とっとと運べよこの野郎~

溜息の現場

救急隊の活動とは切っても切り離せない酔っ払いの対応、様々なタイプの酩酊者がいますが、最も手を焼くパターンは食って掛かってくるタイプ、とにかく好戦的な人です。

出場指令

「救急出場、◯町◯丁目◯番、歩行者とタクシーの交通事故、怪我人が1名、警察官から」

もう終電が終わっている時間、眠たい目を擦り救急隊は消防署を飛び出しました。現場は担当する繁華街のど真ん中、深夜の街をネオンが照らしている。こんな時間でも多くの人がいて、そのほとんどが千鳥足でふらふらとしています。

現場到着

繁華街での活動はトラブルを回避するためにも警察官と協力します。現場にはすでに警察官が到着しており、何やら男性と口論をしていました。普通の交通事故とはとても思えない20人ほどの警察官がいました。救急車をパトカーのすぐ近くに停車しました。

部下「だからオレたちは被害者だろうがこの野郎~!跳ねたヤツを探すのがお前たちの仕事だろうこの野郎~!」
警察官「ええ、もちろんですよ」
部下「で、捕まえるのかよ?この野郎、あ”あ”〜ん?」
警察官「もちろんしっかり捜査します、ただ、さっきの話だとひき逃げになるかはちょっと分からないよ」
部下「何だとこの野郎〜、どう考えてもひき逃げ事件じゃねえかよこの野郎〜」

嫌だな…アレに巻き込まれたくはないな…中年の男性が警察官に食って掛かっている。

隊長「救急隊です、怪我人はどちらに?」
警察官「お疲れ様です、こちらの方たちが車に跳ねられたと言うことです」
部下「やっと来たじゃねえかこの野郎、怪我人の手当てが先だろうがこの野郎~!」
警察官「そうですね…、ほら、ですから救急隊に来てもらったのですよ、さあ病院に行きましょう!捜査も大事だけど怪我の治療の方がもっと大事ですものね?」

この人が怪我人なの…?警察官にこの野郎と食って掛かることができるくらい元気じゃないか…。

隊長「痛いのはどこでしょうか?救急車の中で詳しいお話を聞かせてください」
部下「オレじゃねえよ、怪我したのはこの人、ほら、救急車が来ましたよ、行きましょう」

部下が声をかけたのはすぐ近くに座り込んでいた中年の男性、こっくりこっくりと眠たそうにしていました。
Kさん「ん?ああ…救急車が来たの…」

ムクリと立ち上がった傷病者のKさんは歩行可能、おしりの痛みを訴えていました。Kさんは40代、部下は30代で二人は職場の同僚でした。夜から散々飲んだ挙げ句に終電を乗り過ごしたため、さらに二人ではしご酒、相当に酔っ払っていました。

部下「Kさんは病院に行ってくださいよ、オレはあのクソ運転手を捕まえるようによく言っておきますから」
Kさん「ああ…運転手?」
部下「そうです、あの野郎、許さねえ、行って下さい」
Kさん「行く?どこに?」

警察官からの話によると、二人はタクシーに乗ろうとした際にタクシー運転手と口論になりました。タクシー運転手は乗車拒否、ドアをバタンと閉めて走り出しました。二人は「おい、待てよこの野郎!」と捕まえようと追いかけました。自動車を人間が止められるはずもなく、Kさんはしりもちをついたのでした。部下は激怒し「ひき逃げにあった」と110番通報したのでした。通報時点ではひき逃げ事件発生…だから普通の交通事故ではあり得ない20人近くもの警察官が現場に駆けつけていたのです。

隊員「Kさん、病院にお連れしますから救急車に行きましょう、私が介助します」
Kさん「ああ、そうか、そうだった、ケツが痛いんだった…」

隊員の介助で歩くKさんはまさに千鳥足、ひとりではまっすぐ歩けない…。きっと介助しないと転倒してしまうでしょう。ひき逃げ?酔っ払いの転倒?これは事件?事故?本当のところはまだ分からない。ただ…絶対に確かなことは、関わりたくない事案であること…。

車内収容

隊長「そうですか、それでは痛いところはおしりですね、他に痛いところはありませんか?」
Kさん「他は手を擦りむいたけど…これはかすり傷だな、とにかくケツが痛いんだ」
隊員「触りますよ、この辺ですね?」
Kさん「痛ててて、そうそう、そこが痛いんだ」
隊員「分かりました」
部下「おい!ちゃんと見ろよこの野郎!そんなんで何が分かるんだよこの野郎~!」
隊員「…」

部下がまた騒ぎ始めた。

隊長「おしりだからな…Kさん、もっとよく見せてもらっても良いですか?」
Kさん「ああ、大丈夫だ」

そういうとKはズボンを脱ぎ、さらにパンツまで脱ごうとするのでした。

隊員「そこまででけっこうです、パンツまで脱がなくても分かりますから大丈夫ですよ」
Kさん「遠慮するなって!アハハハ〜よく見てくれよ〜」
部下「うひゃひゃひゃひゃ〜止めてくださいよKさん〜ウケる〜アハハハハハ〜」
隊員「…」

