仰天の現場
救急隊は想像を絶する非現実的な現場に出場することがあります。そんな非現実のひとつがゴミ屋敷と言って相応しい家です。傷病者が物に埋もれていて、どこにいるのか分からないなんてこともあります。私も救急隊員になるまでそんな家は本当に特殊で、非現実的な場所だと思っていたのですが、救急隊とっては珍しい現場ではありません。今回はそれを超えている現場で…
出場指令
「救急隊、消防隊出場、○町○丁目〇アパート〇号室、S方、高齢男性は意識なし、通報は男性から」
との指令に私たち救急隊は出場しました。
出場途上に119番通報があった電話に連絡を取りました。
(119コールバック)
出場途上
隊員「もしもし、救急隊です。今、急いで向かっています、高齢の方が意識がないとのことですが患者さんの状態を教えて下さい」
通報者「う~ん…布団に横になっているんですけど、なんか…ピクリとも動きません」
隊員「反応はないのですね?呼吸はしていますか?」
通報者「多分、息は…していないみたいです」
隊員「それでは心臓マッサージをしていただきたいんです!」
通報者「えっ…心臓マッサージ、いや、ちょっと…それはできません」
隊員「私がやり方を伝えますから、患者さんの横についていただいて胸の真ん中を押してください!」
通報者「う~ん…いやぁ…すみません、私にはとてもできません」
隊員「頑張っていただけませんか?患者さんの命に関わるんですが…」
通報者「いやぁ…無理だなぁ…ごめんなさい、できないです」
隊員「そうですか…分かりました…」
通報者に心肺蘇生法を依頼するも断られました。救急隊としてはガックリです。救急隊が到着するまで心肺蘇生法ができるか否かで救命率、予後に多大な影響があるのです。
隊員「ご通報いただいたあなたと患者さんのご関係は?」
通報者「私は大家です、ずいぶんと連絡が取れないもので訪ねて来たら死んでいるみたいだったので…警察にかけるか迷ったんですけど…」
隊員「分かりました、急いで向かっています、間もなく到着できます」
聴取した内容を隊長と機関員に報告します。
隊長「心臓マッサージはできないって?」
隊員「はい、頼んだのですがとてもできないと…、死んでいるみたいなので警察にかけるか迷ったそうです」
隊長「なるほど…社会死の可能性が高そうだけど、気を抜くなよ」
隊員「了解!」
現場到着
男性がこちらに手を振っています。通報者の大家さんでした。
隊長「通報者の大家さんかな?…まだ若い人じゃないか、心肺蘇生ができないものかな?」
通報者「こちらです、2階の部屋です」
通報者の大家さんの案内でアパートの2階の部屋へと向かいました。
通報者「この部屋です」
隊長「案内ありがとうございます」
隊長が先頭に隊員、機関員が続く。ん?部屋の入り口で隊長の動きが一瞬止まった。
隊長「除細動パッドを準備しろ!」
入り口は狭く隊員、機関員には部屋の様子は見えません。隊長がこう言うということは、パっと見て心肺停止状態と判断できるような状態ということです。続いて部屋に入った隊員と機関員、うわぁ…これは…。6畳くらいの広さ、畳は腐りこげ茶色をしており、なにやらタバコのヤニのようなものがこびりついていました。
部屋中には食べ終わったカップ麺やジュース、ビールの缶が散乱しており、カップには水や残りのスープ入っているようで、そこにはタバコが浮いておりカビが生えていました。部屋にはタバコの腐ったような臭いが充満していました。ベテランの救急隊長も一瞬動きが止まってしまうはずです。まさにゴミ屋敷と言って相応しい。
隊長「観察からだぞ…脈拍…なし、硬直はないぞ!」(硬直→死後硬直のこと)
隊員「呼吸…なし、体幹にぬくもりがあります!心マやります!」(心マ→心臓マッサージのこと)
隊長「消防隊はCPRの支援を!搬送するよ!搬送路の確保も頼みます!」
消防隊長「了解!廊下と階段の障害物は任せて、移動しておく!」
傷病者はやっぱり心肺停止状態でした。通報者は死んでいるみたいと通報しましたが、死後硬直などの兆候はありません。体幹部にはぬくもりがあり、直ちに心肺蘇生法を開始しました。物が散乱した狭い部屋に救急隊と消防隊、活動はとても窮屈です。玄関ドアの前で通報者の大家さんがこちらの様子を見ています。
隊長「通報いただいたのは大家さんでしたね?状況を教えていただけますか?」
通報者「ええ…家賃の滞納があったもので、連絡を取ったんですけど、電話にもでないので…、訪ねて来てみたらこんな状態だったので」
隊長「Sさんのお名前や生年月日は分かりますか?」
