溜息の現場
1年を通して救急隊を遠慮なく利用するホームレスたち、それでもやはり特に寒い季節に要請することが多いように感じます。寒い季節は、どうにかして入院し暖かいベッドと食事にありつきたい、だから入院できるところに連れて行け、そんなケースが増えるのです。
出場指令
早朝の消防署に出場指令が鳴り響きました。
「救急出場、◯町◯丁目…△駅前交番に急病人、男性は腰部痛、動けないもの、公衆電話から」
との指令が鳴り響きました。仮眠中だった私たち救急隊は眠い目をこすりながら出場しました。
現場到着
指令先の△駅交番前に停車、交番の前には警察官が数人が立っており、難しい顔をしていました。警察官の足元に大きなバックがふたつほど、傷病者らしき人は見当たりませんでした。昼間は賑わう駅前ですがまだ早朝、まだ人はまばらでした。
隊長「患者さんはどちらですか?交番からの要請とのことだったのですが…?」
警察官「いいえ、我々からの要請ではありませんよ。これ(足元の大きなバック)の持ち主なのですがね…腰が痛くて動けないから救急車を呼べって交番に来たのですよ、迷惑だからよせって言ったのですけが…そうしたらほら、あそこの公衆電話で119番したみたいですよ、多分、住所不定です」
隊長「そうですか…、患者さんはどちらに行ったのですか?」
隊長「救急車のサイレンが聞こえてきたら、まだ荷物があるからってどこかに行きましたよ、あ!来た来た、あの人です」
隊長「ああ…なるほど…」
傷病者はFさん、60歳代の男性で両手に大きな紙袋を下げてこちらに向かって歩いてきました。腰が痛くて動けない…か。
Fさん「オレです、腰が痛くってさ、入院できるところに行ってくれよ」
隊長「はぁ、入院できるところですか…まあFさん、ひとまず救急車の中でお話を聞かせてくださいよ」
Fさん「ああ、そうだな、よろしくな」
隊員「Fさん、では救急車に行きましょう、ずいぶんと荷物がいっぱいあるのですね、あなたの大切な荷物ですからあなたがしっかり管理してください」
Fさん「ああ分かった」
隊員「でも、これを全部持つのはたいへんですね、この大きい荷物は私が持つからあとはあなたが持って下さい」
Fさん「ああ」
隊員「え”Fさん…何これ?すごい重たい、何が入っているの!?」
Fさん「オレの全財産が入っているんだよ」
この荷物…大きなバックはひとつ20キロ以上あるのではないだろうかという重さでした。さらに大きなバックがもうひとつ、紙袋が二つ、全部で30〜40キロくらいありそうです。Fさんはこの重い荷物を持ち上げ、たくましい足取りで救急車に乗り込みました。腰が痛くて動けない人にできる事ではありません…。
警察官「やれやれ…あれで腰痛で歩けない、入院させろって言ってきましてね、たいへんですね…」
機関員「はぁぁ…そうですね…あとは我々で対応します、本件を担当してくれた方を教えていただけますか?」
警察官「我々は迷惑だからやめろと言いました、勝手に119番したのです、我々は誰も扱っていませんよ」
機関員「確かに、そうですね…」
車内収容
隊長「どうされましたか?」
Fさん「腰が痛くってさ、動けないんだよ」
隊長「そうですか…Fさんどちらにお住いなのですか?」
Fさん「オレはホームレスです」
隊長「そうですか、腰が痛いのにこの大きな荷物が持てるの?大丈夫なのですか?」
Fさん「痛いんだけどさ、オレの全財産だからさ」
隊長「腰はいつから痛いのですか?どこかで治療をしているのですか?」
Fさん「そうだなぁ、かれこれ20年くらいになるかなぁ?前いた町の病院では薬を貰っていたのだけどよ、こっちに来たからとりあえず入院できる病院に連れて行ってもらいたいんだ」
隊長「Fさん、救急車は緊急の方を搬送するためにあるの、20年前から痛いのではずっとでしょ?緊急ではないでしょ?それから入院できる病院なんてものはありません、入院治療が必要かどうかは医師が診察して判断することですから」
Fさん「そうなの?オレが前にいた町じゃ入院できるところに連れていってくれたよ」
隊長「Fさんはいつこの町に来たのですか?この辺りでかかっている病院はあるのですか?」
Fさん「昨日この町に来たんだ、さっきもD病院ってところに行ってきたところだ」
