想定外を想定するには

緊迫の現場

事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、現場で起こる想定外の事態は想像を超えることがあります。でも、プロは想定外を想定する。想定外を想定するには、経験を積む度に考え続けること、いつも学ぶこと、感じること、そんなことを繰り返していくことで磨かれていく第六感のようなものが大切です。この感覚を信じるにはまだ経験が足りなかったようで…


出場指令

「救急出場、消防隊出場、〇町〇丁目…F方、女性は呼吸困難、苦しんでいるもの、通報は家族男性」

まだ温かい昼下がり、待機していた同一署の救急隊と消防隊にペアでの出場指令が流れました。エンジンを始動させる2台の緊急車両、救急隊と消防隊の機関員が地図を抱えて走ってきました。

機関員「〇通りからひとブロック入ったところです、救急車は家の前に停車できます」
隊長「了解」
ポンプ機関員「消防車は入りません、〇通りで停めます」
ポンプ隊長「了解、ひとブロックは走っていくから」

車両に乗り込む前にこんなやり取りをしてから2台の緊急車両は消防署を飛び出しました。


出場途上

救急車の後部座席、資器材の準備をしながら隊員が119番通報のあった電話に連絡します。
(119コールバック)

隊員「もしもし、救急隊です、通報していただいたFさんですね、状況を教えてください」
父親「は、はい!早く、早く来てください!!娘が、娘が苦しんでいるんです、早く!」
隊員「患者さんのお父さんですね?まず落ち着いて下さい、急いで向かっていますから、あと5分程度で到着できます、それまで患者さんの様子を教えてください」
父親「は、はい…ええと…あの…娘が突然、苦しみだして、それで…その…今は呼吸困難のような状態になっていて…」

通報者は傷病者の父親で、かなり慌てている様子でした。救急車は間違いなく急いで向かっています、あと数分で駆け付けることができます、だから今はまず落ち着いて下さい、娘さんを一刻も早く適正な医療機関に搬送するために協力してください。到着するまでに少しでも多くの情報を得たい、そんな気持ちを抑えて、いつもより少しトーンを落として…受話器越しに慌てる父親に優しく語りかけるように聴取します。

隊員「それでは今はお部屋に横になって苦しそうにされているのですね?」
父親「はい、呼びかけると頷くことはできるのですが話はできません、本当に苦しそうで…」
隊員「手はどうでしょうか?娘さんの手を握れますか?手先が突っ張ったようになっていませんか?」
父親「えっと…ええ…何か手先が突っ張ったようになっています」
隊員「手先が痺れているか、娘さんに聴いてみていただけますか?」
父親「はい…手が痺れないかって?どうだ?…頷いています、痺れているみたいです」

傷病者は20代の女性でFさん、特に持病はなく元気な方、こんな症状になことは初めてのことで目の前にいる父親は相当に慌ててしまっている。呼吸困難の状態はおそらく過呼吸の状態、手先の痺れはテタニーと言われる過換気症候群の際に起こる症状の可能性が相当に高そうです。救急隊からみれば良くある現場の風景、想像できる想定内の現場です。

隊員「分かりました、お父さん、もう少しで到着できますから、病院に出かける準備をなさっておいてください」
父親「準備…何を?」
隊員「保険証やご自宅が留守になるようなら戸締りや火の元の確認をお願いします」
父親「はい…そうか保険証か…いたっ!いたた…あれ?あれ…」
隊員「間もなく到着できますから一度電話を切らせていただきます」
父親「…」

(ガシャーン!受話器越しに何やら大きな物音が聞こえました)

隊員「お父さん、Fさん、Fさん?」
父親「あれ?あれ…」
隊員「Fさん、どうかされましたか?間もなく到着できますからね?Fさん、Fさん?」
父親「…」
隊員「Fさん、どうかされましたか?Fさん??」
父親「…」

返事がない…。慌てた父親が電話を切ることなく戸締りや保険証の準備に走り出してしまったのだろうか?いや…でも今の物音は?いたたって言った?痛いってこと?

