殺してくれないか

溜息の救急現場

救急隊は緊急の方の下に駆けつけ、人命のために全力を注ぐことが使命です。救急隊員たちはそのために厳しい選抜試験や研修、国家試験などを経て救急車で日夜戦っています。そんな努力も虚しく、この救急車内でいったいどれだけの方が亡くなっていったことでしょうか。

泣き叫ぶ家族の願いも虚しくいっこうに回復する様子のない人、半狂乱の母親が見ている中、反応を示さない子ども…。劇的な救命劇なんて一握りで、現場の現実はたくさんの願いが届くことなく訪れてしまう避けられない死があるのです。

生きたい、助けたい、そんな願いすらも万人には当てはまらない…。今回のお話は救急車で殺してほしいと訴えた傷病者の話です。


出場指令

もう深夜に入ろうかという時間帯でした。

「救急出場、○駅前交番、60代の男性は歩行困難、○交番警察官からの通報」

との指令に私たちは出場しました。


現場到着

○駅前のロータリーに停車、指令先の交番に向かいました。

隊長「お疲れ様です。救急隊です、どちらの方ですか?」
警察官「お疲れ様です。こちらです、先ほど歩けないから救急車を呼んでほしいと来た人なんですけど…」
隊長「あの方ですか…なるほど…。車内収容して観察していて、警察官から状況を申し送ってもらうから」
隊員「了解です」

交番の中でちょこんと座っている60代の男性、身なりはまあ普通ですが…救急隊ならすぐに分かります、彼はホームレスです。隊長は要請した警察官から状況を聴取、隊員と機関員が傷病者を救急車に収容し、バイタルサインの測定や状況確認することになりました。


車内収容

傷病者は60代男性ホームレスのFさん、足にどうも力が入らずおかしいので交番に助けを求め救急車を要請してもらったとの事でした。

隊員「そうですか、それではもう足がおかしくなってから数週間は経っているって事ですね、ずっと我慢していたのですか?」
Fさん「そうです…」
機関員「Fさん、なんだってそんなに頑張っていたんだい?今日になってもう我慢できなくなったってことなんですか?」
Fさん「ええ…」
隊員「Fさん、病気はありませんか?治療中のもの、過去に患ったものも教えてください」
Fさん「…」
隊員「Fさん、治療中の病気はありませんか?」
Fさん「先月までK病院に入院していた」
隊員「K病院?何を治療してもらっていたのですか?」
Fさん「いろいろ病気はあって、糖尿病とかを治療してもらっていた」
隊員「いろいろとは?糖尿病だけではないのでしょ?」
Fさん「高血圧、動脈硬化、心筋梗塞、腹部大動脈瘤、肝臓も悪い、それから…」

Fさんはこれまで患ったことのある病気を説明し始めました。Fさんは命に関わる大病をいくつも患い、大手術を受けたことのある方でした。そのどれもK病院で受けているのでした。

隊員「そうですか、それだけの大病を全部、K病院で診てもらっているのでは今日もK病院で診てもわらないといけませんね」
Fさん「いや…K病院は無理だ」
隊員「無理?どうしてですか?」
Fさん「…」

警察官からの申し送りを受けてきた救急隊長が救急車内に戻ってきました。ここまで聴取した内容、バイタルなどを隊長に伝えます。

隊長「Fさん、この辺りでの生活は長いのかい?」
Fさん「…かれこれ7、8年になるかな」
隊長「心筋梗塞だとか腹部大動脈瘤だとか、それも路上生活になってから患ったのですか?」
Fさん「ああ…」
隊長「それじゃ、なおさらだ、K病院で診てもらわないとダメでしょ」
Fさん「いや…K病院は嫌だ」
隊長「何で?Fさん、K病院と何があったの?あなた…ひょっとして自己退院してきたんじゃないですか?」
Fさん「…」

自己退院とは自身の判断で勝手に退院すること。つまり入院しなくてはならないと医師が判断し、治療を続けなければならないにも関わらず、入院生活が我慢できずに勝手に病院を飛び出してきてしまったということです。

隊長「Fさん糖尿病は?インスリンは使っているの?」
Fさん「いや、飲み薬だけ、ただインスリンも使わないといけないかもしれないところまできているって話だった」
隊長「でもK病院から自己退院したんじゃもうひと月以上もかかってないでしょ?薬ももうないでしょ?飲んでいないんじゃないの?」
Fさん「ああ…」
隊長「そうですか…、ちょっと調子のおかしい足を見せてくださいよ」

