住民のニーズに応えるということ

救命士のこぼれ話

「救急隊は人間愛を持って傷病者に接するべきである」

「時代の変化に的確に対応し、住民のニーズに応える行政サービスを行うべきである」

そういった事の積み重ねが住民からの信頼を得られることに繋がるのです。

当たり前の事ですが、当たり前の事ほど難しく、いつも何かの機会がある度に確認すること。こんなことは耳にタコ、救急隊に限ったことではありません。消防官に最も必要なことのひとつとしてずっと叩き込まれてきた事です。


帰署途上

隊長「…この前の会議、そんな内容だった」
隊員「なるほど、ニーズね~、要は住民の立場に立った活動をしようって事ですよね」
機関員「プロトコールが変わったり、処置が変わったり、いろいろ変わるけどここだけはずっと変わらないな」
隊員「そうですね、ニーズとか人間愛とか使う言葉は変わっても、結局求められている内容はずっと同じことですね」

時代と共に使われる言葉に若干の変化はありますが、今、目の前にいる傷病者が自分の家族ならどうするだろう?そんな気持ちで活動することが私たちには大切と言うことです。

隊長「時代に対応し住民のニーズに応える、か…、それをやるにはオレがずっと教わってきたことの逆をやらなくちゃいけない時代になっちまったけどな…」
隊員「どういうことですか?それ?」
隊長「ほら、この前あった例の件あるだろ?あれは人間愛のある活動じゃなかったのかね?」
機関員「ああ、例のあれですか…あの隊長は本当お気の毒でしたね…」
隊長「オレたちならどう活動すべきかな?」
隊員「難しい問題ですよね」

この例の件の反省を生かすべき日が訪れました。


出場指令

いつものように消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁目U方、急病人、高齢の男性は脱力、動けないもの、通報は息子さんから」

との指令に私たちは消防署を飛び出しました。出場途上、通報電話に連絡するも応答はありませんでした。


現場到着

指令先のUさん方の前に到着、通報者である息子さんが案内に出ていました。息子さんは40代くらいの方でした。

隊長「救急隊です、通報いただいた息子さんですね?」
息子「はい」
隊長「脱力で動けないとの事ですがお父さんのご様子はいかがですか?」
息子「もう1週間も部屋から動けないでいるんです、私ではもうどうにもならなくなってしまって…、こっちです」
隊長「1週間?」


傷病者接触

傷病者はこの家で一人暮らしをしている70代の男性でUさん、近くに住んでいる通報者の息子さんが時々様子を見に来ているとの事でした。先週から動くのが困難になりトイレに行くのもやっとの状態、何度も病院に連れて行こうとしたけれど、本人がどうしても行きたくないと1週間が経ってしまったとの事でした。

今日、息子が様子を見に来てみると、トイレにも行けない状態になっており、布団の中で排泄までしている状態なので119番通報したとの事でした。垂れ流し状態になってしまった部屋には糞尿の臭いが立ち込めていました。

隊長「こんにちはUさん、救急隊です」
Uさん「救急隊?」
隊長「どうされましたか?」
Uさん「どうって?どうもしねえよ!」
隊長「お体に力が入らなくて動けないと息子さんから要請されて駆け付けたのですが…」
Uさん「何言ってんだ、大丈夫だよ、何ともない!」
隊長「どこか苦しいとか痛いとかあるんじゃないですか?」
Uさん「何ともない、救急隊の世話になるような事はない」
隊長「…」
息子さん「何言ってるんだ父さん、もう1週間も動けないじゃないか!トイレにだって行けなくなって…病院で診てもらわないとダメだろ!」
Uさん「お前が呼んだのか、余計なことしやがって、オレは病院になんて行かんぞ!」
息子さん「動けないじゃないか!」
Uさん「勝手なことをしているんじゃない!オレは何ともない!動けないんじゃない!どこにも行かない、ここにいるぞ!」
隊長「…Uさん、ひとまず救急隊に血圧だとか測らせてもらって良いですか?」
Uさん「あぁ…どうぞ」
隊員「お布団めくりますよ、ちょっと失礼します」

クッっ…ここ数日垂れ流しなのです、この臭い…。特にバイタルには問題はありませんでした。意識だって清明でとてもしっかりとしています。これまで大きな病気もなくとても元気、これまで認知症もないしっかりした方なのだそうです。ただ、この布団で寝ている訳ですから認知症が始まったのかもしれません。

隊長「Uさん、何度も同じ事を聞いて申し訳ありませんけど、本当に何ともないのですか?病院には絶対に行きたくないですか?」
Uさん「大丈夫だ!オレは何ともない!オレはここにいたい!病院になんて行きたくない!」
隊長「そうですか…、救急隊も病院に行った方が良いとは思うのですがね」
Uさん「わざわざ来てもらって悪かったな、ありがとう、本当に必要になったら自分で要請するからそうなった時にはよろしくお願いしますよ」
隊長「そうですか…」

Uさんはこのようにしっかりとした口調で、はっきりと病院には行かないと救急隊の搬送を拒否するのでした。息子さんと救急隊とで30分以上にもわたり説得を続けましたがUさんの意思は変わりませんでした。

隊長「今、ご自分の置かれている状況ももちろん分かっていて、自分の意思をはっきりと述べられる…そうなると…」
息子さん「はぁぁ…どうにか運んでもらえませんか」
隊長「息子さんがお困りなのは非常によく分かるのですがね…ご本人に納得して頂かないと、そもそもですね…受診の意思がない方を医師も診察できませんよ」
息子さん「まあ…そうですよね…」