隊長「さっき?それは救急車でD病院に行ってきたのですか?」
Fさん「そうそう、入院できなかったんだ」
隊長「D病院で入院治療の必要がないって判断されたのなら他の病院に行っても同じですよ」
Fさん「腰が痛いのだから仕方ないだろ、入院できるところを探してくれれば良いんだよ」
はぁぁ…話にならない…。Fさんは数年前からの路上生活者、全財産を携行して昨日にこの町にやってきたとのことでした。腰が痛いのでとりあえず入院しようと思うので、入院できる病院に行ってくれ、そう訴えるのでした。
隊長「Fさん、救急隊は病院を探しますけど、入院できるかどうかは先生の診察の結果次第ですよ」
Fさん「ああ、そうだな、とりあえず入院できれば大丈夫だから頼むよ」
隊長「だから、それは先生が判断することですって」
Fさん「分かった分かった、少し入院すれば大丈夫だから」
う〜ん…、会話にならない…。根負けした隊長が下命しました。
隊長「ほら、じゃんじゃん探そう!」
隊員・機関員「了解です…」
まず、先程診察を受けたD病院に連絡を取りました。レントゲンなどの検査も実施し、入院の必要はないと判断したとのことでした。痛み止めを渡し帰るように言ったのだが、入院させろと騒ぎ出したため当院での受け入れはもう金輪際できないとの回答でした。昨日にこの町にやってきて、既にブラックリスト入りとは…大物がやってきてしまった予感…。
機関員「D病院はもう診られないとのことでした…痛み止めは出しているって」
隊長「痛み止めは飲んだのですか?D病院は診られないって」
Fさん「あの病院はダメだ、入院できねえとか言いやがってよ、入院できなくちゃ意味ねえんだよな」
隊長「Fさん、入院できるところを探すなんて救急隊にはできないからね」
Fさん「もう分かったって、数日で大丈夫だからとりあえず行ってくれよ」
隊長「…」
次々に近くの病院を選定しましたが、これまでの経過を説明すれば「D病院で大丈夫と診断された方なら当院で診察したって同じことです」まっとうな回答が返ってくる…。これからトラブルを起こすことが約束されているような傷病者です。当然の如くに選定は難航しました。
何件の病院に頼み込んだでしょうか?診察はしますが、救急隊は診察が終わりFさんが病院を離れることを確認するまで立ち会うことが条件でした。ホームレスを扱うと普通の事案の2倍も3倍もの活動時間を要してしまう理由のひとつです。…どうにか病院が決まった。
病院到着
医師「そう…、この大きな荷物持ってはるばるこちらまで出てきたのですか?たいへんでしたね?レントゲンを撮って調べてみましょう」
Fさん「そうしてください、もう腰が痛くってね、入院すれば良くなると思います」
医師「それは検査が終わってから判断します」
隊長「Fさん、レントゲン室はあっちです、行きましょう」
Fさん「ああ、分かった」
通常であれば傷病者を医師に引き継げば次の活動に備える救急隊なのですが、このような事情で次の現場には向かえません。約束のとおり、救急隊はFさんの診察に立ち会うのです。
レントゲン検査が終わった。
医師「Fさん、レントゲンの結果ですけど別に異常はありませんね、それだけ重たい荷物を持てるのだからたいしたものだよ、痛いのなら痛み止めを出してあげる、今日は帰ってくださってけっこうです」
Fさん「先生、それは困るよ、入院させてくださいよ」
医師「それはできませんよ、入院治療の必要がないのだから」
Fさん「ここは冷たい町だな、オレが前いた町なら入院させてくれたのになぁ…」
医師「そう、だったら前の町に帰りなさいよ、何でこっちになんて来たの?この町にはあなたを入院させる病院なんてないよ」
Fさん「ああ”…本当に冷たい町だ!」
隊長「Fさん、先生が入院しなくても大丈夫ですって、腰は大丈夫ですって、痛み止めも出してくださるって」
隊員「しっかり診察してもらったのだから迷惑かけないで帰りましょう、ほら帰ろう、先生ありがとうございました」
隊長と隊員は納得のいかないFさんを診察室から連れ出しました。
看護師「Fさん、痛み止めのお薬を用意するからあちらで待っててください」
