夫婦喧嘩の果てに

仰天の現場

仕事では仰天の現場に出かけていくことが多い救急隊ですが、プライベートは地味なものです。日曜日の夕方、家族との夕食、ありふれた平和な日常、サザエさんがやっている。ノリスケさんは喧嘩の仲裁名人、話に出てくる夫婦喧嘩は罵声と共に物が飛交う実にアニメらしいものでした。物が飛ぶ夫婦喧嘩か、そういえばあったなぁ…ちっともアニメのお話じゃない…。


出場指令

深夜の消防署に出場指令が鳴り響きました。

「消防隊、救急隊出場、○町○丁目○マンション〇号室T方、詳細不明なるも女性の怪我人」

との出場指令でした。指令が終わると同時に指令員からの呼び出しがありました。付加情報か…何やら面倒がありそうだ…。付加情報とは指令には載せられないような情報を伝達することを言います。

指令員「付加情報です、本件の詳細は不明ですが、夫が暴れているから助けて欲しい、怪我をしているとの内容です、警察官は要請中、活動には充分に注意してください」
隊長「了解しました…出場します」

付加情報から感染防止衣の下に加害対策用のチョッキを仕込んで出場する事となりました。こんな物が役に立つ現場には行きたくないものです。警察官が先着してくれますように…。出場途上に通報電話番号に連絡しましたが応答はありませんでした。


現場到着

現場のマンション前に到着するとちょうど近所の交番から警察官が駆けつけました。警察官と共に指令先の部屋に向かいました。

隊長「Tさん、こんばんは、救急隊です」
警察官「Tさん、ドアを開けますよ」

警察官がドアを開くと玄関には男性が立っていました。部屋は静まり返っており喧嘩は収まっているようでした。この部屋の様子は…何が起こるとこうなるんだ…。

警察官「こんばんは、あなたはTさんですか?」
男性「そうです」
隊長「お怪我をしている女性がいるとこちらに来たのですが、どちらに?」
男性「え…ええ、奥にいます」
隊長「そうですか、患者さんのご様子を見せていただきたいのです、中に入りますよ」
男性「はい…どうぞ」
警察官「その方とのご関係は?」
男性「夫です」

この男性は傷病者の夫でした。小柄でメガネをかけており、受け答えもしっかりとした方である印象でした。

隊長「ご主人、申し訳ないけどカバーをかけますから靴のまま上がらせてもらいますよ、 我々が怪我をしてしまう」
夫「…どうぞ」

救急隊が傷病者の家に靴で上がるなんてあり得ないことなのですが、この時ばかりは…、靴にカバーはかけましたが土足のまま部屋に上がらせてもらうことにしました。靴を脱ぐ訳にはいかなかったのです。

警察官「これは…あなたがやったの?」
夫「ええ…、私がやりました」


傷病者接触

傷病者のTさんは30代の女性、奥の部屋に行くと部屋の隅にうずくまり泣いていました。

隊長「こんばんは、あなたがTさんですね?どうされましたか?」
Tさん「…」
隊長「どこを怪我しましたか?怪我したところを見せてください」

顔を上げたTさんの頭から首にかけて血に染まっていました。床にはガラスとTさんの血液が散らばっていました。

隊員「出血していますね、どこから出血しているのかよく見せてくださいね」
Tさん「はい…」
警察官「旦那さん、奥さんはどうしてこんな怪我をしているの?」
夫「喧嘩をしまして…私が彼女を押したら倒れまして、その時にガラスで切ったと思います」

夫婦喧嘩?これが夫婦喧嘩の果ての部屋?事実は小説より奇なりとはよく言ったものです。アニメの中でオーバーに表現される夫婦喧嘩も、この現場の前ではか可愛いものです。部屋の中は滅茶苦茶、床一面にはガラスが散らばっていました。部屋の食器棚は何かを叩きつけたのでしょう、ガラスが割れ、中の皿やコップ、食器などがはじけ飛んでいました。さらに他の家具や鏡なども粉々に砕け、飛び散った破片が床一面に散らばっているのでした。

隊員「側頭部に怪我をされていますよ、止血をさせてもらいます」
Tさん「はい、お願いします」
隊長「Tさん、他に怪我をしていない?他には痛いところはないですか?」
Tさん「ええ…」