Kさんは腰に手を当てて仁王立ちし、ズボンとパンツはくるぶしまで落ちて下半身が丸出しになっている。おしりには小さな打撲痕、かすり傷がありました。部下はKさん陰部を指さして大笑いしている。深夜の繁華街、大勢の警察官、下半身を露出した中年、大きな笑い声、カオス…。

隊員「傷はよく確認できました、ズボンをあげて下さい、血圧を測らせていただきます」
Kさん「はいはい」
隊員「それでは腕を失礼します」
部下「何で血圧なんだよこの野郎~!そんなのどうでも良いじゃねえかよこの野郎~!とっとと運べよこの野郎~!」

え”何なの?血圧を測っちゃダメなの…。

Kさんは騒ぐこともなく救急隊の質問やバイタルサイン測定に協力的なのですが、部下はとにかく好戦的なのです。何をしても気に入らない、何でも良いからケチをつけたい。発言の最後には必ず「この野郎〜」と言います…。

隊長「血圧も脈拍も測らないで病院には連絡ができません、だから測っているのですよ」
部下「そんなのどうでもよいだろうこの野郎!とっとと病院に運ぶのがお前らの仕事だろうがこの野郎〜!」
隊長「申し訳ないですが、Kさんは具合いが悪いのですから、少し静かにお願いします」

こんな時には「患者さんのために静かにしてくれ」と言います。救急隊は傷病者の見方、傷病者のためにお願いします、こんなスタンスで注意します。これなら角も立たず部下も…

部下「いいから早く行けよこの野郎~!」

全然分からないや…この人…。部下から罵声を浴び続けながらも測るべきバイタルサインを測定した。救急車のサイドドアが開いて若い警察官がムクリと顔を出した。

若い警察官「それではお二人は先に病院に行って下さい、治療が終わったら警察署に来て下さい、詳しいお話はまたその時に」

え”…いやいや、部下は同乗しなくて大丈夫、こんな人を病院に連れて行って良いことなんてひとつもない…。

部下「何だとこの野郎~!オレたちは被害者なんだぞこの野郎~!あのタクシーの運転手をとっ捕まえるのがお前たちの仕事だろうがこの野郎~!」

そう言うと部下は救急車から降りて、またも警察官に絡み始めたのでした。Kさんはストレッチャー上でグーグーと寝息を立ててすっかり眠っていました。よしよし、今のうちに救急隊は仕事を進めようじゃないか。

病院選定

…とは言うものの、病院が決まらない。かなりの酩酊状態であること、これだけで病院が決まりづらい要素には十分です。さらに外で騒いでいる部下の声が救急車内にまで響いてくる。

看護師「ねえ、何か騒いでいるのが患者さんなの?」
機関員「いいえ…患者さんのお連れの方です」
看護師「…そう、患者さんは騒いでいないの?」
機関員「ええ、今は眠っています、騒いでいません」
看護師「ごめんなさい…この時間は私と先生の二人で対応しないといけないので、そんなお連れさんがいるのはちょっと…他を当たって下さい」
看護師「そこを何とかなりませんかね?救急隊も協力いたしますから、そこを何とか…」

部下が騒いでいる声を聞いたらトラブルを連れてくるとしか思えないでしょう。選定は難航しましたが、どうにか搬送先が決まりました。この時には、Kさんはストレッチャーでぐっすり眠っていました。外では部下がまだ騒いでいました。

隊員「隊長、あの人は乗せない方が良いですよね?」
隊長「もちろんだ、このまま警察官に行き先だけをそっと伝えてさっさと向かうぞ」
隊員「了解」

救急車を降りた隊員は若い警察官にそっと伝えました。

隊員「△病院に決まりました」
若い警察官「分かりました」
隊員「では、救急隊は出発します、お疲れ様です」
若い警察官「え”え”…あの方は同乗させないのですか?」
隊員「いや…それはちょっと…あんなに大騒ぎしているし、病院は具合の悪い方がいるところですから」
若い警察官「いや…どうにか連れて行ってもらえませんか?同僚の方ですし…」
隊員「警察も彼から詳しい話を聞かなくてはいけないですよね?」
若い警察官「いやいや、もう十分聴取出来ていますから」

そちらでどうぞ、いやそちらこそどうぞ、いやいやどうぞどうぞ…隊員と若い警察官が醜い押し問答を続けていると、ベテラン警察官がこれに気がついて…。

ベテラン警察官「おっ!病院が決まったみたいですよ、あなたも一緒に行くよね?」
部下「病院?決まった?行くに決まっているだろうがこの野郎~!」
ベテラン警察官「それならほら、救急車に乗ってほら!捜査も大事だけど一番大事なのは怪我の治療だよ、ほらほら!」
隊員「ええと…Kさんは救急隊が責任を持って病院にお連れしますから、あなたは捜査に協力してあげたらいかがですか?」
ベテラン警察官「大丈夫!大丈夫!まずは怪我の治療だよ!あなたがいないとKさんも心細いでしょ、ねえ?」

