家まで連れて帰ってくれ

溜息の現場

救急車は緊急事態の人を急いで医療機関に搬送するためにあります。でも中には、これまで溜息の現場で紹介してきたように、緊急性に疑問を感じるケースや、そもそも緊急だなんて思っていない人もいます。

今回紹介する男性の場合、緊急性うんぬんの問題など通り越していました。自ら救急車を呼ぶよう依頼したにも関わらず、そもそも医療機関に行くつもりがないのです、彼の目的は…

出場指令

21時を回った時間帯、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁目…コンビニエンスストアに急病人、男性は歩けないもの、通報は店員」

との指令に救急隊は出場しました。

出場途上

緊急走行する救急車の後部座席、救急隊員が119番通報があった電話に連絡を取ります。

(119コールバック)

隊員「もしもし、119番通報いただいた店員の方ですね?」
店員「はい、よろしくお願いします」
隊員「今、急いで向かっています、患者さんの様子を教えてください」
店員「はい、私が店の裏の倉庫に行こうとしたら、そこに座り込んでいまして…歩けないから救急車を呼んでほしいと言われたので要請しました」
隊員「そうですか、ご本人から頼まれたのですね、では、お話はしっかりできる状態ですね」
店員「はい、歩けないって言っています」
隊員「そうですか、それでは患者さんのご病気など、詳しいことは分からないですね」
店員「ええ、なんか…酔っぱらってるみたいです」
隊員「分かりました、間もなく到着できます」

聴取した情報を隊長と機関員に報告します。

隊長「なるほど、本人からの頼まれ通報か、それなら詳しいことは分からないな」
隊員「はい、何か酔っているみたいだと…、通報者の店員さんはあまり関わりたくない様子でした」
隊長「そうか…了解」

現場到着

コンビニの駐車場に停車、お店の前には通報者である店員が待っていました。

隊長「こんばんは、ご通報いただいた方ですね?」
店員「はい、こっちです」

店員はコンビニの裏へと私たちを案内しました。

傷病者接触

コンビニの壁に寄りかかるようにして男性が座り込んでいました。傷病者は60代男性でYさん、話はしっかりとしていました。

隊長「こんばんは、歩けないのはあなたですか?どうされましたか?」
Yさん「ええ、何かね、足に力が入らなくてね」
隊長「足に力が入らない?ここまではご自分で歩いてきた訳ですよね?突然、力が入らなくなってしまいましたか?」
Yさん「ええ、そうなんですよ」
隊長「Yさん、これは触っているの分かりますか?ちょっと足を動かしてみてください」
Yさん「はい」

Yさんの身体を観察するも麻痺はありません。Yさんの主訴は立ち上がると下半身に力が入りずらく、フラフラと倒れてしまうから歩けないとの事でした。

隊長「Yさん、ずいぶんお酒の臭いがしますね、大分飲まれていますか?」
Yさん「うん、少し飲み過ぎちゃったかな?」

隊長と隊員がYさんの観察をしている間に機関員は通報者の店員から通報に至った経過を聴取していました。

機関員「隊長、店員さんのお話だと、こちらのお店でお酒を購入しているそうですよ」
隊長「Yさん、こちらのコンビニでお酒を買ったのですか?」
Yさん「ああ」
隊員「これが買ったお酒ですね、あれ?これ蓋が開いているじゃない、ここで飲んでいたのですか?」
Yさん「ああ、ちょっと飲み足らなくてね」
隊長「先ほどまでお酒を飲んで、飲み足らないから帰り道にこのコンビニに寄って、またここで飲んでいたってことですか?」
Yさん「ああ、そうだ」
隊長「それで立ち上がれなくなっちゃったと?」

それって、千鳥足と言うのでは…

Yさん「そうなんだ、家まで連れて帰ってくれよ」
隊長「救急隊は家までは送れないんだ、とにかくYさん、救急車の中でお体の様子をもう少し詳しくみせてくださいよ、詳しいお話は救急車でしましょう」
Yさん「ええ、分かりました」