Tさんの側頭部にはザックリと数センチに渡る切創がありましたが、出血はほぼ止まっていました。救急隊は応急処置を行い、まずはTさんを救急車に収容することとしました。喧嘩の相手がいる場所ではなかなか詳しい話は聞けません。夫は警察官からの事情聴取に応じていました。


車内収容

Tさんのお話によると、夫はキレる人…。キレると言っても頭の回転が速くキレるというものではなく、まさに怒りでプッツンとキレてしまう人なのだそうです。この日も口論となりキレた夫は大暴れ、周りにあるものを力いっぱいに投げて部屋のありとあらゆる物を叩き壊したとの事でした。

静止しようとしたTさんを突き飛ばし、吹っ飛んだTさんは床に散らばっていたガラスの破片で受傷したとの事でした。血まみれになった妻を見て我に返った夫を横目に、119番して助けを求めたとのことでした。

隊長「…そうですか、それは大変でしたね、それでどうにか119番を?」
Tさん「そうなんです…、暴れだしたらもう止まらなくて…」

救急車のサイドドアが開いた。車内を覗き込んだのは私服の警察官、刑事が駆け付けていました。

刑事「少しよろしいですか?」
隊長「ええどうぞ、今、病院選定中です」

警察官が救急車に乗り込んでTさんに話かけました。
刑事「奥さん、どうする?ご主人を訴える?」
Tさん「訴える?」
刑事「つまり…事件にするかってこと、奥さんが被害届けを出すというなら我々は動けるけど」
Tさん「…」

Tさんは刑事から今回の件をどうするのか問われていました。その間にも救急隊は病院を選定、受け入れ先はすぐに決まりました。

機関員「よろしくお願いします、5分ほどでそちらに到着できると思います、隊長、○病院は受け入れOKです」
隊長「了解、Tさん、○病院で治療して下さるって、向かいますよ」
Tさん「はい、よろしくお願いします」
刑事「分かりました、○病院ですね、それでは私は降ります、奥さん、今すぐ答えを出さなくても良いから考えがまとまったら警察署に連絡して下さい、いつ相談に来てもらってもかまわないから、良いですね?」
Tさん「…はい、分かりました」


病院到着

「頭部切創 軽症」


帰署途上

機関員「とても大暴れする人には見えなかったけどな」
隊員「本当ですね、むしろ、大人しそうな印象すら感じました」
隊長「普段大人しくしている人ほど逆にそうなのかもしれないな…溜め込んでしまうんじゃないのか…」
隊員「夫婦喧嘩ってあんな風になるんですね、アニメの中だけかと思いましたけど」
機関員「時々あるよな、派手な夫婦喧嘩の現場って、それにしても今日のは相当だった」
隊員「あの奥さん、事件にしますかね?」
機関員「さあな?」
隊長「オレはしないと思うよ」
機関員「それはどうして?」
隊長「あの旦那、暴れて物を壊すことはあっても、奥さんに手を挙げることはなかったって…今日も止めようとした奥さんを振り払った弾みだったみたいだしな」
隊員「被害届けを出さないと警察も動かないですよね」
隊長「多分ね…」
隊員「あの奥さんはそれで良いんですかね?」
隊長「さあな?それは彼女が決めることだ、誰かが積極的に介入する類の問題じゃないからな…」
機関員「でも怪我人が出ているからなぁ…、でも、結局は夫婦間の問題か…、いつだったかやっぱり殴られても相手をかばっている女の子の現場もあったもんなぁ…」
隊長「夫婦喧嘩は犬も食わないなんて言うけど、オレたちは緊急走行で関わり合いに行くんだもんな…」
隊員「ホント…大変な仕事ですよね、救急隊が関わろうが警察が関わろうが、最終的には夫婦間で解決しなくちゃいけないって事ですね」
機関員「そうそう、どこの夫婦だってみんなそうしているよ」

様々な人たちのプライベートに飛び込んでいく救急隊、夫婦喧嘩の様子なんて誰にも見られたくないものです。このように家庭内の問題にも救急隊は関わる機会があります。今回の現場、どう暴れたらこんな風になるのかと思うくらいに滅茶苦茶でした。正直、仕事でなければ関わり合いたくないと思うのが本音です。

来週の予告とジャンケン、 今週もほのぼのとしていたなぁ~、仲裁名人になんてとてもなれない…。 あ~あ…明日は仕事か…朝にはまた非日常の激務が始まる、ちょっとブルーになる…。 こういうのってサザエさん症候群って言うんだっけ?


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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