救命の立役者は何もない

緊迫の現場

何が欲しい?地位、名誉、お金?持っているものは本当に大切なもの?欲しいものは本当に必要なもの?救急隊をやっていると考えさせられることに出会ってしまう。


出場指令

この日1件目の出場指令です。春の暖かい日差しが降り注ぐとても過ごしやすい日でした。

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…△公園、男性は倒れているもの、通報はWさん男性、公衆電話から」

公衆電話からの通報なので119番通報者にコールバックしての情報収集はできませんでした。携帯電話が普及した現代で公衆電話からの通報、おまけに△公園といえば想像ができてしまう。

機関員「△公園、公衆電話…」
隊員「入院したいホームレス…」
隊長「まあそう思うのは分かるけれども、思い込みはダメだぞ」
隊員「はい、了解です」

現場到着

△公園の入り口に救急車を停車、この公園には住み着いているホームレスがいます。到着した救急車に手を振る男性の姿が見えました。彼は千鳥足です。

機関員「思った通りだな…」
隊長「こんにちは、通報いただいたWさんですか?」
Wさん「こっちだ、こっちにいる」

Wさんは一見してそれと分かるホームレスで、かなり酔っていました。Wさんの案内で救急隊は資器材を載せたストレッチャーを傾向して現場に向かいます。

隊長「患者さんはどうされたのですか?」
Wさん「いや…よく分からないけど飲んだみたいで、危なそうなんだ、ほらあそこだ」

Wさんが指差したのは東屋、ベンチには他のホームレスたちがいました。飲んで危なそう…アルコール中毒か…。春の暖かい日、朝から公園の東屋下のベンチで酒盛りをしている。やれやれ…平和です。

隊長「どなたですか?飲み過ぎたのは?」
ホームレスたち「オレたちじゃない、あの人だ」
隊長「あの人?」

東屋から少し離れた芝生の上、男性が横になっています。暖かい日差し、芝生の上で日向ぼっこをしていると言って相応しい。ジャケットを着ておりホームレス仲間には見えません。

隊長「あの方が飲み過ぎたの?」
Wさん「ああ、そうなんだ」
隊長「機関員はWさんたちから状況を聴いてくれ、まず観察しよう」
機関員「了解、Wさん、他の方もお話を聞かせてください」

隊長と隊員は傷病者の下へ、機関員はベンチで酒盛りを続けているホームレスから状況聴取に向かいました。

傷病者接触

隊長「こんにちは、救急隊です、どうされましたか?飲み過ぎたみたいだと駆けつけました」
Nさん「はい…」
隊長「こんにちは、救急隊です、分かりますか?」
Nさん「あ…はい”…あ”…」

傷病者は60歳代の男性でNさん、身なりはしっかりしておりホームレスとは思えない。話はできるのですが、声がかすれているのでした。

隊員「救急隊の者です、血圧など測らせていただきます、お名前を教えてください」
Nさん「はい…わ”だしはNと言います…」

Nさんは救急隊の問いかけに答えるがとても聞き取りづらい。口が回っていないのか?脳卒中だろうか?酔っぱらい?呼気からは臭気がしている…アルコール臭?いや、確かにアルコール臭はするけれども…。洗剤のような、薬品のような…何だろう?刺激臭…?

隊長「何を飲まれたのですか?お酒?どうされたのですか?」
傷病者「はい”…お酒を”…」
隊員「酒の臭いもあるけど、何か変、おかしいです」
隊長「ああ、薬品のような…ちょっと刺激臭がするよな?」
隊員「バイタルサインは問題ないです」
隊長「Nさん、私の両手を握ってください、あと両手を挙げることはできますか?」

傷病者は隊長の指示にゆっくりではあるが従うことができるのでした。脳卒中とは思えない。そこに血相を変えた機関員が走ってきました。

機関員「隊長、ダメだ、アル中じゃない!飲んだのはこれだって!」
隊長「え”…」

機関員が持って来たのは、大きく混ぜるな危険と記載されている洗剤でした。

隊長「Nさん、これを飲んだの?これを飲んだで間違いないですか?」
傷病者「あ”…ああ”…」

Nさんは頷くのでした。

隊長「ダメだな、どうやら本当みたいだ、3次医療機関を選定しよう」
機関員「了解、詳細な内容は後で報告します、まず選定に入ります」

現場出発

救命センターへと急ぐ救急車、ハンドルを握った機関員が聴取してきた内容の詳細を報告しました。

通報者のWさんはこの公園に住んでいるホームレスです。この日は他のホームレス仲間とこの東屋の下で深夜から酒を飲んでいました。いつの間にやら朝になってしまった。おや?いつからそこにいるのだろう?近くの芝生には思い詰めた様子の男性がいる。