街灯が照らしてはいますが、薄暗いコンビニの裏では詳細な観察はできないからと車内収容することにしました。メインストレッチャーを用意しYさんを収容します。

隊員「Yさん、肩を貸しますからストレッチャーに座ってください」
Yさん「ああ、悪いね」

隊員に肩を借りて立ち上がるYさん、確かに足元がおぼつかない感じ、もちろん麻痺などありません。まさに酔っ払いと言って相応しいふらつき加減でした。

車内収容

測定したバイタルサインも特に問題なし。Yさんから話を聞いてみると、夕方からついさっきまで飲食店でかなり飲酒しているとのことでした。治療中の病気はないが、近所の○病院には受診歴があるとのことでした。

隊長「○病院はここから一番近い救急病院です、○病院に連絡してみます」
Yさん「別に病院には行きたくないんだよな」
隊長「あのね…Yさん、フラフラして立ち上がれないからと救急車を呼ぶように頼んだのでしょ?救急車は医療機関に搬送することが仕事なのですよ」
Yさん「いや、それは分かっているんだどけな、病気ではないから」
隊長「…ふぅ、それではYさん、あなたはお酒を飲み過ぎてしまって歩けなくなってしまったと、だから家まで送ってほしくて救急車を呼んだってことですか?」
Yさん「いや…、うん…まあそうだな」
隊長「それはできませんよ、先ほどから申し上げている通り、救急車は緊急の方を医療機関に搬送することが仕事です、家まで送るなんて事はできません」
Yさん「それは分かっているんだよ、ただオレの家はすぐそこだから…」
隊長「すぐそこだろうとできないものはできない、どうしても帰れないと言うのなら警察官を呼びます」
Yさん「何で警察なんだ!」
隊長「怪我や病気の方を病院にお連れするのは私たちの仕事です、お酒を飲んで酩酊状態になっている人を保護するのは警察官の仕事です、あなたがお酒を飲み過ぎて家に帰れないと言うなら警察官を要請します」
Yさん「だったらいい!帰るよ!」

警察官を要請すると言われたYさんは怒り出しストレッチャーから降りようとしました。

隊員「ああぁぁ…Yさん、危ないから私が手を貸しますよ」

救急車外へ

病院に搬送されることも、警察官から保護されることも嫌だと言うYさんは医療機関への搬送を拒否、自分で帰ることになりました。

隊長「Yさん、気をつけて帰ってください、途中で転んだり怪我なんてしないで下さいね」
Yさん「ああ分かった、でも本当にオレの家はすぐそこなんだけどなぁ…」

すぐそこなんだから救急車でちょっと送ってくれてもいいじゃないか、そんな恨めしそうな目で救急隊を見ているYさん

隊長「ゆっくり気をつけて帰ってください」
Yさん「悪かったね、どうも」

諦めたYさんはフラフラと千鳥足で帰って行きました。

「傷病者搬送辞退、不搬送」

帰署途上

機関員「ったく…救急車を何だと思ってるんだ」
隊長「あの人だって救急車が病院に行くものだってのはよく分かっているんだよ、家はすぐそばだし、上手くしたら送ってもらえるって思ったんだろう…」
隊員「何があってもそんなことをしたらいけませんね、断固とした態度で対応しないと、一度でも特別になんてしたら、何度でも要求してくる人ですね」
隊長「ああ間違いないね、それにしてもひどい事案だったな…」

この事案、救急車の要請内容としては不適切でしょう。しかし、仮にYさんが自宅に帰る途中で転倒し怪我をしたのなら、それを未然に防げなかった救急隊の責任なんてことになるのでしょうか?

ただ、絶対に家に送るなんてことはできません。「この前の救急車は送ってくれた、今日はできないなんておかしいじゃないか」そんな主張が目に見えています。大人だからこそ飲めるお酒、楽しく飲む自由があります。だからこそ、自分の足で自宅に帰る、そんな当たり前のことは義務なのではないでしょうか。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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緊迫の現場
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