治療を受ける意思がない方を搬送しても病院だって困ってしまいます。…と言うか、そもそも搬送なんてできません。力ずくで運ぶなんて事はできません。

隊長「息子さん、私たちとあなたとでこれだけ説得してもご本人がどうしても行きたくないと言うのでは病院へはお連れできません、息子さんと他のご家族とも説得を続けてみてください、ご本人が納得してくださるなら救急隊は搬送できますから」
息子さん「ふぅぅ…、頑固なんですよ、もう1週間前から病院に行かなくちゃいけないって、ずっと言っているんですけどね…どうにもならなくて…」

息子さんが困り果てて救急要請したのは非常によく分かりました。それでもUさんは病院への搬送を拒否、この事案は本人辞退による不搬送となりました。隊長と息子さんとで話し合い、息子さんは近所のお医者さんに相談して往診してもらい今後の対応を考えることにしました。

隊長「それでは、お役に立てず申し訳なかったですね」
息子さん「いいえ…」
隊長「ご本人が病院に行くことに納得して下さったら要請してくださってけっこうですから、あの状態では救急車でなければ無理でしょうしね」
息子さん「はい、またその時にはお願いします」
隊長「はい、それでは救急隊は失礼いたします」
息子さん「あの…せめて着替えさせてやってはもらえませんか?私がいくら言っても聞かないんですよ…、救急隊の方なら服や布団なら交換させるかもしれない、あの状態では不潔ですから、お願いできませんか」
隊長「…」

確かにこの状態のまま帰るのは忍びない…。息子さんがほとほと困り果てているのは本当に良く分かりました。救急隊は人間愛を持って傷病者や住民に接するべきだ、それが救急隊が心に刻み活動すべきこと。

隊長「私たちは患者さんを病院にお連れすることが仕事ですから、申し訳ありません」
息子さん「そうですか…」

隊長は申し訳ないと謝りつつもキッパリと断りました。

みなさんは「なんて救急隊だ、どこに人間愛があるんだ、とんでもない救急隊だ!」と思われるのでしょうか?でもこれが例の件を受けての答えでした…。

「不搬送 傷病者搬送拒否」


例の件とは

ある隊でも身体がかなり汚れてしまった状態のお年寄りを扱いました。今回と同様、不搬送の事案となり、家族から着替えさせてやって欲しいと熱望された事案でした。オムツを交換し、着替えをさせてから引き揚げてきたのでした。

救急隊の活動は搬送だけじゃない、困っている人がいるのだから力になる、それが人間愛ってものだ。これが人間愛ならこれはけっして間違った活動ではないはずです。救急隊の本来業務ではないこと、それでも住民に感謝される活動をしたのだからそれで良いじゃないか。住人のニーズに応えているじゃないか…。

ところが…。翌日、そしてさらに翌日とこのお宅から119番通報が入るようになったのです。そして要請者の奥さんはこう言うのです。「またお願いします、搬送は結構です、また着替えさせてやってください」と…。当然、隊長は断ります。「救急隊は緊急の方を医療機関に搬送する事が仕事です、介護が仕事ではありません」と。

「前に来てくれた救急隊はやってくれたじゃない!何で今日はできないのよ!今日も特別にやってよ!」一度の特別を許した隊長は厳しいお叱りを受ける事となりました…。他の隊の失敗事例は教訓になる…、この事案を失敗とし教訓としなくてはいけないなんて…。


帰署途上

隊員「なんか悪いことをしたような気がしますね…」
機関員「仕方がないよ、例の件を反省しろって言うならこれが正しい活動なんだろうさ」
隊長「昔はそんな事ができたんだよ、今回だけは特別ですよで済んだんだ…」
隊員「それならば、また呼んで特別してもらおうなんて人いなかったでしょうからね」
隊長「いなかったよ、そんな人は…、搬送だけが救急隊の仕事じゃないって、人間愛ってのはそういうものだと先輩に教わったものだったんだけどな…」
機関員「今は一度の特別を許すともう一度、その次はもっとってなるからな…」
隊長「時代が変わって、人も変わった、だから昔と同じ事をしていちゃいけないってことだな、でもこれが時代の変化に対応するってことなのかね…」
機関員「救急需要が増えて救急車が足りないこのご時世ですからね、余計なことはやらないでとっとと引き揚げて待機する、それが住民のニーズに応えるってことなんでしょ」
隊長「そうだな、オレたちは一部の奉仕者ではないからね、本来業務でないことはキッパリ断って活動するってことが結局、巡り巡って住民みんなのためってことだな」
隊員「そう思わないとやってられないですね…、なんか世知辛い世の中ですね」
機関員「そうだなぁ…はぁぁ、人間愛って何だっけな?」
隊長「さあなぁ?オレも最近、それを見失っちゃったよ」

救急車の無線が鳴り響きました。

救急隊3人「はぁぁ…」
本部「〇町で救急要請です、受信体制をとってください」
隊長「了解、今から停車します」
機関員「やれやれ…余計なことをしなかったお陰で、さっそくニーズに応えることができますね…」
隊長「そうだな…」
隊員「じゃあ見失った人間愛でも探しに行きますか!」
機関員「ふん…若いねぇ…」

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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