優しくしないでもらえますか

仰天の現場

救急隊は様々な事情を抱える人たちの下に駆け付けます。そんな様々な方たちの要望に応えることも救急隊の使命です。様々なニーズに応えるサービス業の一面もある救急隊の仕事ですが、けっして応えられない要望もあるもので…。

出場指令

もう日付がかわろうとしていた深夜、いつものように消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、Sさん方、10代の女性は息苦しいもの」


現場到着

指令先のSさんの方は受け持ち区域、すぐに到着しました。救急資器材を携行して玄関ドアを開きます。

隊長「こんばんは!Sさん、救急隊です、失礼します!」

隊長がドアを開けると玄関部にはパジャマ姿の若い女性が座り込み、泣いていました。

隊長「患者さんはあなたですね?どうしたのかな?」
傷病者Sさん「もうこの家になんていられません…。どこかに、どこかに連れて行ってください!」

この人が傷病者であること、そしてこの不安そうな表情から何らかの精神科疾患を持っていることがすぐに分かりました。 傷病者はSさん、10代の女性で学校に通っていれば高校生です。

隊長「どうしたの?泣かないで、どうしたのかしっかり教えてください」
Sさん「うううぅぅうぅうううぅうう…」

Sさんはとにかく不安定で泣き続けているのでした。

母親「どうしたんですか!?」

玄関で大声を出して泣いている娘、そして駆けつけた救急隊に驚いた様子で母親がやってきました。

隊長「お母さんですね?どうされましたか?」
母親「どうしたかと言われても…。娘が要請したんですか?」

さらにやっぱり驚いた様子で父親が奥からやってきました。

父親「すみません、娘が要請したみたいです、本当にすみません」
Sさん「だって、救急車しかなかったんだもん、私…この家になんていたくない!ううううぅぅううぅうううぅうぅう…」

また泣きじゃくるSさん。

父親「申し訳ありませんでした、大丈夫ですから」
隊長「ちょっと待ってください、私たちもどうして要請されたのか、状況も分からないままという訳にはいきませんから」

バタバタしたこの現場で、まずこの家族3人に落ち着いてもらい状況を聴取しました。Sさんは先月まで精神病院に半年近く入院していた方でした。治療していた病気は「うつ病、境界性人格障害」とのことでした。

自宅での療養が可能とのことで退院、ここひと月は自宅にいたそうです。夕方頃、父親と口論となり自分の部屋に鍵をかけて数時間経ってから、2階の自分の部屋からの救急要請に至ったとの事でした。

両親とも1階のリビングにおり救急要請が行われたことすら知らなかったとのことです。状況を聴取している間に隊員がSさんのバイタルサインを測定していました。特に問題なし。

隊長「…そうですか、お話は分かりました」

ただの口論が原因で不安定になった娘が要請したもので病院に搬送する必要なんてないと言う父親、特にバイタルサインも問題ありません。ただ本人はこう言うのでした。

Sさん「私は病院に行きたいです、こんな所にいたらまた病気になっちゃいます。ううぅううぅうう…」

泣きじゃくり病院への搬送を熱望する傷病者、搬送しない訳にはいきません。

隊長「ご本人が搬送を強く希望されていますので、私たちもこのまま帰る訳にはいきません、ご両親のどちらかが同乗していただきたいのですが」
Sさん「お父さんはいやっ!お母さんが来て!」

もともとの原因が父親との口論です。Sさんは母親でないとダメだと訴えました。さて、これは受け入れ先が決まらないぞ…。


車内収容

隊長「それではSさんが今までかかったことのあるご病気は、うつ病と境界性人格障害、他に大きなご病気はありませんね?」
母親「はい、そうです」
Sさん「でももう治りました、先生にももう良くなったから退院して良いって言われたんです!なのにお父さんもお母さんもまだ、私のことおかしいって!うううぅぅう」
隊員「ああぁ…泣かないで分かったから、ね、ね?」

車内収容した直後は、まだ落ち着かない様子が続いていたSさんでしたが次第に落ち着きを取り戻していきました。ただ、「不安、自分の家にいたくない、何となく息苦しい」と言う訴えは変りませんでした。

先月まで入院していた病院は受け入れ不能、さらにこの病院を紹介したという以前のかかりつけ病院も断られました。

看護師「患者さんは今は大分、落ち着いているんですよね?」
機関員「ええ」
看護師「ひとまず診察することはできます、付き添ってくれる親御さんはいるんですよね?」
機関員「お母さんの同乗があります」
看護師「分かりました、どうぞこちらに搬送してください」

