溜息の現場
判断に迷ったり、どうすべきか困った時には一度立ち止まって、傷病者が自分の家族だったらどうするだろうと考える。傷病者の利益を第一に活動すればそれが最適解になる。お世話になった隊長や先輩方にそんな指導を受けてきました。
「目の前の人が自分の家族ならどうするかと考える」こんなことは救急隊だから必要なスキルではありません。住民のためにいる消防官なら心に留めておかなければならないこと。いいや、消防官だけではありあませんね…。
住民のために働いている公務員ならみなが持っているべき考え方でしょう。スキルなどではなく、あって当たり前のもの。しかし、当たり前だと思われることがなかなかできなかったりして…。
帰署途上
この日もここまで十数件の出場をこなし、もちろん仮眠も全く取れていない激務でした。もううっすらと東の空が明るくなり始めている深夜、病院からの帰署途上でした。
隊長「はぁぁ…嗚呼…もう本当に疲れた…、帰って寝られても起床まで1時間ちょっとか…」
機関員「もう寝ましょう、少しでも横にならないといかれちゃいますよ、なあ?」
隊員「…zzzz」
機関員「なあって?」
隊員「え!え?何がですか?」
隊長「早く帰って少しだけでも寝ようって話だよ」
隊員「ええ、そうですね、もちろんですよ」
機関員「お前、寝てたろ?」
隊員「寝てないです、ちょっと考え事を…」
隊長「おいおいおい!あれは…」
片側2車線の幹線道路、大型トラックが中央分離帯に乗り上げていました。
機関員「停車しますよ、怪我人はいないだろうな?」
隊長「あ!大丈夫だ、警察官が事情聴取をしている」
機関員「本当だ、助かったぁ~」
トラックから少し離れた歩道側にパトカーが停車しており、さらに警察関係車両が数台、現場検証を行っていました。トラックの運転手であろう男性が警察官の事情聴取を受けていました。事故現場に怪我人がいれば警察官から救急要請が入ります。交通捜査の警察官が現場検証をしているので、事故からは既に時間が経っているでしょう。怪我人がいたのなら既に搬送されたか、もしくは怪我人の発生はなかったのか。
機関員「良かった…帰って寝よう」
隊員「いや~、良かったですね」
機関員「お前は既に夢の中だっただろ?」
隊員「いいえ…ちょっと考え事をしていただけです」
機関員「寝言言ってるじゃねえか?」
このまま何事もなく休めますように、せめて1時間だけでも仮眠できますように…。そんな願いも空しく消防署に出場指令が響き渡りました。
出場指令
「救急出場、〇町〇丁目…○通り上り車線、乗用車とトラックの交通事故、怪我人が1名」
との指令に私たち救急隊は飛び起きました。結局、今夜も1時間も仮眠できなかった…。
隊長「○通り、〇丁目っていうと…まさか…事故車両が停車していたよな?」
隊員「あ!そうだ、そう言えば…またですか?でも乗用車はなかったみたいだけど」
機関員が開いた地図を確認すると。
機関員「ふぅ…さっきのあそこです…」
隊長「やれやれ…またか…」
たまたま同じ場所で別のトラックが事故を起こしたのではないのか?もちろんその可能性もある、現場は行ってみないと本当に分かりません。あらゆることを考えて現場に備えるのが救急隊の努めです。
しかし、現場を知る者ならまったく違うストーリーが想像できてしまうのです。ただ、思い込みは厳禁だ。さっきの帰署途上、トラックの事故は確認できたけど、乗用車は分かりませんでした。別件の事故なのか?
