飲んでません

緊迫の救急現場

緊急事態に出場する救急隊、そんな中でも特に1分1秒を争う現場が高エネルギー外傷事案です。時間が傷病者の生死を分ける大きな要因となるからです。しかし、そんな現場にも様々な事情があったりして…。

出場指令

日付が変わろうとしている深夜、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、〇町〇丁目…、オートバイ単独の交通事故、怪我人、通報者はWさん女性」

との指令に救急車は消防署を飛び出しました。

出場途上

救急車の後部座席、救急隊員が資器材の準備を進めながら119番通報があった電話に連絡を取ります。

(119コールバック)

隊員「もしもし、119番通報いただいたWさんですね?救急隊です」
Wさん「はい、Wです」
隊員「今そちらに急いで向かっています、状況を教えてください」
Wさん「はい、オートバイの交通事故でガードレールにぶつかって転倒しましたみたいです、運転手は今、起き上がって歩道に移動しています、大丈夫ですか~?今、救急車が向かってくれていますよ~!…頷いています」
隊員「運転手さんは男性の方?今、自身で安全なところまで移動できているのですね?」
Wさん「はい、私の呼びかけにも頷いています、ヘルメットをしているので分かりませんけど男性だと思います、足を引きずっています」
隊員「分かりました、Wさんも安全なところでお待ちください、オートバイから油が漏れてはいませんか?」
Wさん「えっと…、私のところから見る限りは漏れていないみたいです」
隊員「分かりました、事故の瞬間は見ていますか?何キロくらいで走行していたか分かりませんか?」
Wさん「大きな音で振り返ったらバイクが転倒していたのでそれは分かりません…、でもけっこう大きな音でした」
隊員「分かりました、間もなく到着できます、またお話を聞かせてください」

電話を切り、隊員は救急車の前方にいる隊長と機関員に内容を報告します。

隊長「なるほど、傷病者は自身で動けるってことだな」
隊員「はい、通報者の呼びかけに反応して、足を引きずりながら歩道に移動しているとのことです」
機関員「了解、現場はまっすぐな一本道だぜ… どうして事故るかね? 」


現場到着

大きく手を振る女性の姿が見えてきました。その先にしゃがみこんでいる人の姿があります。

隊長「ガードレールはずいぶんと変形があるぞ、オートバイまでの距離もけっこうあるからな、バックボードを準備!」
隊員・機関員「了解!」

衝突したであろうガードレールの変形部分からオートバイが離れているということは、それだけスピードが出ていたことになります。スピードが上がれば衝突のエネルギーは加速度的に増していきます。

傷病者接触

隊長「案内ありがとうございます、通報いただいたWさんですね?」
Wさん「はい、この方です」
隊長「ありがとうございます、後でお話を聞かせてください、まず患者さんの状況を確認します」
Wさん「はい」

路上に倒れているオートバイは750ccの大型で、フロント部分は激しく変形しており、自走できる状態ではありませんでした。変形したガードレールからは20mくらい離れています。

隊長「こんばんは、救急隊です、分かりますね?」
傷病者「はい、すみません、お世話になります、よろしくお願いします」

傷病者は20代の男性でFさん、路上から這うようにして自身で歩道まで移動、右足をだらりと投げ出し左足を抱え坐位、体育座りをしていました。

隊長「お怪我されているのは右足?他に痛いところはありますか?ヘルメットは取れなかった?」
Fさん「はい、ヘルメットは自分で脱ぎました、右足をガードレールにぶつけて転倒しました」
隊長「衝突したのはあそこのガードレールが変形しているところですね?」
Fさん「そうです…」
隊長「バックボードで全脊柱固定!高エネ!ロードアンドゴー!
隊員「了解!」
隊長「痛いのは右足だけですね?ここじゃ暗くて詳細が確認できないので救急車内でズボンは切らせてもらいますよ、他に痛いところはありませんね?手足が痺れたりはありませんか?私の両手を握ってみて」
Fさん「はい、ライダージャケットを着ていたので他は大丈夫です」
隊長「何キロくらい出ていた?あそこからオートバイがここにあるってことは結構スピードは出ていたでしょ?」
Fさん「いや…そんなに出ていないというか…その…」

このようにFさんの意識はとてもしっかりしており、右足以外に痛いところはないと訴えました。右足は明らかに変形しており骨折しているのは間違いありません。履いているジーンズには血に染まっていますが拍動性の出血ではありませんでした。隊長はガードレールの損傷場所から事故車両までの距離、損傷の状況から高エネルギー外傷であると判断しました。