足がおかしいが主訴ですので靴を脱がしてよく見ることにしました。うぅぅぅ…。あっという間に狭い救急車内に立ち込める異臭…。Fさんは一見ホームレスとは分からない服装ですが、この靴はどれだけ履き続けているのか、さらに靴下はどれだけ交換していないか分かりません。

隊員「Fさん、足の調子がおかしいのはどの辺りですか?これは触っているの分かりますか?」
Fさん「分かる」
隊員「この辺りは?」
Fさん「分かるけど…何かおかしい感じ…」

糖尿病が進行すると末梢神経障害が起こり始めます。四肢の知覚がなくなっていき、さらに四肢の指が壊疽、腐って落ちてしまうことまである。痛み感じなくなってしまってくるので、そんな状態まで気が付かないのです。

隊長「K病院の先生に言われませんでした?糖尿病を放っておくと手足が腐ったり、目が見えなくなったりするって」
Fさん「言われた…」
隊長「今までの手術暦、治療暦もあるし、先月まで入院していたのでしょ?まずK病院に連絡しないと始まらないよ、他の病院に聞いてみたって、まずK病院に連絡するのがスジでしょって言われるだけですよ、K病院に連絡するよ」
Fさん「K病院は嫌だ、他の病院に連れて行ってくれ」
隊長「…はぁ。あのね、Fさん、あなたのこれまでかかってきた病気、どれをとっても大病ですよ、あなたよく生きているってくらい、たいへんな病気を乗り越えているのですよ、いったいK病院の何が気に入らないっていうの?」
Fさん「あの病院の医者も看護師もオレをバカにしてやがるんだ」
隊長「…それでケンカして病院を飛び出したの?」
Fさん「そうだ、あいつらオレをいつもバカにしやがるんだ」
隊長「…そう。それじゃあK病院に連絡しても診てくれないかもしれないね…。それでもね、Fさん、ひとまずK病院に連絡するよ。これだけの病気を全部治療してもらって、しかも先月まで入院していたとなると、K病院に連絡しないで他を当たっても始まらないよ、まずK病院に当たれって言われるだけ、それは分かりますよね?」
Fさん「あぁ…」
隊長「良いですね、Fさん、K病院に連絡を取るからね」
Fさん「…」


K病院に連絡

機関員「先月までそちらに入院されていた患者さんなんですよ、名前はKさんと言います」
看護師「少しお待ち下さい。…救急隊さん、そちらの方、ご自身でうちでの治療は望まない方ですよ」
機関員「ええ…、お話は聞いています、何でも自己退院したみたいですね。ただ、これまでの治療暦、ずっとそちらにお世話になっている方ですし…何とかお願いできませんか?」
看護師「無理だと思いますよ」
機関員「先生にどうにかお願いしてください」
看護師「…お待ち下さい」

このK病院、公立の病院でホームレスなど自分で治療費が払えない方たちを受け入れてくれる最後の砦的な病院です。私たちも10件、20件と受入れを断られた際に最後の最後に受け入れてもらった経験があるような、そういう病院です。Fさんがどういう経過でこのK病院にいきついたか分かりませんが、ここでの受入れを断られるとなると…。

医師「当直医です、お電話替わりました」
機関員「救急隊です、先生、どうにか診ていただけませんか?」
医師「うちでは受け入れられませんね、だってFさんはうちでの受診を望んでないでしょ?」
機関員「いや…、望んでいないと言うことは…、今日は足に力が入らないから救急車を呼んでほしいとご自分で交番に助けを求めていますし…」
医師「今、カルテを見ています。ずいぶん当院でトラブルを起こして、勝手に退院しているんですよこの方、そういう方を診れませんよ、ルールが守れないんだから、他を当たってみてください」
機関員「そうですか…分かりました、他を当たってみます…ただ先生、また連絡させていただくことになるかもしれません、その時はよろしくお願いします」
医師「…はぁ、そうですね…」

そうだよなぁ…。自分では治療費は払えない、それでも治療の必要があるからとせっかく入院して治療を続けていたのに、トラブルを起こして自分で病院を飛び出した人…、いったいどれだけの人に迷惑をかけたのでしょうか。

隊員「隊長、他を当たってくれって…」
隊長「はあァ…やっぱりダメか。近くからどんどん当たろう、機関員は本部に連絡、状況を入れておいて、かなりの時間を要しそうと」
機関員「…了解」

ふぅ…こりゃ長期戦だ…。


病院選定

機関員「…という患者さんなんですよ、いかがでしょうか?」
医師「それはたいへんだね」
機関員「そうなんです先生、もう10件以上断られているんですよ、どうにか診ていただけませんか」
医師「いやぁ…救急隊がたいへんなのは分かるけど、それはうちでは無理だよ、それはもうK病院で診てもらうしかないよ」
機関員「K病院は一番にかけたのですが対応できないと断られたのです…」
医師「悪いけどうちでは対応できません、もう一度K病院に頼んでみた方が良いですよ」
機関員「はあ、そうですか、分かりました…」

