溜息の現場
人の価値を決めるものとは何でしょうか?人間性、資産、経験、職業、資格、地位、階級?どれだけの人に愛されているか、どれだけの人から信頼されているか?様々な要素の中のひとつに学歴もあるのでしょうか?
出場指令
間もなく終電も終わってしまう深夜、消防署に出場指令が鳴り響きました。
「救急出場、〇町〇丁目…目標で〇ビルの前、男性は転倒し頭部を受傷、通報はSさん男性」
事務処理も落ち着いて、やっと仮眠に入れる、そんな時間帯の出場指令に救急隊の溜息がこぼれます。地図を開いて出場先を確認します。
隊長「はぁぁ…今夜もこのまま休む訳にはいかないのか…」
機関員「〇ビルはこの交差点を入って…ここです」
隊長「ふぅ…繁華街のど真ん中じゃないか」
隊員「はぁぁ…と言うことは、多分酔っ払いですね…」
隊長「ああ…そうだな…」
出場途上
深夜の街を走る救急車、隊員は119番通報のあった電話に連絡を取ります。
(119コールバック)
隊員「もしもし、Sさんですか、救急隊です、今そちらに向かっています、状況を教えてください」
Sさん「よろしくお願いします、私の上司なのですが転倒してしまいまして…頭から出血しています」
隊員「意識はどうでしょうか?お話はできる状態でしょうか?」
Sさん「ええ、それは大丈夫です、かか%$ちょう#すわって#$$」
隊員「Sさん、Sさん?」
何やら後ろで騒いでいる声が聞こえます。
Sさん「すみません、何か救急車なんていらないって歩こうとするので…」
隊員「患者さんは歩くこともできるのですね?頭以外に怪我をされてはいませんか?」
Sさん「…##$%$#…#&#$%$…」
受話器越しに何やら雑音が聞こえます。
Sさん「係長…ダメ…もう少しで来ますから、私も行きます…座りましょう…%%$#…」
隊員「Sさん、Sさん?」
Sさん「すみません、今、座ってもらって待っていますから、よろしくお願いします」
隊員「患者さんはお酒を飲んでいるのですか?」
Sさん「ええ…かなり飲んでいます、すみません、よろしくお願いします」
隊員「分かりました、間もなく到着できます」
電話を切って、聴取できた内容を隊長と機関員に報告します。
隊長「なるほど、やっぱり酔っ払いの転倒ってことね」
隊員「はい、何やら後ろの方で騒いでいる様子があって詳細な内容までは取れませんでした、でも意識もあるし、歩こうとしているって、通報者が静止しているみたいでした」
機関員「やれやれ…元気な酔っ払いか…攻撃的じゃないと良いんだけどな…」
隊員「通報者のSさんは部下だそうで、多分飲んでいるとは思いますけど落ち着いている人です」
隊長「車内収容したら交番の前まで移動だな」
機関員「ふぅ、了解…」
現場到着
目標の〇ビルの前で大きく手を振るスーツ姿の男性と、その横にはやはりスーツ姿の男性が座っていました。
隊長「お待たせしました、救急隊です、ご通報いただいたSさんですね?」
Sさん「はい」
隊長「こちらの方ですね?」
傷病者は50代の男性でHさん、前額部を怪我しており流れた血液でYシャツが血に染まっていました。歩道に座りウトウトと眠そうにしています。
Sさん「よろしくお願いします、係長、係長、救急隊の方が来てくれましたよ!さあ病院に行きましょう!」
Hさん「は?あぁ…そうか…行かないとダメか?このまま帰っても構わないんだけどな…」
隊員「こんばんは、Hさん、救急隊の者です、頭を怪我されていますよ、手当てさせてください」
Hさん「頭?大した事ないだろ?」
隊員「ああ!触らないで下さい、これから創を綺麗にして手当てしますから」
隊長「Hさん、ここでは暗くて創がしっかりと見られませんから、救急車の中で創を確認させてください」
Hさん「行かないとダメか?」
隊長「創をしっかり見せていただいて、それから判断をさせてください」
Sさん「係長、行きましょう、血だらけになっているじゃないですか、まず手当てしてもらいましょう」
Hさん「ん?あぁ、本当だ、血だらけだな、これはオレの血か?」
Sさん「そうですよ、そこで転んだじゃないですか」
Hさん「そうか…そうだったな、少し飲み過ぎたな、ハハハハハ」
隊長「こちらのストレッチャーに横になっていただいて、車内で良く創を見せてください」
Hさん「うん…あぁ…そうだな…」
隊員「Hさん、それでは私が介助しますからこちらに横になってください」
Hさん「いや…ストレッチャーとか、そんな大げさじゃないよ、大丈夫だ、ハハハハハ」
Hさんはそういうと立ち上がり自ら救急車に向かって歩き始めました。