隊長「酸素を!詳細なバイタルサインは車内で取るぞ、全脊柱固定、機関員は選定に入れ!」
機関員「了解、隊長、オートバイからの油漏れなし!」

バックボードという全身固定資器材にFさんの身体を固定します。救命に関わる処置のみを実施し一刻も早く現場を離れ病院に向かう、それが高エネルギー外傷の際の活動です。

隊長「Fさん、酸素マスクです、お顔に当てますよ」
Fさん「はい」
隊長「ねえ…Fさん、ずいぶん飲まれてますね?けっこう匂いますよ、何時からどのくらい飲んだ?」
Fさん「…いや、その…飲んでません」
隊長「飲んでいないってことはないでしょ?だってお酒の匂いが相当していますよ、医師に伝える情報としても重要です、何をどのくらい飲んだ?何キロくらいで走っていた?」
Fさん「いや、その…、飲んでないです、ふらついて転倒して…それで怪我しました…」
隊長「さっきはガードレールにぶつかったって言ったじゃないですか」
Fさん「いや…あの…間違えました、乗っていた訳じゃないです」
隊長「そうですか…」

バックボード上にFさんを固定しメーンストレッチャーに収容、救急車に向かって搬送し始めたところに警察官が到着しました。

警察官「私も乗ってよろしいですか?」
隊長「どうぞ、重症と判断しています、病院が決まったらすぐに出発しますよ」
警察官「了解しました」

車内収容

隊長「Fさん、足の詳細な状況を見ます、ズボンを切りますよ」
Fさん「はい、分かりました」

救急隊は明るい車内で再度の全身観察、Fさんの了解を得てズボンを切って変形している右足の詳細観察を実施しました。これは…。

隊長「ねえ、Fさん、何キロくらい出ていた?大事なことなんだ、医師に伝えないといけない」
Fさん「いえ、だから、バイクは引いていました、乗っていません…」
隊長「…Fさん、右足が完全に変形している、しかも骨が皮膚を突き破っているよ、相当のエネルギーが加わらないとこんなことにはならない」
Fさん「骨が…いや…その…乗ってません、こけただけです」
警察官「Fさん、そんな訳ないでしょ、ガードレールとオートバイの距離もおかしいでしょ、本当のこと言わないとダメだ」
Fさん「いや、マジで、マジで乗ってないんです」
警察官「そう…ずいぶんと匂うね、かなり飲んだのは認めるんだね」
Fさん「…いや、そんなには飲んでないです」

Fさんの右足は膝から下の骨、脛骨、腓骨の両方が折れているのが明らかでした。骨が皮膚を突き破って見えていました。

警察官「ねえ、Fさん、いい加減なこと言わないでよ、走っていないで何で足が折れるほどの怪我をする訳?」
Fさん「いや…、どうしてかな…、ほら、オレのバイクは大型だから…」
隊長「全身観察はいいな?右下肢以外に外傷はないな?滲出性の出血ならガーゼと包帯で被覆するぞ」
隊員「了解、右下肢以外に外傷なし、隊長、包帯です」
機関員「隊長、〇病院収容可能!」
隊長「了解!すぐに出発!」

直近の高度救命救急センターがすぐに収容可能の回答をくれました。さあ出発です。ところが…

警察官「少し待ってください!Fさん、飲酒運転だよね?本当のこと言ってよ!」
Fさん「いや…飲みました、飲みましたけど、飲酒運転はしていません、バイクは引いていたんです、本当に!」

往生際が悪い…、20代の男性の折れた骨が皮膚を突き破るほどのエネルギー、ただオートバイが倒れただけで起こる訳がありません。飲酒運転を認めないFさんに警察官が詰め寄っています。現場出発を待ってくれと訴える警察官、しかしそうもいきません。

隊長「搬送先は〇病院です、我々は重症と判断しています、すぐに出発します」
警察官「待って、待って待って!Fさん、本当のこと言ってよ!」
Fさん「いや、マジでこけただけです!」
隊長「出ます!出発します!」
警察官「ふぅ…了解しました、このまま行ってください、私も同乗します、それならよろしいですよね?」
隊長「 もちろんです! 出発!行こうっ!」
Fさん「え“…」

