者接触

傷病者は高齢の女性でTさん、この部屋で一人暮らしをしている方でした。部屋にはお弁当やジュースの空き箱やビニールなど様々な物が数十センチに渡って積みあがっており床は全く見えない状態、さらに壁には雑誌や新聞、ゴミなどが大量に詰まれており部屋の中央部分しか使えない状態になっていました。まさにゴミ屋敷状態です。

隊長「こんにちは、Tさんですか?救急要請されましたよね?」
Tさん「はあ?救急要請?」
隊長「ええ、私たちは救急隊ですよ、Tさんですよね?○ケアセンターのHさんから通報を頂いて駆けつけたのですよ」
Tさん「??」

ポカーンと分かっていない様子のTさんでした。

隊長「あの…?Tさんですよね?いつも介護サービスは○ケアセンターにお世話になっていますよね?今日は腰が痛いとお聞きしているのですが」
Tさん「腰?そうそう腰が痛いのよ、ああ!それで来てくれたの?」
隊長「ええ、そうですよ、腰が痛くて動けない方がいるからと私たちが駆けつけたのですよ、立っていて大丈夫ですか?」
Tさん「そう、良かったわ、それじゃあね…」
隊長「ちょ、ちょっとTさん、どこに行くんですか?ちょっとTさん!」
Tさん「少しそこで待っていてちょうだい」

そう言うとTさんはゴミの壁の隙間を抜けて奥の部屋へと入っていったのでした。

隊員「ふぅ…とりあえず動けないって事はなさそうですね、これだけあればよさそうだ、あとの資器材は撤収しますよ」
隊長「ああ、そうだな、そうしよう」

バイタルサインの測定など観察に用いる資器材を残し撤収することにしました。部屋の奥からはガシャ、バリバリと何やら物音がしています。

隊長「Tさ~ん、大丈夫ですか?」
Tさん「あった、あったわ」

バリバリバリ…プラスチックや缶などのゴミを踏み潰しながらTさんはフラフラとした足取りで救急隊の下へと戻ってきました。それにしてもこの部屋で一人で暮らしていられるものなのだろうか…。

Tさん「それじゃこれを買ってきてちょうだい」

は?何?何だって??Tさんは小銭入れを隊長に渡し、薬の空き箱を見せたのでした。

隊長「Tさん、私たちは救急隊!救急隊ですよ!具合の悪い人を病院にお連れするのが仕事です、お薬を買ってくることはできませんよ」
Tさん「え?そうなの?救急隊?」
隊長「そう、私たちは救急隊、介護ヘルパーではありませんよ、病院にお連れするのが仕事です」
Tさん「あら、そうだったの」
隊長「ねえ、Tさん、ひとまず血圧など測らせていただいてもよろしいですか?今日はどうされたのか良くお話を聞かせてくださいよ」

Tさんを介助し椅子に座らせ詳しい話を聞きバイタルを測定することにしました。バイタルサインに特に問題はありませんでした。どうやらこのTさん、腰が痛いのは本当のようで、薬を買ってきてほしいとケアセンターに電話したとのことでした。

それがどういう訳か腰痛で動けない、だから119番通報にと至ったようでした。状況を聴取しようにもTさんのお話はどうも繋がらないのです。現在治療中の病気やかかりつけの医療機関も分かりません。

隊長「なるほどね、でもTさん、腰が痛いのは辛いでしょ?病院では診てもらっているのですか?」
Tさん「いえね、病院にかかってもちっとも良くならないのよ、年だからね、いつもこの薬を塗っているの、これが一番効くのよ、でももうなくなっちゃってねぇ」
隊長「そう…、でも救急隊は買って来てあげることはできないんだよ」
Tさん「そうなの…前は頼めたんだけどねぇ、腰が痛くてねぇ」

Tさんはまだ救急隊とヘルパーとの区別が付いていないようでした。さてどうしたものか…このまま放っておく訳にはいきません。

隊長「腰はどうされたのですか?何かきっかけはあるのですか?」
Tさん「いえね、ずいぶんと前からずっと痛いのよ」
隊長「私たちはお薬は買ってきてあげられないけどお医者さんのところにお連れすることはできますよ、お医者さんに診てもらいますか?」
Tさん「そう、そうねぇ、診てもらおうかしらねぇ」
隊長「Tさんが連絡を取ったケアセンターと言うのはこちらの番号ですか?」
Tさん「ええ、そうよ、そこに薬がないって電話したの」
隊長「そうですか、私たちはこのケアセンターの方の要請でここに駆けつけたのですよ、どうも状況が分からないので私たちからもこちらに連絡を取らせてもらって良いですか?」
Tさん「ええ、どうぞ」

