死んでくれねえかな

溜息の現場

消防官の仕事は人命救助、それは救助隊も消防隊も救急隊もどんな色のユニフォーム着ていても同じこと。1分1秒を争う瀕死の傷病者を救命する、こんな現場を経験した時には何よりも報われます。救命の先には涙を流して喜んでくれる家族だっているのだからー。


出場指令

「救急隊出場、⚪︎町⚪︎丁目…T方、女性は動けないもの、通報は△県△市の娘さんから」

との指令に救急隊は消防署を飛び出しました。

機関員「△県△市からの通報、一人暮らしの高齢者かな?」
隊長「この辺りは一人暮らしのお年寄りが多いからな」
隊員「まずTさんのお宅から電話を入れてみます」
隊長「ああ、頼むよ」

119番通報は現場から入電するとは限りません。緊急事態であっても一人暮らしのお年寄りが遠方に住む家族に助けを求めるなんてよくある事です。現場に急行する救急車の後部座席から、隊員はTさん方に連絡しました。しかしいくらコールが鳴っても応答がないため、△県△市から通報してきた娘さんに連絡を取りました。

119コールバック

隊員「△県△市の娘さんでしょうか?Tさんのお宅に向かっている救急隊です」
娘「はい、よろしくお願いします」
隊員「Tさんのお宅に連絡したのですが応答がありませんでした、状況を教えてください」
娘「それが…私もよく分からないのですけど、何でも1週間も動けないから助けてくれとか何とか…」
隊員「それは患者さんご自身から?あなたのお母さんからですね?」
娘「はい、もう何年も会っていないのでよく分からないです…私は△県にいるし、すみませんけどお願いします」
隊員「お母さんは一人暮らしなのですか?それで娘さんに助けを求めて来た?ご自身で電話はできる訳ですね?」
娘「ええ、そうです…う〜ん…一人暮らしと言うか…実質は一人暮らしと言えば良いかな?」
隊員「実質?」
娘「ええ、実は…」

Tさん方は隣の消防署の管轄区域です。到着まで10分以上の時間がかかったため娘さんからかなりの情報が得られました。Tさん方には80代の母親と50代の兄が住んでいる。娘さんは△県△市に在住、もう10年以上は実家には帰っておらず、母とも兄とも何年も連絡なんて取っていなかった。

先ほど数年ぶりに母から連絡があり、1週間も動けない状態でいるから助けてくれという内容であったため119番通報したとのことでした。△県△市を管轄する消防本部からこの町の消防本部に転送されたのでした。

隊員「なるほど、それでは詳細な状況までは分からないのですね?」
娘「ええ、最後に会ったのなんて何年前だったか…私は実家とは縁を切っているし、今の状況なんて全然分かりません」
隊員「ご実家にはお兄さんがいるのですね?」
娘「と…思うんですけど、どこにも行くところなんてないし…いるはずだと思います」
隊員「はあ、そうですか、今急いで向かっています、またご連絡させていただくことになるかもしれませんのでお電話には出られるようにしてください」
娘「あのう…私は実家とは縁を切っているので関わりたくはないのですけど」
隊員「現場に着いてからになりますが、ご協力いただく必要がある時にはよろしくお願いします」
娘「はあ、まあ…分かりました」

何年も疎遠であり、実家にはまだ兄が住んでいるかすら分からない。傷病者の病気や現在の生活状況もまったく知らないとのことでした。聴取した内容を隊長と機関員と共有します。救急隊ならこんな現場を幾度と経験します。これから先に待ち受けている風景は想像ができる。

隊員「…と言うことでした、娘さんは関わりたくないそうです」
隊長「一人暮らしではないのか…」
隊員「娘さんは多分、兄がいるはずと言っていました、相当に疎遠みたいです」
機関員「自分の実家だろ?多分…いるはず…その兄って言うのは曲者だろ?」
隊員「さあ?そもそもいるかどうかも分かりませんけど…曲者じゃないとはとても思えないですね…」
隊長「ふぅ、心してかかろうか…」

難ありの現場でないとはとても思えない。

現場到着

救急車はTさん宅前に停車しました。Tさん宅は古い一戸建て、玄関先にも雑草が生い茂っており手入れされている様子はありません。インターホンを鳴らしても応答なし、玄関ドアを叩きますがやはり応答はないのでした。

隊長「Tさん、Tさ〜ん、救急隊です、ここを開けてください」
機関員「裏口とか窓とか、他に入り口がないか確認します」
隊長「ああ、隊員はもう一度電話してみてくれ」
隊員「了解です」
隊長「Tさん、救急隊です、到着しました、開けられませんか?Tさん」

再度電話しても応答なし、勝手口のドアも窓もみんな施錠されているのでした。傷病者は中で倒れておりドアを開けられない状況なのかもしれない。

隊長「どうだ?他に開いているところは?電話は?」
隊員「ダメです、いくら鳴らしても応答なし」
機関員「こっちもダメ、どこも開いてない」
隊長「ふぅ、応援を呼ばないと…か」

必要によってはドアを破壊する必要があります。応援要請をかけて傷病者を救出しなくてはならない。応援を呼ぼうとしていると突然玄関のドアが開きました。

息子「何?」
隊長「Tさん?良かった、ええと…息子さんでしょうか?」
息子「だから何?」
隊長「救急隊です、△県の妹さんからお母さんの具合が悪いからと要請を受けて駆けつけました」
息子「妹…ああ…そうですか」
隊長「お母さんはどちらにいらっしゃいますか?」
息子「さあ?多分、奥にいると思いますけど…」
隊長「失礼します、ご様子を確認させてもらいます」
息子「ああ、そうですか、どうぞ…」