隊員「Fさん、Fさん?」
父親「…」

応答がない…。何だろう?この違和感は…。あの慌てようだ…受話器を放り投げて走り出してもちっともおかしくない、あの物音は電話が何かに当たった音?落ちた音?おかしい…何かおかしい…この違和感…。

隊員「Fさんお返事できませんか?Fさん?」
父親「…」

隊員は聴取できた内容を隊長と機関員に報告しました。

隊長「なるほど…で?お前はどうすべきと思うんだ?」
隊員「え…ええ…、ひょっとしたら父親が倒れてしまっているのではと思っています」
隊長「それは分かったよ、だから、そうであるならどうすべきだと思うんだ?」
隊員「応援要請が必要です、救急隊をもう1隊」
隊長「だったら情報の共有より先に応援要請だろ?」
隊員「はい…でも隊長、慌てて電話切らずにを落としてしまっただけかも…かなり慌てていましたから」
隊長「生の声を聴いたのはお前だ、お前が判断しろ!下命に従うだけが隊員じゃないだろ?傷病者の利益は?何をすべきだ?」

いつも言われていること、最優先すべきは傷病者の利益。父親が倒れたかもしれないから救急隊をもう1隊要請する。この違和感が外れなら迷惑がかかるのは後から駆け付ける救急隊、でも、もし当たりなら一刻も早く必要な隊を集める必要がある。「仲間にかかる迷惑」と「傷病者の利益」天秤にかける必要もなかった…。

隊員「救急隊をもう1隊、応援要請します!」
隊長「応援要請はオレが入れるよ!お前はポンプ隊に無線を入れろ!」

隊長はそう言うと間髪入れずに無線の操作を始めました。

隊長「〇救急隊長応援要請、救急隊、119コールバックの情報で…」
機関員「マジかよ…そんなことってあるか?」


現場到着

救急車は指令先のFさんの家の前に停車しました。通りに停める消防車、ポンプ隊員たちはまだ駆け付けていません。呼び鈴を鳴らし、ドアをノックしましたが応答がありませんでした。

隊長「Fさん、Fさん、救急隊です、お部屋に上がらせてもらいますよ」

応答がない、静まり返った部屋。あの様子の父親ならサイレンを聞いて玄関ドアを開けるに違いない。と言うことは…。

隊長「Fさん、Fさん!分かりますか!?オレは女性を観察する!お前は男性を!」
隊員「了解!」

部屋には男性と女性、二人が倒れていました。男性の近くには受話器が転がっていました。


傷病者接触

隊長「分かりますか?分かりますね?まずは落ち着いて、救急隊です、もう大丈夫だから」
Fさん「ヒィヒィヒィ…」
隊長「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するように呼吸を整えましょう」

倒れていた女性は20代Fさん、頻呼吸をしておりテタニーで間違いない症状が出ていました。隊長の呼びかけに頷いており意識はしっかりしている様子、過換気で間違いなさそうです。

隊員「Fさん、分かりますか?ご通報いただいたお父さんですね?分かりますか?」
父親「う~…」

倒れていたFさんの父親は60代、隊員の呼びかけに応答はできず苦悶の表情を浮かべて唸っていました。パっと見ても重症度が高いのは父親でした。

隊長「機関員はポンプ隊と協力して女性の観察と評価を、オレたちはお父さんの方を扱う!」
機関員「了解!」

隊長と共に父親の観察、評価に当たりました。JCS100、呼吸は30回/分、早い、そして…

隊員「隊長、血圧200超えです」
隊長「ああ、重症判断するぞ、ポンプ隊長!オレたちは後着の救急隊を待たない、ここは頼みます」
ポンプ隊長「了解、後着隊は〇救急隊だって、そんなにかからないよ」

父親はつい先ほどまで救急隊員と通話していたことから、発症からたった数分でここまでの意識障害を起こしていることが明白です。普段どんな持病があるか分かりませんが収縮期血圧は200mmHgを超えていました。考えられる疾患は頭蓋内病変、脳出血です。重症傷病者に対応する高度救命救急センターへの搬送を判断しました。