Tさんの部屋にある電話の前には大きくケアセンターの電話番号、さらにいくつかの連絡先が書かれているのでした。

ここまでのやり取りでも充分に考えられるのはTさんは認知症であるということです。本人からのお話ははっきりせず状況が見えてこないのです。

隊長はTさんの了解を得て通報者であるケアセンターに連絡を取ることにしました。


通報者からの情報聴取

電話に出たのは通報者のHさんでした。

隊長「…という状況なのですよ」
Hさん「そうでしたか、腰が痛くて動けないと連絡を受けたものですから…申し訳ありませんでした」
隊長「Tさんのところにはいつもそちらのヘルパーさんが訪問しているのですか?」
Hさん「いえ、実はTさんはもうずいぶん前から当センターを利用されていないのです、今日はどうしてこちらに連絡が来たのか…」

HさんによるとTさんはずいぶん前までこのケアセンターの介護サービスを利用していたとのことですが、利用しなくなってずいぶん経っているとのことでした。

当時は軽度の認知症があったがヘルパーの訪問介護で一人暮らしが可能な方であったそうです。どうやらヘルパーと共に買い物に出かけたりすることがあったようです。

Hさんによると当時、窓口になっていたのは町の福祉課、担当はKさんであったとのことでした。

隊長「そうですか、分かりました、状況が分からなくて困っていたのですよ、ありがとうございました」
Hさん「いいえ、ご迷惑お掛けします、よろしくお願いします」
隊長「えっと、福祉課担当のKさん…、Kさん…と、これだな」

Tさんの電話の前のいくつかの連絡先にはKさんの電話番号がやはり大きく書いてあるのでした。どうやらこの活動、ここに書いてある連絡先が鍵になりそうです。隊長はこれら電話番号をメモに取り指示しました。

隊長「ひとまず車内収容しよう、腰以外にも痛いところがないか全身をしっかり観察させてもらおう」
隊員「了解です」
隊長「ねえTさん、腰が痛いのですよね?お医者さんに診てもらいましょう、ねえ?」
Tさん「そうねぇ」
隊員「それではTさん、私が介助しますから救急車まで一緒に行きましょう、さあ足元を気をつけて」
Tさん「ねえ、あなた」
隊員「はい?」
Tさん「ラーメンを作ってくれないかしら」
隊員「Tさん、私たちはヘルパーさんじゃないですよ、私たちは救急隊ですよ、ご飯は作れませんよ~」
Tさん「あら、そうなの?」
はぁぁ…やれやれ。


車内収容

Tさんを車内収容し全身をしっかりと観察させてもらいました。ご本人の訴えは腰部痛のみ、他に痛いところはないとのことでした。確かに全身に外傷はありませんでした。救急隊は受け入れ先医療機関の選定を始めましたが恐らくそう簡単には決まりません。

この状況から言ってもTさんの認知症は進行していると考えられます。一人暮らしをしていますが、部屋はゴミ屋敷、もうそれを続けるのは難しい状況になってきていると考えられます。

家族がいるかどうかも不明です。選定するにも情報が足りない。機関員が医療機関の選定に当たり、隊長は福祉課の担当者だと言うKさんに連絡を取ってみることにしました。


町の福祉課に連絡

福祉課には確かにKさんが勤務しており、今もTさんの担当者だと言うことでした。

隊長「…という状況なのですよ」
Kさん「いやぁ…そうでしたか…それは困りましたね…いやぁ、困ったなぁ…実はですね…」

KさんはTさんに関わる状況を把握していました。Tさんはこちらのお宅に一人暮らしをしている方で生活保護を受給して暮らしているのだそうです。

先週まで肺炎で○病院に入院していたとのことでした。腰部痛があるのは腰椎の圧迫骨折があるからだそうで、それは入院して治療するようなものではなく、自宅で安静な生活をし療養するしかないからと退院することになったのだそうです。

認知症は進行しており、一人暮らしはもう難しいと言うことはKさんの方も把握しており、いろいろと動いている最中であったとのことでした。

隊長「なるほど、そうでしたか、それでは○病院がかかりつけなのですね?救急隊も○病院に受け入れ要請してみますよ」
Kさん「それが…○病院ではもう入院はできないのですよ」
隊長「どういうことですか?」

ここ1週間、KさんはTさんを受け入れてくれる病院、介護施設などを探し奔走し続けていたとの事でした。

○病院からは「肺炎は完治した、腰椎の圧迫骨折は入院し治療するものではないから当院での入院治療を継続する訳にはいかない」と断られ、他の医療機関でも「○病院でそのように判断されている方ならうちでも同じです」と言うような回答で受け入れ先は見つからなかったのだそうです。

確かに医師が入院治療の必要がないと判断している方を入院させる訳にはいかないでしょう。

一方、介護施設では、「骨折があると分かっている方を受け入れる訳にはいかない」「治療が済んでいないと介護施設に入居させる訳にはいかない」との回答でどこも受け入れてはもらえなかったのだそうです。