車内収容
隊長「なるほど…それではお店を出て駅に向かうところだったのですね」
Sさん「ええ、3軒目のお店を出てからです、飲んだ量は分かりません…3軒目は私とふたりだったので焼酎を飲んでいたのは分かりますが…、2軒目までは他にも同僚がいたものですから、ずっと同じテーブルにいた訳ではないので…すみません…」
隊長「そうですか、でもかなり飲んでいると?」
Sさん「ええ、ビールとかサワーとか、かなり飲んでいるのは間違いないです」
SさんはHさんの部下で20代前半くらいの男性でした。この日は会社の飲み会で同僚たちと2軒の飲食店をはしごした後に、ふたりで3軒目へ、お店を出た直後に転倒し怪我をしたのだそうです。
隊員「Hさん、創を綺麗にします、少し痛いですよ」
Hさん「あぁ、痛たたた…」
隊員「すみません、もうこれで綺麗になりました、あとはガーゼを当てますから」
Hさんはかなり酔っており、気が大きくなっている様子はありますが、上機嫌で救急隊の手当にも素直に応じてくれました。額に3cm大の挫創がありましたが出血はほぼ止まっていました。
隊長「Hさん、創を拝見しましたが縫わないとダメな創です、病院に行きます」
Hさん「そうか…仕方ないな、よろしく頼みます、それじゃあ〇町にある〇病院に行ってくれよ」
隊長「いやいや…Hさん、申し訳ないですね、救急隊は緊急車両ですから近くから選定しないといけません、あなたを早く医師の下にお連れするのが使命ですから、そんなに遠くの病院に行く訳にはいきません」
Hさん「そんな固いこと言うなよ、あそこなら家に近いから助かるんだ」
隊長「ごめんさないね、できません、Hさんは〇病院にかかられたことが?何かご病気があるのですか?」
Hさん「いや、病気なんて何もない、どうにか〇病院って訳にはいかない?」
隊長「ええ、申し訳ありません、ここからすぐのところにある病院に連絡します」
Hさん「固いなぁ~、なあ?固いよなぁ~ハハハハハ」
Sさん「すみません、もちろん近くの病院でけっこうです、よろしくお願いします」
やれやれ…。Hさんは上機嫌、Sさんは申し訳ないとかしこまっていました。暴言を吐く酔っ払いよりよっぽど良いけど…。深夜の脳神経外科の選定、搬送先はすぐには決まらず、数件の医療機関を選定することになりました。この間もHさんは上機嫌、隊長とSさんに話しかけるのでした。
Hさん「いや~経理のアイツの話、傑作だったな?アイツ抜けてるもんな?」
Sさん「ええ、そうでしたね」
Hさん「アイツは確か〇大だったろ?」
Sさん「ええ、そうだったと思います」
Hさん「〇大だろ?だからダメなんだよな?バカばっかりだよな?」
Sさん「いや…どうなんでしょうか?私はお世話になっている先輩ですから…」
Hさん「何言っているんだよ?お前も思うだろ?〇大卒なんてバカばっかりじゃないか?その点、オレたちのところは結果を出している、専務も部長もみんなうちだ、そうだろ?」
Sさん「ええ、そうですね…」
Hさん「ねえ隊長さん、あんたどこ大だい?」
隊長「え?私ですか?どこ大とは?」
Hさん「大学だよ、出身大学?」
隊長「いえ、私は高校を卒業してからこの仕事をしています、高卒ですよ」
Hさん「なんだよ~、高卒かよ~、オレたちはK大卒でさ、こいつは後輩なんですよ、優秀なやつでね将来有望なんですよ、ハハハハハ」
隊長「そうですか、K大ですか、それなら優秀なはずですね」
Sさん「ちょっと、係長、失礼ですよ、すみません」
Hさん「ハハハハハ、ごめんごめん、別に隊長さんをバカにしている訳じゃないんだ、気を悪くしたらごめんなさい」
隊長「いいえ、気を悪くなんて…、大丈夫ですよ」
Hさんはずっと上機嫌、Sさんとはずいぶんと年が離れていますが大学の後輩とのことで、かなり目をかけて可愛がっている様子でした。散々、自身の出身大学には各業界で活躍している人が多いかを説明し、その大学を出てきたばかりのSさんは、今年の新入社員の中でもずば抜けて優秀なのだと説明するのでした。
隊長「そうですか、そんなことが…なるほどね~、私は学がないもので、そんな発想はありませんよ」
Hさん「いやぁ、そうかそうか、ハハハハハ、でもありがとうな、こうやって深夜でも駆け付けてくれて、本当にありがたいよ、立派な仕事だと思う」
隊長「ありがとうございます…」
Sさん「…」
はぁぁ…とっても失礼な人…。受け入れ先の病院が決まりました。
搬送途上
上機嫌にしゃべり続けたHさんはストレッチャー上でいびきをたてて眠り始めました。