明らかに不満そうな表情を浮かべたFさんは、別に騒ぐこともなく看護師の指示に従い受付の前のソファーに座わりました。
隊長「先生サインお願いします」
医師「まったく問題ない、D病院でも異常なしなのだから当たり前だよね…」
隊長「本当に助かりました、全然診てくれる病院がないのですよ…またお願いします」
医師「私もあまりどうぞとは言いたくないなぁ…」
「腰痛 軽傷」
医師引き継ぎ後、待合室
今回のようなケースの場合、中には入院させない腹いせに病院に嫌がらせをしたり、大騒ぎをしたりするケースが非常に多いのです。ホームレスの受け入れ先がなかなか決まらない理由のひとつになっています。Fさんの場合、医師や看護師にからむ訳でも暴れる訳でもなかったので、大丈夫だと思ったのですが、そうはいかないのでした…。
痛み止めの薬を貰ったFさんは病院の外へ。
隊長「さあFさん、帰ろう」
Fさん「帰る?どこに帰れば良いんだよ」
隊長「それは分からないけど、誰も強制はしませんよ」
Fさん「この寒い中、腰が痛いと言っているのに入院させないのか?」
隊長「先生が診察してそう判断したのだから…」
Fさん「本当にこの町は冷たいんだな」
隊長「診察してもらって薬ももらえたのだから冷たいってことはないでしょう」
Fさん「あんた…オレみたいのは死ねばいいと思っているだろ?」
隊長「何でですか?そんなこと思ってないですよ」
Fさん「オレが事故にでもあえば入院させてくれるんだろ?だったら車に轢かれてやるよ、ほら、こうすればいいのだろうが!」
そう言うとFさんは車道に走り出し横になりました。もちろん本気で轢かれる気なんてありません。絶対に轢かれないであろう絶妙な位置で倒れこみました。まだ早朝とはいえ大通りです、通りかかった車が何事かとFさんを避けていく。あ~あ何てこった、最悪だ…。
隊長「何やってるの!?Fさん、そんなことしないでよ、ほら!誰も死ねばいいなんて思っていないよ!」
隊員「Fさん、止めましょう、こんなことしても何も良いことなんてないですよ」
隊長と隊員でFさんを引っ張り起こし歩道側に連れてきました。
隊長「Fさん、病院の前でこんな事をしていたら、もう診てくれるところがなくなっちゃうよ、本当に大きな病気や怪我をした時に診てくれる病院がなくなったら困るのはあなたですよ、ちゃんと診察してもらったのだから今日は帰ろう、ほら荷物を持って!」
Fさん「…」
やっと諦めたFさんは両肩に食い込むほど重いバックを担ぎ、両手に紙袋をぶら下げて歩き始めました。
隊長「ねえFさん、もう救急車は呼ばないで下さい、さっき先生が言ったように何度も救急車を呼んでも同じですよ、入院が必要かどうかは先生が決めることです、もう2つの病院で大丈夫と判断されたのだから」
Fさん「ふん…、また何度でも呼んでやる」
隊長「ふぅ…どこにいるのも、何をするのもあなたの自由ですけど、こんな風にされると本当に必要な人が死んでしまうのですよ」
Fさん「ふん、あんたもオレみたいになるよ、この年になったら…」
そういってとぼとぼととFさんは去っていきました。
救急車内
Fさんが病院周辺から離れるまで20分ほどの時間がかかりました。この間も救急車は別の現場に向かうことはできませんでした。
機関員「お疲れさん…」
隊員「道に倒れ込むし、帰らないし、最後にまた救急車を呼ぶって捨て台詞を吐いていきました」
隊長「はぁぁ…疲れたな…」
出場から医療機関を引き揚げるまで2時間以上もの時間がかかりました。この間に救急車が本当に必要な人がいたら?この間に受け持ち区域で救急車でなければ助からない人がいたかもしれません。
「あんたもオレみたいになるよ」って?
なるもんか、世の中のほとんどの人がそんな風にならないために歯を食いしばって働いているんじゃないか!でも現実は、働かなくても病院に行けるし、診察もしてもらえる、薬だってもらえる。彼らの診察代も薬代も、そして救急車の運用費も、歯を食いしばって働いているほとんどの人たちが払っている。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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