…決まらない。受け入れ先がまったく決まりません。ホームレスと言うことだけで受け入れ先が決まらないのが現実…。さらにこれまでの経過、簡単に決まるはずがありません。「それはK病院でしか対応できないよ」確かにその通り過ぎて…頼み込む機関員の歯切れも悪いのかもしれません。


まだ選定中

20件選定しても受け入れ先が決まりませんでした。いつの間にか日付がかわっていました。もう車内収容して、選定を開始して1時間以上もの時間が経ちました。深夜、受け入れ先を求めて連絡を続けています。いっこうに動くことのできない救急車、ずっと黙っていたFさんが突然、口を開きました。

Fさん「…もう殺してくれないか」
隊長「え?何ですって?」
Fさん「…もうオレいいんだ、どうにか殺してくれないか?」

なんだって!?いくつもの大病を患い、Fさんは生きているのが辛い、殺してほしいと訴えています。いつまで経っても搬送先は決まらない、誰も助けてくれない、Fさんは絶望したのでしょう…。確かにこんなのおかしい…。でも…。

Fさんが横になっているメインストレッチャーの上では生きたくても生きたくても亡くなっていった方がどれだけいたことでしょうか…。このストレッチャー上でどれだけの人に心臓マッサージをしたことでしょうか、どれだけの人が助けたくても、助けたくても、助からなかったことでしょうか…。そんなストレッチャーの上でFさんは殺してほしいと言うのです。

どれだけの人が無念の思いの中で亡くなっていった?どれだけの家族が回復しない傷病者を目の前に涙を流した?そんな救急車の中で、たくさんの人を心臓マッサージしてきた?このストレッチャーの上で殺してほしいだって…?しばらくの沈黙の後、口を開いたのは隊長でした。

隊長「バカなこと言ってんじゃないよ!救急隊は人命のためにいるんだよ!殺してほしいなら救急車を呼ぶなんておかしいじゃないか!え!?Fさん」
Fさん「…」
隊長「ふう…、ねえFさん、もう一度K病院に連絡してみましょう。はっきり言って他の病院じゃ無理だよ、今度はちゃんと先生の言うことを聞いて、しっかりと治療を受けようよ」
Fさん「…」
隊長「今度は自己退院なんてしないって今、ここで約束してくれ、じゃないと…あなた本当に死んじゃうよ…、今度はちゃんと治療を受けよう、ねえ?」
Fさん「…分かった」

この後、救急隊長がK病院に連絡を取り、頼みに頼み込んで受け入れてもらうことになりました。出場から帰署まで実に3時間ほど…。それにしても殺してほしいと訴えるホームレスを説得した隊長、さすがベテランです、実に人間ができている。私にはとてもとてもそんなことはできませんでした。


帰署途上

機関員「本当たいへんな事案だったな…疲れた」
隊員「お疲れ様でした、オレは腹が立って何も言うことが思い浮かびませんでしたよ、助かりたくても死んでいく人がたくさんいるっていうのに」
機関員「オレだって同じ、いい加減にしろよって言いたいよな?」
隊長「本当、自分で要請しておいて殺してくれだもんな、ふざけているよな?」
機関員「でも…半分は本音かもしれないぜ」
隊長「ふぅ…そうかもしれないな…」
隊員「あのFさん、今度はちゃんと入院して治療を継続できると思いますか?」
機関員「無理じゃないのか、人間簡単には変われないって…」
隊長「そうだね、多分…どうにかしなくちゃいけないのは間違いないのだけれど…」

受け入れ拒否、たらい回し、そんな言葉で伝えられるこのような事案。その度にマスメディアは病院が悪い、医者が悪い、救急隊が悪いと、誰かを悪者にすることに一生懸命です。様々な問題が絡みつき簡単には解決できない問題です。

今回の事案では、Fさんにも大きな問題があったと思います。しかし…やっぱり、20件も30件も病院が決まらず、1時間以上もの時間、救急車が立ち往生している…。これってどう考えてもおかしい。

様々な対策でこういった事案も徐々に改善されてきています。しかし、それでも無くならない…。今もいつまでも搬送先が決まらず救急車が一向に出発できない事案はあるのです。

いつまで経っても搬送が始まらない。Fさんは絶望したのでしょう。殺してくれないか、そんな言葉がこぼれてしまう現実…、こんな現場がいつかなくなりますように…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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