ホームレス「なああんた、ずっとそこにいるみたいだけどどうしたんだ?」
傷病者「え?ええ…実はもうどうしようもないことになってしまって…」
ホームレス「そうか、何があったか知らねえけれどそんなに思い詰めないで、とりあえず一杯飲まねえか?」
傷病者「…」

公園の東家の下でスーツ姿の男とホームレスたちの奇妙な酒盛りが始まりました。Nさんは「本当にもうどうにもならないところまで来てしまった、死ねば解決するはずだ」そんなことを溢したのだそうです。

Wさん「死ぬことはねえ、オレたちは何も持っていないけれど、死のうなんて思わねえって言ったんだけどなぁ」
ホームレスたち「ああそうだ、死ぬことはねえよ、確かに何も持っていないけどなぁ」
Wさん「そうだ、そうだよな?アハハ〜」
機関員「それで?それでどうしたのですか?」
Wさん「だから何もない…って話だ…」
ホームレスたち「そうだそうだ、良いことも何もないアハハハハ〜」
Wさん「ああ、そうだ、良いことも別にないけどなぁ〜アハハハハ〜」
機関員「いや、それはもう良いから、それでどうしたのですか?」
Wさん「そうしたらよ…何だっけ?なあ?」
ホームレスたち「洗剤を飲んだんだよ、オレたちは止めたんだけどなぁ、すぐにゲーゲー吐いたみたいだけどな」
Wさん「ああそうだった、それで公衆電話から119番したんだ」
機関員「え”…飲んだ?何を?」
ホームレスたち「だから、それだよ、そこのそれ」

緊急走行する救急車

機関員「指を指した先にその洗剤が転がっていたって訳です」
隊長「なるほどね」
機関員「ホームレスたちは深夜からあそこでずっと飲んでいたみたいで、みんな相当に酔っていて、なかなか話が分からなかったんだ」
隊長「そう言うことか…Nさん、この洗剤はあなたが用意したものですか?」
Nさん「え、えぇ”…そうです」

医療機関到着

若い医師「この洗剤を本当に飲まれたのですか?」
傷病者「はい”、飲みま”した…」
若い医師「どうして?どうしてそんなことをしようと思ったのですか?」
傷病者「ええ”…死”のうと思って…」

救命医「この洗剤を…しかし、本当にこれだけ飲めるものかな…?100mlは減っている」
隊長「どれだけ飲んでいるかまでは分かりませんが、通報者たちの話によるとすぐに吐き出したって話でした」
救命医「う〜ん、確かに信憑性はあるね、口腔内も相当にただれているし、強い決意を感じるな」
隊長「ええ…」

傷病者はかすれた声で医師からの質問に答えるのでした。Nさんは会社の経営者、従業員の給与の支払いができないところまで追い詰められてしまった。滞ってしまった従業員への給料の支払いのため、死んで保険金を当ててもらおうと思ったのだそうです。

死に場所はあの公園の東家にしようと思って向かったのだが、ホームレスたちが酒盛りをしている。いつまで経っても立ち去る様子がなく、待っていたがどういう訳か一緒に飲むことになってしまった。

救命医「なるほど…そこで死ぬつもりだったのですか?」
傷病者「はい”…あそこなら掛けるところがあったから…」
救命医「掛けるところ?」
看護師「先生…これのことですよ」
救命医「あ…あぁ、なるほど…」

持ち物を確認していた看護師がNさんのビジネス鞄からロープを見つけました。

「急性中毒 重症」

引揚途上

病院に駆けつけた警察官によると、Nさんは昨日から行方不明になっており家族から捜索願いが出ていました。警察も必死で行方を探していたのでした。

隊長「先生も言っていたけど…強い決意を感じたな?」
隊員「ええ、洗剤とロープ、複数の手段を用意しているなんて…」
機関員「あの人、大丈夫かな?」
隊長「どうだろうな…ただ、先生の話だと、いくら酒が入っていたとしてもそんなに大量には飲めないだろうって」
機関員「口に含んですぐに吐いたって話だったけどな…ただ相当の酔っぱらいたちの話だからな…」
隊長「人が少ない早朝の公園でロープの方を選んでいたら自殺は完成していただろうな…」
隊員「ええ、あそこで酒盛りがなかったら助からなかったかもしれない…間接的ではあるけれども実はホームレスたちが救命の立役者でした」
機関員「その立役者たちはオレたちには何もない、良いこともないけど、死ぬこともないってさ」
隊員「何か…妙に説得力がありますね…」
隊長「あの世には何も持っていけないって分かっているのに、手放せないものばかりだものな…」
隊員「身なりのしっかりした経営者と何もないホームレス、後者の方が自由な気がしました」
機関員「オレもそう思った、どれだけの従業員を雇っているのかは知らないけど社長さんだ、きっと良い時には地位も名誉もお金も持っていたんじゃないかな?でもNさんの方がちっとも自由じゃない」
隊長「救命の立役者は何もないけど…実はだから自由なのかもな?」

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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