現場出発

現場から病院へは10分程度の距離です。深夜の町をひた走る救急車、病院へと急ぎます。

警察官「ガードレールからオートバイがあったところまで20mくらいあったけど、かなりのスピードじゃないとあんなところまで行かないよね?」
Fさん「バイクはオレがあそこまで引いて持って行ったんです、ほら道の隅に行かないと危ないって思って…」
警察官「その折れた足で?あの重たいオートバイを引いて歩いたっていうの?」
Fさん「ええ…、もちろん痛かったですけど…」
警察官「オートバイもガードレールもかなり変形しているけど、あれもただ転倒しただけで?とても走れる状態じゃないけど」
Fさん「え!マジっすか?修理代かかっちゃうなぁ、何でそんなに壊れちゃったんだろう」
警察官「じゃあ何であんなにガードレールが変形していたの?」
Fさん「いや…どうでしょう?変形していました?ガードレールにはぶつかってないですよ、元々変形してたんじゃないですか?」
警察官「Fさん、今、現場に残っている警察官からの情報なんだけどさ、目撃者の話だと大きな音を聞いたから振り返ったら、オートバイが滑るようにアスファルトから火花が飛んでいたって言っているよ、あの大型バイクが20mもアスファルトを滑っていくって走っていなくちゃおかしいよね?」
Fさん「いや、それは何かの間違いですって、本当、マジで乗ってないですって!本当にこけただけですって!」

警察官にいくら詰め寄られてもFさんはお酒を飲んでいたのでオートバイは引いて歩いていた、ふらついて転倒し右足を骨折したと飲酒運転を認めませんでした。このやり取りを黙って聞いていた隊長が口を開きました。

隊長「ねえ、Fさん、私たちはあなたを〇病院に搬送します、ここはね、重症の患者さんを診るところです、1分1秒を争う事態だと判断したから情報は見たままの状況を病院には伝えてあります、これからもっと正確な情報を医師に伝えなくちゃいけないんだ、治療にも必要な重要なことだからちゃんと教えてください」
Fさん「はい…」
隊長「警察官が言ったように、ガードレールから20mも離れたところにオートバイがあったこと、オートバイもガードレールもけっこうな変形があること、それからあなたの右足が明らかに変形していること、この状況からかなりのスピードでの事故だと、あなたは重症の可能性があると判断しました、これは訂正した方が良いのかな?」
Fさん「えっと…そうですね、別にバイクで走っていた訳じゃないです…」
隊長「そう…、医師にあなたの言うことをそのまま申し伝えていいの?ただオートバイと転倒しただけですで大丈夫?」
Fさん「えっと…その…あのですね…」
隊長「正確なことを医師に伝えたいんだ、適正な治療を受けるためには絶対に必要だよ、それはあなたの身体のためだよ」
Fさん「う~ん…乗っていたって言うか…」
隊長「分かりますよね?これはあなたの命に係わるかもしれない話だよ」
Fさん「…」
隊長「本当のことを教えてください、医師に正確に伝えて、しっかり治療してもらわないといけないよ」
Fさん「…あの…すみません…、60キロ、いや…もっと出ていたかもしれません…、夕飯の時から友達と飲んでました…」
警察官「どこで何をどのくらい飲んだ?」
Fさん「ビールをジョッキで5杯くらい…、それからサワーを…」


医療機関到着

医師「ふふふ…それで、やっと飲酒運転を認めたと?」
隊長「ええ、警察官は初療室の前で待っています」
医師「転倒だけで解放骨折する訳ないよね、ひとまず頭、体幹は問題なし、フルフェイスとライダージャケットを着てなかったらこんなもんじゃすまなかっただろうな、不幸中の幸いってやつだよ」

「右脛骨、腓骨開放骨折 中等症」

引き揚げ途上

機関員「で、観念したんですか?」
隊長「ああ、やっとね、往生際が悪いのなんの…」
機関員「隊長の脅しでビビったんでしょ?」
隊長「脅し?事実確認と言ってほしいな」
機関員「それにしても彼には大ダメージだな、免取りでしょ?」
隊長「たぶんね、店は2軒目でビール5杯にサワーに、焼酎に、それ以上は覚えてないっていうんだから…」
機関員「数か月は入院?仕事は大丈夫なのかね?」
隊長「建築関係の現場仕事だって、下手すりゃ半年は仕事ができないんじゃないか?元通り回復すれば良いけどな」
機関員「あのオートバイだってもうダメでしょ、ガードレールの修理代だって大変だ…、反省しないとだな、飲んだら乗るなってな」
隊員「やっぱり保険とかって下りないんですよね?」
機関員「ああ、みたいだぜ、オートバイにガードレール、何よりあの怪我、でもまあ自業自得だな、誰も巻き込まなかったのが救いってところだな」

大人だからこそ楽しめるお酒、だからこそルールを守って適正に楽しみたいものです。飲んだら乗るな、乗るなら飲むな、いくら飲んでも自分の足で自分で帰る、救急車の世話になどならないようにお願いします。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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