Sさん「すみませんでした…いつもはこんな人ではないのですが…今日はちょっと飲み過ぎてしまったみたいで…」
隊長「いいえ、お気になさらないで下さい、大丈夫ですよ」
Sさん「すみません…恥ずかしいです…」
医療機関到着
病院に到着し目を覚ましたHさんを処置台移しました。
医師「創を診てからサインしますからちょっと待ってください」
隊長「はい、よろしくお願いします」
病院の処置台に横になったHさん、医師が創を洗って確認しています。
医師「う~ん、Hさん、縫合が必要ですよ、創がけっこう汚れているのでこれから良く洗って、消毒してから縫合します」
Hさん「そう、やっぱり縫わないとダメか、痛いかな?ハハハハ」
医師「ええ、麻酔はしますが痛みはありますよ、縫合の用意をお願いします」
看護師「先生、準備できてますよ」
Hさん「いやぁ~、K大の後輩が新入社員にいましてね、こいつとちょっと飲み過ぎてしまいまして、先生すみませんね、よろしくお願いします」
医師「はあ、そうですか、それはそれは…創を洗いますよ、少し痛いですよ」
Hさん「ええ、それでね、こいつがなかなか優秀で、他の新入社員とはちょっと違うんですよ、ハハハハハ」
医師「そうですか、それはそれは…、創を洗い終わったらサインしますから、もうちょっと待ってください」
隊長「はい、了解です」
Hさん「うちの大学はね、私が在学の時からなのですが…」
処置台の上、Hさんの上機嫌は留まることを知らず、有名な出身大学の自慢話を続けるのでした。煩わしそうにしている医師が聞き流しています。救急隊と看護師はあきれ顔、ねえ、Hさん、止めておいた方が良いよ~…。
Hさん「ねえ、先生、先生はどこ大だい?」
医師「え?はあ…どこ大とは?」
Hさん「大学だよ大学…T大かい?T大出たのかい?ハハハハ」
医師「はあ、大学ですか…」
あ~あ…。
Hさん「そうだよ、ハハハハハ、うちの医学部も良いけどT大なら良いな~、オレはT大卒の先生に創を診てもらいたい、先生はT大かい?ハハハハ」
医師「ええ…そうですよ…」
Hさん「ハハハハハ、T大かい?T大なら大したもんだ、T大なのかい?」
医師「ええ、ですからそうですよ」
Hさん「え…T大なの?」
医師「ええ、ですからそうですって、T大の医学部出身です」
Hさん「え…あぁ…そう…そうなの…T大なの…」
黙々と処置を続ける医師、黙るHさん、苦笑する救急隊と看護師。
「頭部挫創 軽症」
帰署途上
隊長「いやいや…傑作だったな?」
隊員「あれは恥ずかしいですね…こっちまで恥ずかしくなっちゃいましたよ」
隊長「経理のアイツよりあなたの方が傑作ですよって言ってあげればよかったかな?」
隊員「ハハハ…そんなこと言ったら顔から火が出ちゃいますよ」
隊長「部下の彼も恥ずかしいって言ってた、彼も飲んでいたけどしっかりしていたな」
機関員「K大卒か…実際、優秀なんでしょ、でも、同じ大学卒でもあのHさん…人は学歴じゃないって良く分かったな…」
隊長「そうだな~、オレは逆立ちしてもK大なんて入れないけど」
機関員「オレもですよ、田舎の高校もやっと卒業したんですから、高卒の妬みですかね?」
隊長「Hさんの場合、未だにK大卒がこれまでの実績のトップなんだろ?何年前の肩書なのかね…」
機関員「未だにそれがトップじゃ、これまで大した実績はありませんって言っているようなものなのにね」
隊長「ああ、メジャーに行ったプロ野球選手が甲子園に出場したって自慢するかね?」
機関員「フフフ…まあ、しないでしょうね…」
隊長「あの年で係長だ、大した実績なんてないんだろ…って係長になれないオレが言ってみた、ハハハ」
機関員「ハハハハ、人間の価値は学歴でも役職でもないですよ、オレはもうイライラしちゃって…あれだけ失礼な人にもあんな風に対応して…隊長は人間性に優れてますって、大丈夫大丈夫!」
隊員「フフフ…なるほど…確かに学歴を自慢する人って、そこが人生のピークですって言っているようなものですね」
機関員「お前は大卒だから仲間に入れてやんない!」
隊員「いや、ちょっと、酷いですよ、そんなこと言わないで下さい」
隊長「そうだ、学歴の妬みは根が深いんだぜ?逆・学歴ハラスメントだ、アハハハハ」
機関員「アハハハハハ」
ちぇ…オヤジども、ちっとも人間性に優れてないじゃないか…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
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