現場到着
やっぱり…。先ほどまで中央分離帯に乗り上げていたトラックは片側2車線の歩道側に移動されており、さらにそのすぐ近くには、先ほどは確認できなかった小型の乗用車が停車していました。警察官が手を振って案内していました。先ほどまであった他の警察車両はもう既に現場にはありませんでした。
警察官「こちらの方が怪我人です、お願いします」
隊長「オレが情報を取るから」
隊員「了解」
隊員は傷病者の観察・処置を、隊長は要請した警察官から情報を取ることにしました。傷病者は小型乗用車の運転手で30代男性のKさん、走行中に後方からトラックに追突され受傷したとのことでした。
隊員「担架をお持ちしなくて大丈夫ですか?」
Kさん「ええ、大したことないんだけどな…病院に行かないとダメですかね?」
隊員「救急車の中で他にお怪我がないかよく見せてください」
Kさんは自身で大した怪我ではない、自分で歩けるから大丈夫と自力歩行で救急車に乗り込みました。
車内収容
隊員「そうですか、首が痛まれるのですね?」
Kさん「いや…別に痛いってほどでは…強いて言うなら重いって感じかな?」
隊員「Kさんは走っているところに後ろから追突されたのですか?」
Kさん「そうなんですよ、ただ私も流れにのって走っていたから大きな衝撃ではなかったんです。トラックの方がその後、中央分離帯に乗り上げちゃってね、僕は少し先で停まったんです」
隊員「それはいつのお話ですか?」
Kさん「そうだな…1時間以上、2時間くらい前ですよ」
そうでしょう、さっきの帰署途上に現場検証をしていたくらいです。その後、私たちが仮眠をとって、警察官から要請されて、今に至るのです。現場検証を終えて交通捜査の車両はすっかりいなくなり、パトカー1台しか停まっていないのです。事故が発生して2時間近くは経っているはずです。だって…すっかり辺りは明るくなっている…。
警察官から情報を取ってきた隊長が救急車に戻ってきました。警察官によるとトラック運転手が居眠り運転をして前方のKさんの小型乗用車に衝突してしまった交通事故、トラック運転手は事故の衝撃に驚き、中央分離帯に乗り上げてしまいましたが怪我はしていませんでした。Kさんの運転していた小型乗用車は大型トラックが衝突した割にはバンパーが少しヘコんでいる程度の変形でした。
警察官「じゃあKさん、さっきも話したとおり病院で診察してもらって、後日で良いから診断書もらってください、診察が終わったら警察署に連絡して下さい。連絡先はさっきお渡しした番号です。交通捜査の○が担当している○丁の事故って言えばすぐに分かるようにしておくから」
Kさん「はい、分かりました」
やれやれ…もう充分に話はついているって訳か…
隊長「これから病院を選定しますから、病院が決まったらお知らせします」
警察官「分かりましたお願いします」
そう言うと警察官は救急車のサイドドアを閉めてパトカーの方に戻っていきました。
Kさん「本当に大したことないんですよ。なんか救急車なんて大げさだから嫌だなぁ~…警察の人が救急車で病院に行かないと人身事故にならないって言うから…」
隊員「警察官が…そうですか…」
機関員「…」
隊長「別に病院には救急車で行かないといけないなんてことはありませんけどね、すぐ近くに病院がありますから連絡を取ります」
Kさん「そうなんですか?おかしいな?警察官は救急車でなくちゃいけないって言ったんだけど、すみませんね、お願いします」
病院はすぐに決まりました。事故が起きてから2時間近く経ってから救急要請…。ねえおまわりさん、救急車はパトカーと同じ緊急車両ですよ、この人があなたの家族なら、あなたは同じようにするの?いつも現場で聞きたくなるのは私だけでしょうか?
病院到着
「頸部打撲 軽症」
帰署途上
通勤や通学を急ぐ人たち、すっかり朝になっていました。結局、今夜も1時間も仮眠できなかった…。
機関員「こういうの…どうにかならないかな…」
隊員「現場検証が終わって、処理も終わって、それから病院に運べって言うんだから、緊急車両の使い方じゃないですよね…」
機関員「警察官は病院に行かないと困るんだろ?診断書がないと人身事故にならないから…」
隊員「あのKさんの感じだと、自分で病院には行きますって言っていたとしても、大したことないしやっぱり病院には行きませんでした、なんてあり得ますね…」
機関員「ああ、そんなことになったら物損事故になっちまう、また仕事が増えちゃうもんな~、救急隊を呼べば病院に搬送するから人身事故で確定できるもんな…」
隊長「人身事故だから救急要請はかまわないけど…処理の後は違うよな?まず救急車だよな?」
隊員「ええ…、同じ公安職ですら救急車の適正利用をしてくれないんだから、市民に適正利用を訴えるなんて相当に難しい話ですよね…」
仮に自分の家族が事故にあって、軽症と思われる状態であっても「処理を終わらせてから病院」ってなるでしょうか?法律、規則、ルール、そんなもの以前に、人として、まず怪我をしている人の救護、そこからじゃないのか?「この人が自分の家族だったらどうするだろう」と考える。同じ公安職ですら意外とできない…。
こんな現場は幾度と経験していますが、そんな現場ばかりではありません。まず、怪我人の救護、ほとんどの警察官がそのように対応しています。時々、こんな風に疑問を感じる現場はあるってお話でした。現場の警察官もみんな誠実に一生懸命働いている方たちばかりです。誤解のないようちょっとフォローをしてみました…。似たような現場を経験したことのある方もいるのではないでしょうか?コメントをいただけると嬉しいです。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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