そんなことを言いながらベテラン警察官は部下の背中を押して救急車に同乗させた。

ベテラン警察官「それではお願いします!捜査は私がしますから、治療が終わったら二人で警察署まで来てね、とにかく今は怪我の治療を最優先にしよう!」
部下「お…おう」
Kさん「zzz…」

隊員よりもこのベテラン警察官の方が1枚も2枚も上手です…。部下が同乗することになってしまいました。隊長が恨めしそうに見ている…すみません…。

現場出発

搬送途上も部下はたいへん元気で救急隊を罵倒し続けました。

部下「どうして出発するまでにこんなにかかるんだよこの野郎〜」
隊長「病院が決まらないと救急車は出発できないのですよ」
部下「とっとと運べば良いだろうがこの野郎~!」
隊長「診てくれる病院を探してから救急隊は搬送するのですよ」
部下「は?病院に許可取らないといけないの?だったら救急車の意味ねえじゃねえかこの野郎!」
隊長「仰るように連絡しないで搬送できれば良いのですけどね、そうはいかないのですよ」
部下「だったら重症の患者はどうするんだよこの野郎~!Kさんが死んじゃったらどうするんだよこの野郎!」
隊長「でも、医師だって同時に何人も診察できる訳ではないですから」
部下「今は酒が入っているから痛くないかもしれないけど、酒が抜けたらすげえ痛いかもしれねえだろうがこの野郎~!」
隊長「ええ…そうですね~」
部下「そうですね〜じゃねえよこの野郎~!」

隊長…ごめんなさい…。病院に向かう救急車内、元気溢れる部下は隊長を罵り続けました。部下がこれだけ大騒ぎし続けている中、Kさんはぐっすり、気持ちよさそうにグ~グ~いびきをかいています。

病院到着

心配していたのはこの部下が病院でも騒ぐかもしれないこと。いやむしろ、この調子なら騒がない訳ないのだろうな…。受け入れてくれた病院はそんなことは折込済で、救急隊が診察が終わるまで立ち会ってくれるのならばと診察してくれることになったのでした。

Kさんを診察室に運び込み、待合室にひとりになった部下は大人しくベンチに座っている。またいつ騒ぎ始めても対応できるように隊長と隊員は少し離れた待合室のベンチで待機しました。

Kさんはなかなか診察室から出てこない…。「何だってこんなに時間がかかるんだこの野郎~!」と、騒ぎ始めるに違いない…。

部下「あの〜…救急隊さん、私たちは診察が終わったら警察署に行くのですよね?警察署に電話してからの方が良いでしょうか?」
隊長「そうですね、連絡されてから指示を受けるのが良いのではないでしょうか」
部下「申し訳ないのですけど、警察署の電話番号を教えてもらいたいのですが…それからさっきの警察の方の名前も教えてください」
隊長「ええ、少しお待ち下さい」
部下「申し訳ありません、お願いします」

え”…何?気持ち悪い…何なの?部下はすっかり大人しい人に豹変したのでした…。どうしちゃったのこの人…。

「臀部打撲 軽症」

帰署途上

機関員「はぁあ、とんでもない「この野郎」野郎だったな?」
隊員「それが待合室で急に大人しくなっちゃって…何だったのですか…あの人?」
隊長「病院に着く直前まで大騒ぎしていたのだけどな…」
機関員「暴走族もひとりにしたら大人しい子だったりするじゃない、それと一緒、上司の手前だからいきがってはいたけれど、ひとりになったら急に心細くなったのじゃないのか?」
隊長「まあそんなところだな、小さい「この野郎」野郎だよ」
機関員「それにしてもあの警察官にやられたな?」
隊員「はい…申し訳ないです…」
機関員「キャリアの差だ、ベテラン警察官の方が何枚も上手だったな?」
隊員「すみません…、完璧にやられました」

きっとKさんも部下も酔いが覚めれば大人しい人なのでしょう。二人とも会社に勤める社会人、守る家族だっていることでしょう。あの様子なら警察署に行ってからも、警察官を相手に間違っても「この野郎」なんて言わないだろうし、警察官の本拠地で先程のように食って掛かるとはとても思えない。結局、酔っ払って気が大きくなって、上司の手前でいきがっていただけなのでしょう。

上手いことやったのはベテラン警察官です。治療が終わって大人しくなったこの二人が警察署にやってきたところでゆっくり事情を聞けば良い。この程度の怪我だし、ひき逃げとはとても言えない内容です。果たして酔いが冷めた彼らは、それでもひき逃げだと訴えるのでしょうか?

酔って転んだだけですから捜査とか大げさなことにしないで下さい、そんなことを言い出すとしか思えない。繁華街に務めているベテランの警察官ならば、好戦的な酔っぱらいの対応なんてお手のものです。教科書には書いていないこと、成績では測ることの出来ないこと、現場力はまだまだベテラン警察官に遠く及ばない…。

はぁぁ…悔しいぜこの野郎…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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