溜息の現場
119番通報の内容だけで現場が見えること、想像できることはけっこうあるものです。
「…通報は本人から」これだけで傷病者は少なくとも自身で電話を操作し、自身がいる場所を伝えることができる状態、意識はしっかりしているのだろうと想像できます。
「…肺炎の疑い、通報は往診の医師から」とか「…転倒し右肩脱臼の模様」など、ほぼ傷病名まで想像できる指令もあります。
この2つがそろっていると、想像はさらに精度を増して…。
出場指令
「救急出場、○町○丁目、Y方急病人、男性は便秘、腹痛、通報は本人から」
機関員「出た…本人からの通報で便秘…」
隊員「指令内容だけで緊急性に疑問を感じちゃいますね…」
便秘での救急要請、実は珍しくありません。これまで数え切れないくらい便秘での救急現場を経験しました。これまで経験してきたケースでは自力歩行可能、いや…むしろ便が出なくて辛いと救急車に自ら乗り込むケースが多いです。どれも救急車でなくても問題なかったと思われる事案でした。
しかし、現場は行ってみないと本当に分からないものです。本人が便秘と思っているだけで、実は重要な疾患が隠れているのかもしれない。救急隊は現場へ急行しました。
出場途上で119番通報のあった電話に連絡するも応答はありませんでした。想像ができてしまう、119番通報に応答しないのは…。
現場到着
指令先の玄関前にはやっぱり男性が立っており手を振っていました。自宅前に歩いて出てきているので電話に応答ができない訳です。
隊長「お待たせしました、ご通報いただいたYさんですね?」
Yさん「一昨日から便が出なくて…腹が張って辛いんだ、早く行ってくれ!」
隊長「そうですか、救急車の中で詳しいお話とお体をよく見せてください」
傷病者は70代の男性でYさん、このようにしっかりとした受け答えができる状態でした。隊長の案内に自身で救急車に乗り込みました。Yさんの奥さんが同乗しました。
車内収容
奥さん「すみませんね、こんなことで来てもらって」
隊長「いいえ」
Yさん「とにかくもう腹が張って痛くて仕方がないんだ」
確かにYさんは痛みからなのでしょう、うっすらと発汗があり、苦悶の表情です。
奥さん「下剤を飲ませたんだけど、ちっとも出ないんですって」
隊長「下剤?それは奥さんのもの?」
奥さん「そうなの、私も便秘がちで、近所の医院で貰ったやつなのよ」
Yさん「それを飲んだけど全然ダメなんだ」
隊長「そうですか…」
奥さんが処方されていた下剤を飲んだけどちっとも出ない。こんな会話を聞いて嫌な予感がしていたのです…。Yさんのお話によると便秘による腹痛は過去にも何度かあり、その度に救急車でH病院に搬送されているとのことでした。
Yさん「前もH病院で浣腸をしてもらって楽になったんだ」
隊長「そうですか、その腹痛はいつからですか?他に何かありませんか?」
Yさん「ないない!とにかく腹が痛いんだ、はやくH病院に連れて行ってよ!」
隊長「Yさん、その腹痛が便秘からくるものだとは限らないから、症状を聞かせてもらって、血圧とか測らせてもらわないと」
Yさん「間違いない!自分が一番分かっているって!もう何度もやっているんだから、いつもの便秘だよ便秘っ!早くH病院に…」
Hさんは救急隊の観察なんてもうよいから、とにかく早くH病院に早く連れて行ってくれと訴えます。バイタルサインも測定しないで病院に搬送連絡なんてできません。間違いなく便秘だと訴える傷病者、そして自力歩行可能…救急車でなくちゃダメなの?連絡したH病院は受入れ可能、すぐに搬送することができました。
病院到着
自らの足で救急車に乗り込んだ方です。自らの足で救急車を降りて救急診察室に向かいました。すると…
Yさん「あの…トイレに行きたい」
隊長「え…トイレ?」
Yさん「うん、なんか出そうなんだ」
看護師「それではYさん先にトイレに行ってきて下さい、まだ医師もこちらに来てないですから」
看護師の案内で診察が始まる前にトイレに直行したYさん…。やっぱりさっき飲んだ下剤が効いてきたのでしょう。と、言うことは…。
ジャジャ~~(トイレの水を流す音)
ガチャ(トイレのドアが開く音)
Yさんがトイレから出てきました。先ほどまでの前かがみだった姿勢もピンと伸びて、苦悶の表情はすっかりなくなり、すっきりした表情です。
Yさん「いやぁ~出たよ、なんか…診察とかもういいかもしれない」
はぁぁ…ガックリしている隊員をよそに隊長は焦りました。
隊長「ちょっとYさん、診察しないで帰るなんて言わないで下さいよ、私たちも先生に連絡して診てもらうようお願いしてこちらにお連れしているんだから」
Yさん「うん、それは分かっているんだけど、もう出ちゃったからなぁ~」
隊長「でも、お腹が張って仕方がないとご自身で要請したのですから」
Yさん「まあ、そうだな、そうなんだけどな…出っちゃったからなぁ~」
いつもの便秘と確信し要請したYさん、確かに出てしまえばそれでしまい。診察とかもう良いかも、仰るとおりかも…。
隊長「でもさっきまではどうにもならないくらいの腹痛だったのでしょ?」
Yさん「分かってる、分かっているって、診察は受けるよ、大丈夫だから…」
もう分かったから、診察は受けてやるから心配するなって、そんな感じのYさん…。
「便秘 軽症」
帰署途上
隊長「診察は受けてやるから心配するなってさ…」
機関員「やれやれ…困ったもんだ」
隊員「自分でも便秘と確信していて、さらに歩けるのに救急要請ですもんね…」
機関員「ああ、だって訴えは「いつもの便秘」だぜ?救急車って不慮の事態に呼ぶものじゃなかったっけ?」
隊長「タイミングによっては救急車が到着したら、もう出たからやっぱりいいやってこともあり得たよな?」
隊員「あり得る!」
隊長「実際あったよ、そんな現場…」
機関員「オレもですよ、便秘の要請ってけっこうあるからな」
隊長「医師も、「出た?出たなら治療の必要はないよね」って、Yさんも「そうですねぇ、あはは」ってそれで診察はおしまいだよ」
救急隊3人「はぁぁ…」
便秘は治療を受けている方でも繰り返すことが多く、今回のYさんのように「いつもの便秘」と何度も救急車を利用する方もいます。
そもそもいつものって救急車?不慮の事態に駆け付けるためのものなのだけど…。でもひょっとしたら本人が便秘と思っているだけで、重要な事態なのかもしれない。それはそうなのかもしれないけど…、何か引っかかる、何かすっきりしない…、この感じ、心が便秘でしょうか?
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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