緊迫の現場
年々増え続ける救急車の出場件数、全国各地の消防本部もあの手この手と増え続ける需要に応えるために様々な対策を打ってはいますが、救急車の稼働率が100%となってしまう事態や119番通報が繋がりづらくなってしまう事態まで起こり始めてきました。こんな状況の時、現場ではどんなことが起こるのでしょうか…
出場指令
この日も救急車は朝から出ずっぱり、一度も消防署に戻ることもできず無線で呼び出されて、再出場を繰り返していました。既に辺りは暗くなっていました。どうにか帰署させてほしい、少しだけでも良いから食事と休憩を摂らせて欲しい。そんな願いは届くはずもなく無線機から次の指令を告げる呼び出しがあるのでした。
「救急隊、ポンプ隊出場、⚪︎町⚪︎丁目…店舗の前、女性は倒れたもの、意識ない模様、通報はSさん男性」
隊長「⚪︎町…かなり遠いですが、我々しかいないのですか?」
本部「はい…周辺に運用できる隊が全くいません…」
隊長「了解、出場します」
機関員「⚪︎町…さすがに土地勘ないです…」
機関員は地図を開き、隊長はカーナビを設定しました。現在地から現場まで24km…。
隊長「はぁぁ…遠すぎる…」
機関員「この時間帯だと緊急走行でも1時間近くはかかります」
隊員「通報者にも到着まで相当に時間がかかることを伝えておきます」
隊長「ああ、そうしてくれ」
本来向かうはずのない遥か遠くの町に救急車は走りはじめました。
出場途上、119コールバック
119番通報のあった電話に連絡を取りました。
隊員「もしもし、119番通報していただいたSさんですね?救急隊です、そちらに急行しています」
Sさん「お願いします、早く来てあげて下さい、意識がないみたいです」
隊員「意識がない?呼吸はどうでしょうか?」
Sさん「さあ、どうだろう…急に倒れてしまって…どうですか?息ない?呼吸はありますかって?今?そうです、救急隊からの電話です、ええ、急いで向かっているって」
電話先でSさんは何やら周辺の人たちと会話しながら電話に応答してくれていました。どうやら傷病者の意識はないらしい、現場では本物の緊急事態が起こっていることが伝わってくる。
隊員「Sさん、周りにもあなた以外に協力してくれる方がいるのですか?」
Sさん「ええ、今、呼吸の状態を確認してくれています…、ない?息はないですか?やっぱり息をしていません」
隊員「私が心臓マッサージのやり方をお伝えしますので実施していただけますか?」
Sさん「心臓マッサージですって、いける?できますか?心臓マッサージを始めました、あと他の方が交番に助けを求めに行ってくれています」
隊員「ありがとうございます、Sさんはこのまま状況を教えていただけますか?」
Sさん「ええ、それが突然倒れまして…」
現場は商店街の一角、お店が立ち並ぶ通りでした。大勢の通行人がいる中で、高齢の女性が突然路上に倒れ込んだ。Sさんをはじめ数人が駆けつけ声をかけるが全く応答がない。1名は傷病者の救護に、1名は交番に走り、Sさんは119番通報したのでした。
隊員「それではその方が突然倒れたのは119番通報をいただく数分前ですね?」
Sさん「ええ、倒れてすぐに通報しました」
隊員「分かりました、そのまま心臓マッサージを続けて下さい」
Sさん「はい、あ!サイレンが聞こえてきました」
隊員「それは消防隊のサイレンでして…実は救急隊は今、かなり遠くから向かっていまして、到着までかなりのお時間を頂くことになります、先に消防隊が駆けつけます、消防隊が到着するまで心臓マッサージを続けて下さい」
Sさん「救急車は時間がかかる…ああ…そうですか、どのくらい?」
隊員「どうでしょう…1時間近くかかるかもしれません…」
Sさん「え”…1時間…」
隊員「急いで向かっています、間もなく到着する消防隊の協力をお願いします」
Sさん「はい、分かりました」
隊長と機関員に聴取できた情報を共有する。
隊長「突然の心肺停止か…」
隊員「はい、周辺にいた方が心臓マッサージを実施してくれています」
機関員「心が痛むな…遠すぎる…」
現場到着
指令を受けてから約50分で救急隊は現場に到着しました。商店街の人通りの多い通り上に横たわる高齢の女性、先着した消防隊がCPR(心肺蘇生法)を実施していました。
消防隊長「傷病者は到着時からCPA(心肺停止状態)、ここまで3回の除細動を実施です」
隊長「了解、身元は分かっていますか?」
消防隊長「ええ、警察官が持ち物から確認してくれました」
隊員「隊長、パッド貼れました」
隊長「了解、波形は?」
心電図波形に映し出されたのは平坦な直線でした。
隊長「心静止、傷病者を車内収容、隊員は指示要請しろ、特定行為にいくぞ」
