仰天の現場
このお話は保険証が使えないの続きです。
あれから何カ月経ったでしょうか…。救急隊が社会問題の最前線に出場することなんて日常のこと、あくせくした日常の中で、あの日のことなんて忘れていました。最初に思い出すのはいつも…。
出場指令
昼間の消防署に出場指令が鳴り響きました。
「 救急隊、ポンプ隊出場、〇町〇丁目…、〇号室、E方、女性は意識呼吸なし、通報はYさん男性」
意識も呼吸もない、重症であることが明らかである内容に救急隊とポンプ隊への出場指令です。地図を確認した機関員がいつも初めに気が付きます。
機関員「ん…?隊長、この現場、行ったことがありますよ」
隊長「そうだっけ?どんな事案だった?」
機関員「う~ん、どうだったかな?この時も同じ部屋だったかどうかまでは…?でも、このアパートは間違いなく行ってる、いつだったかな…」
出場途上
緊急走行する救急車の後部座席、資器材の準備を進めながら救急隊員が119番通報のあった電話に連絡します。
(119コールバック)
隊員「もしもし、そちらに向かっている救急隊です、状況を教えてください」
Yさん「はい…、もうダメみたいです…」
隊員「患者さんは意識も呼吸もないのですか?心臓マッサージをしていただきたいのです」
Yさん「心臓マッサージ…できそうにありません、血だらけなので… 」
隊員「血液に触らないようにすることは難しいですか、例えばビニール袋を手袋の代わりに使うことはできませんか?」
Yさん「ビニール…ありません…」
最優先すべきは傷病者の命です。救急隊が駆け付けるまでの間、現場にいる人に心臓マッサージをやってもらうことが救命には必要なのですが、バイスタンダー(現場に立ち会っている人)を危険に晒すわけにはいきません。
隊員「そうですか…状況を教えていただけますか?」
Yさん「はい、私の妹なのですが、訪ねてきてみたら…」
通報者のYさんは傷病者の兄、連絡が取れないから尋ねてきてみたら部屋で血だらけで倒れており119番通報したとのことでした。
隊員「急いで向かっています、間もなく到着できます」
Yさん「はい…よろしくお願いします」
聴取できた内容を隊長と機関員に報告します。
隊長「もうダメみたいと?」
隊員「はい、心マを頼みましたが血だらけだからできないと言われました」
隊長「…そうか、仕方がないな、資器材はCPA(心肺停止状態)を想定しろ、感染防止の徹底、ポンプ隊にも無線を入れろ!」
隊員「了解!」
現場到着
昭和の臭いがしそうな古いアパート、あの時と同じように救急車、今日は少し離れて消防車も停車しました。
機関員「やっぱり…、あの部屋だ」
隊員「あっ!あの時の…」
隊長「そうだ、確かDVの…」
サイレンを聞きつけて女性が駆け寄ってきました。
女性「こっちです、お願いします」
隊長「案内、ありがとうございます、あなたは?」
女性「私は、えっと…義理の姉になります、夫は部屋にいます…」
隊長「患者さんの様子はどうですか?」
女性「多分…もうダメだと思います」
傷病者接触
〇号室、表札は出ていない。間違いない…Eさんの部屋。
隊長「失礼します」
Yさん「ああ…お願いします…」
玄関を入って奥の部屋、あの時と同じ。布団に横たわる女性、その横で呆然と立ちすくんでいる男性。
隊長「お話は後で聞かせてください、まず患者さんの様子を見せてください」
Yさん「はい…」
布団上にいるのは間違いなくEさんでした。布団から周辺の畳には黒色に変色した血液が飛び散っており、布団にもかなりの量の血液が染み込んでいる様子でした。
隊長「血液に注意しろ」
隊員「了解…」
意識、呼吸、脈拍なし。人工呼吸をしようにも全身が硬直しており開口できません。四肢も完全に硬直、亡くなってかなりの時間が経っているようです。
隊長「Yさん、ご通報いただいたお兄さん…ですね」
Yさん「はい…」
隊長「今、私たちでお身体の様子を見せていただいたのですが…残念ながら亡くなられて大分時間が経っているようです」
Yさん「はい、そうみたいですね、分かりました…」
Eさんは全身硬直、死斑、瞳孔は完全に開いており白濁、医師の判断を仰ぐ必要がない死の状態であると判断できました。Yさんに救急隊は搬送しない旨、これから警察官を要請し引き継ぐ旨を説明します。
隊長「現場はなるべく保存しないといけませんから、こちらで状況を教えてください」
Yさん「はい…、妹はここで一人暮らしをしていまして…」
呆然とした様子はありましたが、Yさんは通報に至るまでの状況を説明してくれました。部屋には4リットルの焼酎のペットボトルがあの時よりも明らかに増えていました。
「社会死 不搬送」
引き揚げ途上
駆け付けた警察官に申し送りを終えた隊長が救急車に戻ってきました。
隊長「はぁぁ…切ないね…」
機関員「ええ、Yさんの奥さんから聞いてきましたよ、 肝硬変の治療はしたみたいだけど、ここ数カ月は病院に行かなかったって」
隊長「オレたちが搬送した後に入院して、アルコールの治療も受けていたみたいだけど…結局また、酒に溺れたみたいだって…、お兄さんはもっと力になれていればって泣いていたよ」
機関員「夫から逃げて逃げて…、血みどろで最後…ひとりか…」
隊長「あの血液の量…食道静脈瘤破裂だろうか…」
隊員「なんて言うか…無力ですね…」
もっと早く救いの手が届いていたら、もっと早くそれを知らせる手段があったのなら、もっと早く要請してくれたのなら…。社会問題の最前線、辛い現実。でも、あくせくした日々に埋もれていく。
支援の制度や解決の手段があったとしても、知らなければ何も始まらない。伝えるって難しい、でも伝えるって本当に大切なことです。119番する前に1秒だけ考えてほしい…当サイトの理念、救急車の適正利用、どうにか伝えたい。でも簡単に伝わるはずがない。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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