どうすることもできずひとまず自宅に帰宅、Kさんが時折様子を見には来ていたそうですが事は何も進まず現在に至っているとのことでした。

隊長「…そうでしたか、それはたいへんでしたね」
Kさん「ええ…」
隊長「どちらにしても今のTさんの状況が入院治療が必要のない状態なのかどうかは医師に診察してもらわないと判断がつきませんし、ご本人も痛いと訴えていますから救急隊は医療機関にお連れしますよ」
Kさん「はい、そうですね」
隊長「Tさんにはどなたかご家族とか親族などはいないのですか?」
Kさん「それがまったくいないのですよ」
隊長「そうですか…医療機関からは入院になるとしても帰宅して良いと判断されるにしてもTさんのような状況の方の場合、面倒を見てくれる方を連れてきてほしいと言われると思うのですよ、Kさん、申し訳ないですがお願いします」
Kさん「はぁ、そうですよね…、まあ私が担当ですから」
隊長「そうですか、申し訳ないですね、よろしくお願いします、受け入れ先が決まったらまた連絡させていただきますから」

福祉の担当者であるKさんが医療機関に来てくれることになりました。おかげで先週まで入院していたと言う○病院に受け入れてもらえることとなりました。


医療機関到着

「腰部痛 軽症」


帰署途上

隊長「やっぱり退院した時と変わらないって、入院の必要はないってさ、Kさんに連れて帰ってもらうことになるって」
隊員「そうですか…町の福祉の人も本当にたいへんですね、受け入れ先がなくて泣いているのは何もオレたちだけではないのですね、これもある意味介護のたらい回しかもしれませんね」
機関員「お年寄りの一人暮らし、しかも認知症があるとなったら受け入れ先はなかなか決まらないからなぁ…、福祉の担当者と連絡が取れて良かったよな、この活動は昼間じゃなかったらそうとう厳しかっただろうな?」
隊長「ああ、夜中じゃ受け入れ先なんて見つからないよ、役所は夕方には閉まってしまうし、どうにもならなかったかもしれない…」
機関員「本当、高齢化社会の問題を垣間見えますよね?核家族化も進んでいるし身寄りのないお年寄りなんてこれからどんどん増えていくでしょ、こんなの氷山の一角ですよ、どうします?」
隊長「本当だよな?オレたちが退職する頃にはもっと深刻になっているだろうなぁ」
機関員「この前どこかの専門家がコメントしていましたけど、人類史上こんなに高齢化社会を迎える国なんて今の日本が始めてなんですって、世界中が日本はどうするのかって注目しているって…本当、どうするんでしょうね?どうにかなるのかな?」

現場で垣間見た高齢化社会の現実、運転席と助手席で隊長と機関員は退職後の不安を話しているのでした。

機関員「なあ?お前は子どもをいっぱい作らなくちゃダメだぞ」
隊員「はあ…少子化対策ですね」
機関員「そうだよ、オレたちの年金のためにもだ、得意だろ?」
隊員「何の話ですか?…年金の心配ならご無用ですよ」
機関員「何で?」
隊員「だって救急隊なんて年金貰う前に死んじゃうじゃないですか」
隊長「はぁぁぁ…それを言うか、でもそうなんだよなぁ…、この前もオレの先輩が退職したと思ったらポックリ…」
機関員「深刻な話をさらに深刻にするね」
隊員「あは、ええ、まあ…」

まだまだ日差しの眩しい町の中、救急車内はどんよりと暗いのでした。

今回のこの事案、昼間であったから福祉の担当者と連絡がついて受け入れ先が決まりました。深夜であったら相当に厳しい活動になることは必至でした。身寄りのないお年寄りに警察官や救急隊が関わり奔走することは珍しいことではありません。

もちろんそれだって大切な仕事なのですが、Tさんのように既に町の福祉が介入している方であっても警察官や救急隊が関わらざるを得ない現実があるのです。

夕方から朝にかけて福祉の窓口が停止してしまうため、本来は町の福祉で対応しているはずの内容にも関わらず警察・消防が対応しているのです。

さらに身寄りのないお年寄りの対応で忘れてはならないのは医療機関です。今回紹介したTさんのような方を受け入れた場合、特に深夜においては入院の必要がないと判断された場合でも一人で帰すことはできません。

結果、朝までは処置室のベッドで看護師が実質介護を続ける場合があるとのことです。

当然、貴重な深夜の処置室のベッドは埋まってしまいます。入院に至った場合でも退院できるまで回復しても行き先がなく、入院を伸ばさざるを得ないことも多いのだそうです。

入院の必要のない方のためにベッドは埋まってしまいます。病院が本来果たすべきではない介護の担い手になってしまっている現状があるのです。

当然、本来業務でないことに限りある人員を裂かれる訳ですから、本来業務である患者さんの受け入れに支障をきたしてしまうのです。身寄りのないお年寄りの受け入れ先がなかなか決まらないのはこのような要因があるのだそうです。

高齢化社会の進む中、身寄りのないお年寄りに関わる事案に奔走することが増えてきました。深夜でも対応してくれる福祉の窓口があったらといつも感じています。

とはいえ、今回の福祉課担当のKさんも本当に一生懸命やっている方でした。それでもTさんをどうにか受け入れてくれる機関がなかったのです。

きっと町の福祉担当者も病院の医師や看護師も、呼ばれればいつだってどこだって駆けつける警察官も救急隊も消防隊員たちも現場の人間はみんなどうにもならない大きな問題の狭間で戦っているのだと思います。

緊迫の現場
@paramedic119 フォローお願いします。