通報者「ええ、それならここにあります」
大家さんは 賃貸契約の時の書類などが入ったファイルを持っていました。
隊長「一人暮らしの方ですよね?連絡が取れる家族は?」
通報者「もうこの部屋で何十年もひとり暮らしです、家族はいないと思いますよ」
隊長「病気があったか、通院していた病院とか分からないですか?」
通報者「いやぁ…流石にそこまでは…」
隊長「そうですよね、そのファイルを見せてください、大家さん、Sさんの状態なのですけど…」
隊長は通報してくれた大家さんに状況を説明、救急隊がこれから行う処置や搬送先病院についてなど説明しました。大家さんとファイルから得られた情報は、Sさんは80代男性、数十年前からこの部屋で一人暮らしをしており、今も時々、仕事をしているみたいである。緊急の連絡先の情報などはなく、家族関係は不明、ただ、大家さんの知っている限りでは家族などいないはずとのことでした。
救急隊は心肺停止状態の傷病者に救急救命士が行うことができる特定行為の処置を行い、同時に消防隊と共に搬送準備を進めました。
隊長「よし!エアウェイは入ったぞ、換気良好!搬送準備はいいか?」
機関員「準備OK!このシーツで傷病者を包んでいきます」
ん?Sさんの布団のシーツをめくると一瞬、機関員とその横にいた消防隊員の動きが止まりました。
機関員「隊長、搬送準備OKです!」
隊長「了解!」
あれ?シーツで包むんじゃなかったの?Sさんを担架に収容し搬送を開始しました。通報者からの話の内容からしても、目撃のない心肺停止事案、体幹にはまだぬくもりがありましたが、四肢には冷感があり、心肺停止に陥ってから時間が経っている様子でした。
医療機関到着
隊長は医師への引継ぎに処置室に入っています。隊員と機関員は資器材の撤収に取り掛かっていました。
隊員「あのSさん、相当なヘビースモーカーですよ…ほら、このエアウェイ、ヤニがすごいですよ…」
機関員「タバコもすごかったけどあの部屋もすごかったな…オレはあの布団を見た時はどうしようかと思ったよ…」
隊員「ああ…そういえばシーツごと包むって言っていたのに止めちゃいましたね、何でですか?」
機関員「あれ?見えなかったの?虫だよ虫!シーツをめくったら布団に小バエみたいのがびっしり…ギョっとしてオレもポンプ隊も動きが止まっちゃったよ…」
Sさんがいた部屋はゴミが散乱したゴミ屋敷、さらにそれを超えて虫が大繁殖していたのでした。ベテランの隊長も機関員も一瞬、止まるはずだ…。
「心肺停止 死亡」
引揚途上
隊長「すごい部屋だったな…」
機関員「ええ、ゴミ屋敷を超えて虫屋敷でしたね…」
隊長「良かったな、あのシーツをめくらないで…部屋中に飛び回ったかもしれないよな…」
機関員「ええ、他にもいろんな虫が繁殖しているみたいだったし…」
隊員「ええ…搬送を始めた時、黒いのがカサカサと横切りましたよ、しかも数匹…ギョっとしました」
隊長「家賃が滞納されてたって言ってたな、あの様子じゃずいぶんと払ってないんじゃないのか?」
機関員「いや…それがそうでもなかったみたいですよ」
大家さんの話では、Sさんはもう何十年もこのアパートで一人暮らし、誰の世話にもならないで暮らしていたそうです。年金で細々と生活していたようですが、時々仕事をしている様子もあったそうです。家賃はいつもきちんと収めており、滞納なんてこれまで一度もなかったそうです。今回は家賃の振り込みがないから訪ねてみたら、部屋の様子があまりに酷かったので驚いたとのことでした。心肺蘇生法をやる以前に、とても中には入れなかったのだそうです。
隊長「そうか…確かにあの部屋、仕事じゃなければとても入れないよな…」
隊員「はい…仕事だからですね…身内だとしてもちょっと…」
隊長「何から何まで人にやってもらおうって人もいれば、誰の世話にもなりたくないって人もいるんだな」
機関員「ええ、オレたちが関わるのは前者ばかりですからね、救急隊にとっては珍しいケースなのかもね…」
虫の沸いている部屋の中で亡くなった80代の男性、最後の最後まで自立して自分のことは自分でやろうって方もいれば、何から何まで人の世話になろうって方まで世の中には本当に色々な人がいるものです。ベテランも一瞬止まるゴミ屋敷を超えた現場…。Sさんの場合、少しだけでも人の世話になっても良かったのかな…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
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