隊員「了解です」
特定行為とは救急救命士が行うことのできる医療行為のこと。救急救命士が医師の許可なくこれを行うことはできません。指示要請とは、医師に連絡し特定行為実施の許可を得ることを言います。消防隊長から手渡されたメモには既に相当の情報が集まっていました。隊員は携帯電話でMC指導医に連絡しました。MCとはメディカルコントロールのこと。電話で指導医に連絡を取り、処置についての指示を仰ぎます。
隊員「指示要請です、⚪︎町の現場、バイスタンダーの胸骨圧迫あり、消防隊到着後、これまでに3回の除細動を実施…」
MC指導医「目撃ありの状況、倒れた時間は?」
隊員「はい…正確な時間まで取れていまして…⚪︎時⚪︎分です」
MC指導医「それはまた…酷いね…」
隊員「特定行為の実施はよろしいでしょうか?」
MC指導医「ふぅ…実施して下さい」
隊員「了解しました、特定行為を実施します」
MC指導医から特定行為の許可を得て、救急隊は救命救急センターへと向かいました。どうも歯切れの悪いMC指導医とのやりとり…。気持ちは分かる、言いたいことはよく分かる…。
医療機関到着
隊長「…と言う状況でした」
救命医「なるほど…、バイスタンダーによる胸骨圧迫、先着した消防隊が除細動を3回か…⚪︎時⚪︎分に倒れたと言い切れる根拠は?」
隊長「ええ…それがですね…」
現場では先着した消防隊が40分も活動していました。交番から駆けつけた警察官も活動しており、商店街に設置されていた防犯カメラを確認していました。傷病者がいつ、どんな風に倒れたかまでの正確な情報が取れていました。
救命医「現場が⚪︎町で、救急隊は△町から向かったと…、ふぅ…だからこんなにも時間がかかっている訳か…」
隊長「はい…申し訳ありません…」
救命医「いや…隊長が謝ることではないですよ…お疲れ様でした」
「院外心肺停止 重篤」
救命センター敷地内
救急車の消毒、清掃、器具の交換や準備など救命センターの救急車駐車場で再出場の準備を整えます。医師への申し送りを終えた隊長が戻ってきました。
隊長「突然の心肺停止、バイスタンダーの胸骨圧迫もあった、早々に到着した消防隊の除細動もあった、あと近くに救急車がいたのなら助かったかもしれない事案だ…」
隊員「救命の連鎖が切れてしまった事案…」
隊長「ああ…罪深いよな…こんなことじゃ誰も助からない…」
隊員「MC指導医もそれを言いたそうでした、これだけ正確な時間まで取れているのに時間がかかり過ぎている…」
隊長「引き継いだ救命医も言っていた、救急隊が悪い訳ではないって言ってくれていたけどね…」
機関員「救急隊が心を痛める必要はないですよ、オレたちは命令で向かっているんだ、20キロ以上もの道のりで時間がかからない訳がない…現場の問題じゃないですよ、あんまり真面目でいると病んでしまいますよ」
隊長「ああ…そうだな…、次があるしな」
隊員「昼飯、食べられますかね?」
機関員「もうとっくに夕食の時間だけどな…」
この日の救急隊稼働率は90%を常に上回る厳しい状況が続いていました。こんな時はいつもそう…消防署になんて戻れる訳もなく、救命センターを引き揚げると1分とかからず次の出場指令を伝えるための無線機が鳴りだしたのでした。
隊長「はぁぁ…食事も休憩も禁止だってさ」
機関員「病院の敷地から出ることすらできないなんてね…」
本部「救急隊、再出場願います、◻︎町で要請です」
さて、救急隊はいつ食事や休憩が摂れるのだろうか?次はどこに向かうのだろうか?果たしてそこに着くまでにどれだけの時間がかかるのだろうか?どうか命に関わるような傷病者ではありませんように…。
隊長「◻︎町◻︎丁目…女性は1週間前から咳が治らないもの、通報者は本人…と、了解、救急隊は出場します」
本部「よろしくお願いします」
機関員「◻︎町…これはまた…土地勘のないところだな…今度は14キロありますよ」
隊長「でも、今回は緊急性のなさそうな指令内容で良かったな?」
隊員「ええ、そうですね、この内容なら時間が掛かっても命には関わらなそうだ」
機関員「は?何言ってるの?1週間前からの咳?意味分からねえ…救急車は緊急性のある人のところに駆けつけるものだけど…」
隊長「え”…ああ…そうだった…」
隊員「そう言えば、そうでした…」
切れてしまった鎖、壊れてしまった救命の連鎖は救命士たちの心も少しずつ蝕んでいる…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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