父も歩けるまで回復しました

救急救命士のこぼれ話

特に新人の消防士にとって多大な影響を与えるのが隊長です。消防署で右も左も分からない状態の時に、はじめて組んだ隊長や先輩は将来進むべき道すら決めることになるほどに多大な影響を与えることが多いです。

私は駆け出しの救急隊員の時、尊敬できる救急隊長の下で仕事をさせていただいたことで、その後、迷うことなく救急隊の道、救急救命士への道のりを歩んできました。

あの時も隊長はすごい方だと思いましたが、あれから月日が経って振り返ってみると、見えるものが変わっていることに気が付きました。


出場指令

「○町○丁目Sさん方、怪我人、男性は自宅にて転倒し動けないもの」との指令に私たち救急隊は出場しました。


現場到着

指令先のSさんのお宅は一戸建てで玄関先に女性が案内に出ていました。

奥さん「こっちです、夫が部屋で転んで腰が痛くて動けないと言うので」
隊長「分かりました、案内してください」
奥さん「あっ!よろしくお願いします」

この時は分からなかったのですが、隊長の顔を見るなりこの奥さんはずいぶんとかしこまっていました。傷病者のSさんは50歳代の男性で、自宅の廊下で転倒し腰部の痛みを訴えていました。

隊長「こんにちはSさん、救急隊です、どうされましたか?」
Sさん「転んでしまって、腰を打ったみたいで、とにかく動くと痛くて痛くてどうにもならないんだ…」
隊長「私たちが肩を貸しますから玄関の救急隊のストレッチャーに横になれますか?」
Sさん「どうだろう…」
隊員「Sさん、私が手を貸しますよ」
Sさん「痛い!いたたたた!!」

転倒して腰部痛、こんな事案はいつもあるのですが、この時は少しでも動かすとSさんは激痛を訴え、救急隊のみでは安静に搬送できる状態ではありませんでした。

隊長「介助があっても玄関まではとても行けそうもないですね」
Sさん「ええ、そうですね…」
隊長「バックボードを用意、それから消防隊も応援要請して」
機関員「了解です」
隊長「Sさん、これからあなたの身体を固定してなるべく痛くないようにします、それでも搬送する訳ですから痛みはありますよ、頑張ってください」
Sさん「申し訳ない」

Sさんの受傷部位は腰部のみ、救急隊はSさんの腰部に少しでも衝撃が加わらないように全身を固定し、さらに愛護的に搬送できるように消防隊を応援要請、マンパワーを駆使して、とにかく振動が加わらないように安静に搬送しました。



病院到着

傷病者にとってなるべく苦痛がないようにたいへん気を使っての活動でした。愛護的に安静にを主眼にした活動に、傷病者からもたいへん感謝された事案でした。

「腰部痛 中等症」


病院引揚

医師への引継ぎを終え救急隊は引き揚げます。処置室の外のベンチに座っていた奥さんに隊長が声をかけました。

隊長「奥さん、救急隊はこれで失礼します、お大事にしてください」
奥さん「本当にありがとうございました、今回もすごく気を使っていただいて…本当に助かりました、ありがとうございました」
隊長「いいえ、それでは失礼します」
奥さん「あの…実はこれでお世話になったのは2度目なんです、覚えていますか?」
隊長「えっと…以前に私がSさんを搬送していますか?」
奥さん「いいえ、主人の父なのですけど、半年ほど前になるのですが…」
隊長「そうですか、申し訳ありません…私はちょっと記憶にありません、私たちは年間1000件ほど出場していますので、申し訳ないです」
奥さん「いえ、とんでもない、おかげさまで父も歩けるまで回復しました」
隊長「そうですか、それは良かった」
奥さん「あの時は他の隊員の方にもすごく良くしてもらって、一生懸命心臓マッサージしてもらったおかげです」
隊長「心臓マッサージ?お父さんは心肺停止だったのですか?」
奥さん「はい、もうあの時はダメだって思ったのに…B病院に搬送してもらって…後遺症はありますが、今もリハビリに通っていて、元気にしています」
隊長「そうですか…お父様にもよろしくお伝え下さい、お大事に」
奥さん「はい、ありがとうございました」


帰署途上

隊員「さっきの奥さんの話、心肺停止からの社会復帰じゃないですか」
隊長「そうだな…まったく覚えてないんだよな…」
機関員「奥さんが勘違いしているんじゃないのかね?オレはあの家に行った記憶はないですよ」
隊長「そうだよな?社会復帰するかもしれないような事案は忘れるはずないもんな、でも確かにあの奥さん、会ったことがあるような…」


帰署

消防署に戻ってから調べてみると…

隊員「ありました!半年前、Sさんの家に行っていますよ!確かにB病院の救命センターに搬送してる、メンバーは…あぁ…変わってる、今残っているのは隊長だけです」
隊長「本当か、どれ?」

救急隊が活動した事案は事後検証と言うものにかかります。これはメディカルコントロールと呼ばれるものの一環で、救急救命士が行った処置や活動をその後、検証しチェックすることで、救急救命士が行う処置や活動の質を保持しようとするものです。過去の活動記録は5年間、記録し保存してあります。

隊長「この時は…早いな…4分で病院に着いている」
隊員「特定行為はしないで早期搬送していますね」
隊長「う~ん…何となく思い出した、でもまさか社会復帰とはね、現場は〇町か…B病院の目の前だから特定行為にいかない判断をしたんだな…」
機関員「CPRだけで社会復帰させちゃうなんて神の手だね!」

救急隊が傷病者を社会復帰させた事案を忘れるはずがありません、この職についていて最もやりがいを感じることだからです。心肺停止の方が社会復帰するなんて事案は一握り、そのほとんどのケースで亡くなります…。

そんな残念な事案にいつまでも縛られている訳にはいきません。そんな忘れていた事案の中に社会復帰させた事案があったなんて。助けた自覚なんてないのに、実は社会復帰にまで導いていた。駆け出しの救急隊員であった私は、単純に凄いなぁなんて感心していました。

今、振り返ってみると、特定行為を実施しないで早期に搬送する。実はここがすごかったのではと感心します。この隊長には救急活動のイロハを教えていただきましたが、「傷病者にとって何がベストか」をいつも考えるよう言われていました。

救急救命士になったばかりの頃は、救急救命士だからこそできる処置に固執しがちです。苦労して勉強してやっと認められた行為、やっとできるようになった処置、救急救命士だからこそできる処置に固執しないで早期に搬送する。救急救命士だからこそ実は逆にできないことです。

傷病者の状況、推定される病態や原因、病院までの距離、時間、搬送路や搬送方法…様々な要因を考慮し、考えて考えて…何が傷病者にとってベストか考えろ、この人が自分の家族なら、やっぱり同じ判断をするだろうか。いつもいつも考えろと言われていた。

救急救命士だからできることを、救急救命士なんだからやれることを、でもそれって傷病者にとって本当にベストだろうか?今の私にこの判断ができるかどうか…。救急救命士になって大分時間が経ちましたが、あの時の隊長の背中がまだまだ遠くに感じる今日この頃です。

すべては救命のために、いつもいつも考える、そんな救急救命士でありたいものです。

少しの間、コメント欄を開放します。「特定行為をしない」と判断する、これってどう思いますか?血税で運用される救急救命士が救急救命士だからできる特定行為をやらないと判断する、これは不作為とも考えられるのでは?傷病者の利益を考え、あえてやらない、そもそも救急救命士の必要性の根本に関わることなのでは?でも、この事案、やっぱり特定行為をやらない判断が社会復帰に繋がっていたのではと感じてしまうのです。皆様からのコメントをお待ちしています。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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