はしごして一気飲み

救命士のこぼれ話

飲み屋をはしごして急性アルコール中毒となった傷病者を扱うことは、繁華街を管内に持つ救急隊なら日常茶飯事です。今日はちょっと違ったはしご、ちょっと違った一気飲みのお話です。

出場指令

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…H方、女性は手を受傷、通報は本人から」

との指令に救急車は消防署を飛び出しました。出場途上に119番通報電話に連絡を取りましたが応答はありませんでした。

現場到着

指令先のH方は住宅街の一軒家でした。サイレンを聞きつけ若い女性が玄関から歩いて出てきました。歩いてくるその様子で救急隊はすぐに感じ取ることができました、彼女は精神を病んでいると…。

隊長「こんにちは、ご通報いただいたHさんでしょうか?」
Hさん「はい…私です…」
隊長「どうされましたか?」
Hさん「手首を…手首を切ってしまって…」

Hさんは20代の女性、とても痩せていて左の手首にハンカチを当てて止血していました。ハンカチには血が滲んでいる。

隊長「そうですか…ご家族は?ご自宅には他にどなたがいますか?」
Hさん「母が…ただ、仕事に行っています」
隊長「そうですか、それではご自宅は留守になりますね?戸締りはできていますか?」
Hさん「はい、大丈夫です」
隊長「それでは、詳しいお話は救急車の中で聞かせてください」
Hさん「はい…」

車内収容

隊員「Hさん、お怪我していない方の腕で血圧を測らせてもらいます」
Hさん「はい、分かりました」
隊長「左の手首はご自身で?古い傷も随分あるみたいですが…」
Hさん「はい…自分で切りました」
隊長「どうして?Hさんはどうして手首を切ってしまったのでしょう?」
Hさん「う〜ん…死にたいとか、そう言うのではないのだけれども…時々切っちゃうの…」
隊長「そう…過去にも救急車で搬送されたことはありますか?」
Hさん「はい、何度か…」

Hさんの左手首にはカミソリで切った切創がありました。創は浅く血が滲んでいる程度、命に関わる傷ではありません。さて、彼女のこの様子、リストカットだけではなさそうです。バイタルサインには全く問題はありませんでした。

隊長「ご病気を教えていただけますか?」
Hさん「躁うつ病と言われています」
隊長「かかりつけはどちらでしょうか?」
Hさん「⚫︎病院と▲病院、▪️クリニック、それから★クリニックにもかかっています」
隊長「それは?他に病気があるのでしょうか?」
Hさん「いいえ…躁うつ病でです」
隊長「…どう言うこと?それぞれにかかっていたと言うことですか?今はどこにかかっているのでしょう?」
Hさん「全部かかっています、でも良くならないの…」
隊長「全部?それぞれの病院に通院しているのですか?お薬手帳はありますか?」
Hさん「お薬手帳は持っていません、でもお薬はあります」

そう言うとHさんは持っている袋から大量の薬を取り出しました。半端な量ではない…。

隊長「これって…全部?」
Hさん「はい、全部、私のです」
隊長「見せていただきますよ」
Hさん「はい…」
隊長「ねえHさん、この薬、今日はちゃんと先生に言われている通りに飲みました?」
Hさん「いいえ、今日はいっぱい飲みました」
隊長「いっぱいって?」
Hさん「もう本当にいっぱい、ふふふ、いっぱいです…」
機関員「あれ?この薬も…これも…おかしいぞ…」
隊員「Hさん、このお薬なのですけど⚫︎病院、▪️クリニックから⚪︎月⚪︎日に出されているのですけど、これはどうしてですか?」

病院、クリニックから同日やその翌日など短期間の間に処方されているのでした。

隊長「あちこちの病院にかかっているのか…全部精神科ですね?このお薬をまとめて飲んだ?」
Hさん「お薬は…たくさん集めてから飲むようにしているんです」
隊長「Hさん、お薬はお医者さんの指示の通り飲まないとダメでしょ、医師からもそう言われているでしょ?今日は何をどのくらい飲みましたか?」
Hさん「う〜ん…今日はたくさん飲みました、うふふふ」
隊長「この空のものは今日飲んだもの?」
Hさん「はい、お薬が溜まったので今日は飲むことにしました」
隊長「ふう…全部数えようか…」
隊員「了解です」
Hさん「うふふふ…」

空いた薬は相当ある。隊員と機関員が並べて数えます。Hさんは楽しそうに笑っている。

隊長「空のものがありますが、これは前に飲んだものではないですか?」
Hさん「いいえ、全部今日飲みました、やっと溜まったので…」
機関員「空いているのは200以上はありそう…」
隊員「いや、★クリニックの薬がまだあります」
機関員「あれ?ああ…⚫︎病院の薬も空いてる…」
隊長「ふぅ…3次選定しよう」

医療機関到着

救命医「やれやれ、またか…」
隊長「はあ…やっぱりですか」
救命医「うちにも何度か来ていますよ、前も同じ、過量服用とリストカットです」
隊長「今日はどうでしょうか?随分飲んでいるみたいですけど」
救命医「まあ命には関わらないですよ、精神科の先生も過量服用を想定して処方しているのでしょう、どの薬も1000錠飲んでも命には関わらないですよ、こう言う事案を3次に連れてくるのはどうにかならないの?」
隊長「先生…仰ることは分かるのですがこれだけの量になってしまうと…」
救命医「はぁぁ…まあ2次でとってくれるところもないか…」

DOD(ドラックオーバードーズ) 中等傷」

帰署途上

隊長「精神科をはしごしての一気飲みか…」
機関員「尋常な量じゃないですよ、薬だけでも腹が膨れそうだ」
隊員「大丈夫なんですか、彼女?」
隊長「ああ、成分的には大したことないってさ、多分明日には下りの転院搬送になるよ」
隊員「彼女の場合、入院しないと薬の管理もできないでしょうね」
機関員「1日で病院をはしごして、処方箋をあちこちの薬局に出したならこうなるんだよな、マイナ保険証は色々言われているけど、こう言う患者がいることも注目されるべきだよな?」
隊長「そうだね、デジタルで受診歴や処方された薬を一元管理したなら、彼女みたいなことは物理的にできなくなるだろうからな」
機関員「必要のない受診、薬、救急車で救命センター、税や保険料、国民の金の無駄使いは間違いないよな?」
隊員「お年寄りが不安であちこちの病院をはしご受診しているって時々ある話ですけど、彼女の場合はそのさらに先って感じですね…」
機関員「こんなことが物理的にできなくなる日は来るんですかね?」
隊長「さあな?」
機関員「偉い先生方に頑張ってもらわないとな〜」

政府は保険証の機能に加えて運転免許証の機能も追加、さらにマイナンバーを活用し行政のデジタル化を促進していこうとしている。一方である野党は従来の保険証の継続を訴えている。賛否両論はあるのだろうけど、こんな現場はあるのでした。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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