車内収容

ポンプ隊員の協力を得て父親を車内収容、ポンプ隊長に申し送りを終えて機関員が一足遅れて救急車に乗り込んできました。病院はすぐに決まりました。

隊長「機関員、〇病院救命センターで収容可能、すぐに出て!」
機関員「了解、少し状況が取れたから走りながら伝えます」
隊長「娘さんの方は頼んだぞ、隊長に病院を伝えて」
ポンプ隊員「了解しました!」

ポンプ隊を残して救急隊は救命救急センターへと急ぎました。いつも一緒にいるポンプ隊との連携は良く流れました。日常のコミュニケーションが緊急時ほど大切だと良く分かります。


搬送途上

緊急走行する救急車内、運転席から機関員が取れた情報を報告します。

機関員「娘さんのFさんなんですけどね、話ができる程度まで落ち着いて状況が取れました」
隊長「ああ、それで?」
機関員「自宅でお父さんにかなりの剣幕で怒られたそうです、そうしたら呼吸が荒くなって苦しくなったと、手足も唇も痺れて、慌てて父親が119番通報していたと言っていました」
隊長「なるほど、過換気で間違いなさそうだな」
機関員「ええ、苦しかったけど父が119番しているのも全部分かっていたそうです、それで電話している最中に倒れたと、バイタルサインは呼吸以外問題なし」
隊長「了解、あっちは大丈夫そうだな」
機関員「ただ…、お父さんはあなたよりも緊急性があると判断したらから先に搬送すると説明したんですけど…」
隊長「理解してくれた?」
機関員「私のせいだと泣きじゃくってしまって、また過換気に…」
隊長「なるほど…まあそうなるだろうな…」


医療機関到着

隊長「…という状況でした」
医師「なるほどね、見ていきます?CT?」
隊長「ええ、是非とも」

救急車が向かっている最中に現場にはもう一人の傷病者が発生し、しかも重症だなんて、そんなことが起こるのか…。CT操作室のモニターに映し出されていく画像。

医師「これは…かなりの出血ですよ、良い判断でしたね」
隊長「ありがとうございます」
医師「家族は?」
隊長「いや…先ほどお伝えした状況でしたので何も…娘さんと暮らしていることしか分かりません、ただ家の様子はふたりで暮らしている感じではなかったです」
他の医師「先生、娘さんはうちの内科に搬送されてくるって、娘さんに説明しても良いかも」
医師「そうか…オペの話なんてしたら、また過換気になっちゃうかもしれないな…」

「クモ膜下出血 重症」

引揚途上

隊長「難しい事案だったな」
隊員「驚きました、倒れるような物音がして…そのまま応答がなくなったからまさかと思って…」
隊長「まさかが大切なんだよ、もしかしてそんなことが起こっているかも、それを想像しないとな?」
隊員「はい…でも本当にあの瞬間に倒れていたなんて…確信が持てませんでした」
隊長「オレはあり得るって思った、実はあるんだよ、もっとすごい現場の経験が…」
機関員「へえ、さすがベテランですね?どんな現場ですか?」
隊長「ああ…夫がCPAだって現場に駆け付けてみたら、その妻もCPAになっていた事案だった、今回とは違って、119コールバックの後に妻が倒れたって事案だ、現場に駆け付けてみたらもう一人がCPA、さすがに混乱したよ」
機関員「それはすごい…こっちもパニックになりそう…」
隊長「そうなんだよ、現場はパニックになっている、家族が緊急事態だからって他の家族が階段を転がり落ちてたなんてこともあったな、傷病者がもう一人いるかも、そんな可能性はいつも頭の片隅に置いておかないといけないな?」
隊員「はい…勉強になりました」

若い女性の過呼吸事案、想像できる想定内の現場だなんて大間違いでした。救急隊にとっては日常でも、現場でパニックになっている人がいる、それは想定しないといけません。パニックが起これば想定外の事態は起こる。想定外を想定するには、経験が足りないのか?まだまだ知識が足りないのか?想定外を想定できる救命士になる未来がまだまだ想定できない…。



119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。

すべては救命のために

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