ひとまず内科医が診察する、もし精神科治療が緊急に必要な場合は他医療機関に転送となること、親の同乗があることが条件でしたが受け入れてもらえることとなりました。長時間の活動を覚悟していた選定3件目、まさかの受入れ病院が決定しました。


病院到着

傷病者接触から病院到着までの間、不安定な状態だったSさんに優しく語りかけ続けた隊長と隊員、病院に到着する頃にはSさんの様子もすっかり落ち着いていました。歩いて救急車を降りたSさんは診察室へ

医師「こんばんはSさん、ちょっと身体を診せてもらうからそこに横になってね」
Sさん「はい、分かりました」
医師「救急隊さん、サインするよ」
隊長「お願いします」

「呼吸苦 軽症」

隊長「Sさん、それではお大事にしてください、私たちはこれで引き揚げますから」
Sさん「…もう帰っちゃうんですか、…帰らないで下さい」
隊長「…お大事にね」

すがり付くような目で帰らないでと訴えたSさん、そんなこと言われても…医師に引き継いだら私たちは次の出場に備えないといけません。医師への引継ぎを終えて診察室を出ると待合室のベンチに母親が座っていました。

隊長「お母さん、救急隊はこれで引き揚げます、お大事に」
母親「あの…ちょっとよろしいでしょうか?」

立ち上がった母親は小声で話し始めました。

母親「あの…お分かりかと思うのですが、あの子の病気は治ってなんていないんです」
隊長「そうみたいですね…」
母親「半年ほど入院したのですが、入院して治療できるものではないと…、自宅で生活していく過程で治療するしかないそうなんです。怒鳴ったりするのは何の解決にもならないのは私たちも分かっていたのですが、今日はちょっといろいろあって主人がつい怒鳴ったんです、そうしたらこんなことに…」
隊長「…そうですか」
母親「あの…また、あの子が119番通報したら来ないでもらうことはできませんか?」
隊長「いや…それはちょっと…、私たちは緊急に駆けつけるためにいますので…」
母親「そうですよね…、あの子、またこうやってみなさんにご迷惑をおかけすることになるんじゃないかと思うんです…、あの…せめて優しくしないでもらえますか?」
隊長「…と、言いますと?」
母親「あの子、とにかく依存するんです。入院していた時もそうなんです…、優しくしてくれるお医者さんや看護師さんにとにかく依存して、そういう人たちにずっと迷惑を掛け続けるんです、そういう環境はむしろ良くないって先生が…だから退院することになったんです」
隊長「娘さんが1日に何度も何度も救急車を要請するようなことになったら考えなくてはならないでしょうが、私たちもSさんのお宅には初めていきましたし、救急要請を何度もすると言うことはないのですよね?」
母親「はい…、救急車を呼ぶなんて初めてのことです」
隊長「私たちは要請されれば緊急に駆けつけることが使命ですし、患者さんの立場に立って活動するよう努めています。おっしゃることも良く分かるのですが…今、ここで私の一存ではなんとも…」
母親「…そうですよね、分かりました。本当ご迷惑をおかけしました。」
隊長「いいえ、私たちはこれで引き揚げます、お大事になさってください…」


帰署途上

隊長「要請しても来ないでもらう方法はないかってさ…」
機関員「要請されれば何があっても急行するのがオレたちの仕事ですからね」
隊長「だよなぁ…オレたちの仕事の根幹から覆っちゃうよなぁ」
隊員「でも、お母さんの言うことも切実ですね…」
隊長「そうだね、あの様子だと繰り返しそうな感じだよな、依存するから優しくしないでくれとも言われたよ」
隊員「傷病者に優しく接するのも救急隊の仕事ですもんね」
隊長「本当、救急隊がやるべきことの逆を求められているからね…どうしたもんだろうね…」


出場指令があったら1秒でも早く出場するんだ、だから防火衣装着に1分もかかっていたらいけないんだよ!新人消防士の頃、どれだけ着装訓練をしたでしょうか?

傷病者が自分の家族なら、大切な人なら、そう思えばおのずと答えが見えてくる。傷病者には優しい言葉を、思いやりを、 人間愛を、 そんな風に教えられてきました。

そんなことを当たり前とし、疑問に感じたことなんてなかったけれど…。駆け付けないでほしい、優しくしないでほしい、そんな要望もあるのです。様々な事情がある方々の下に駆け付ける救急隊、様々なニーズがあって当然です。でも、とても応えられない…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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