玄関も廊下にも荷物が積み重なっており、数年から数十年かけて積もったと思われる埃がかぶっていました。部屋に入ると鼻にツンとくるアンモニア臭が立ち込めていました。

傷病者接触

部屋にはさらに荷物が山積になっておりさらに厚い埃が積み重なっていました。畳の部屋の布団に傷病者はいました。

隊長「こんにちは、救急隊です、Tさんですね」
Tさん「はい…?」
隊長「どうされましたか?△県の娘さんから要請をいただいて駆けつけました」
Tさん「娘が?動けなくて…」

傷病者は80代の女性でTさん、隊長の呼びかけに応答ができる状態でしたがはっきりしない。意識障害なのか?いや…認知症ではないだろうか?ゆっくりではあるけれどTさんからは娘さんに助けを求めるまでの状況を聴取することができました。バイタルサインに異常値はありませんが口は相当に乾いており脱水状態であると思われました。

どうやら1週間ほど前から体調が悪くずっとこの布団で横になっていたようで、3日ほど前からトイレにもいけなくなってしまい垂れ流しの状態となった。枕元にあった水やお菓子を食べていたが、昨日からはそれも口にできなくなったみたいでした。

夫は既に他界、通報者の娘は△県在住で何年も疎遠、息子はもっと疎遠でどこにいるかも知らない。このままでは死んでしまうと思い娘に電話したのだそうです。娘さんが救急車を呼んだとは知らなかったのでした。

隊長「そうでしたか…もうおトイレにも行けなくなって3日も経つのですか…」
Tさん「喉は乾いているのだけど…水も飲めなくて…」
隊長「分かりました、こんなになるまで頑張らなくて良かったのに…病院に行きましょう」
Tさん「病院?娘は?」
隊長「娘さんは△県にいるのでしょ?すぐに駆けつける事はできませんよ」
Tさん「△県?」
隊長「2階にいる息子さんは…ご協力いただけますか?一緒に行ってくれますか?」
Tさん「息子?息子がいるんですか?」
隊長「この家はあなたと息子さんと暮らしているのですよね?」
Tさん「…?」

Tさんは娘さんの居場所も知らないのでした。疎遠だからなのか、認知症なのか?名前や生年月日は正確に答えられますが上の部屋に息子がいることも分かっていない。認知症をはじめ様々な疾患があったとしても病院にかかっているとは思えない。

隊長「ふぅ…さて、一筋縄にはいかないかな…」
機関員「ええ…」
隊長「機関員はここで傷病者の継続観察、そのまま病院に連絡を取ってくれ」
機関員「了解、付き添いは?」
隊長「今、隊長が息子を説得しているって伝えてくれよ」
機関員「分かりました」

インターホンが鳴った、玄関ドアを叩いており、何やら切迫した様子で呼んているので開けてみると救急隊だった。お母さんが緊急事態のようだから駆けつけたと言うので部屋に上げた。こんな状況にも関わらず、息子は母親の様子を確認することもなく、2階の部屋に戻ってしまっているのでした。隊長と隊員は2階へと向かいました。

隊長「息子さん、息子さ〜ん、すみません、ちょっとお話しよろしいでしょうか?」
息子「は?何?」

うんざりした様子で2階の部屋のドアが開きました。

隊長「これからお母さんを病院にお連れします、息子さんに一緒に行っていただきたいのです」
息子「いや、無理だな、忙しい…」
隊長「そこをどうかお願いします、緊急事態ですし、お母さんのご様子だと入院になる可能性が高いと思います、ご家族に付き添っていただかないといけません」
息子「嫌です、行きません」
隊長「待って待って閉めないで、救急車に同乗できなくても、せめて病院には後からでも来ていただけませんか?」
息子「無理ですね、行きたくありません」

まあ想定内…。息子は救急車への同乗も病院に来ることも頑として拒否するのでした。隊長と隊員で再三にわたり説得を続けましたが絶対に嫌だの一点張りです。

隊長「病院も息子さんが一緒に暮らしているのにご協力頂けないとなると困ってしまいますし、どうにかお願いします」
息子「連れて行くなら入院させて、帰ってこないで良いので」
隊長「もちろん病院に連れて行きます、ただ息子さんにご協力いただかないと搬送先の病院も簡単には決まりません、どうにかお願いします」
息子「そんなの俺には関係ない」
隊長「そんなことを仰らないで、どうにかお願いします」
息子「はぁ…関わりたくないんですよ、病院が決まらないなら帰ってくれて良いです、安心してくれて良いですよ、死んでも訴えたりしないから、帰ってくれて良いですよ」
隊長「そうはいきません、病院には連れて行きます」
息子「忙しい、無理」
隊長「そこを何とかお願いします」
息子「だから行かねえって言ってんだろ!早く死んでくれねえかな…」

そう言うと息子さんはドアを閉めて鍵を閉めました。

隊長「息子さん、お話を聞いてください」
隊員「息子さん、まだ話があります、ドアを開けてください」

ドアを叩いても全く応答なし。仕方がないので1階の部屋に戻りました。

機関員「どこも息子さんの付き添いがないなら無理だって断られています、どうです?」
隊長「絶対嫌、関係ないって…」
機関員「そうでしょうね…」
隊長「車内収容して、娘さんに連絡しよう」
隊員「了解です」

息子さんに協力を依頼している間にも機関員が収容先を探しましたが、どこも受け入れてはもらえないのでした。同居の息子がいるにも関わらず、同乗もしないし病院に来ることもできない。病院からしてみればトラブルの火種の収容依頼です。受け入れ先が簡単に決まらない事は想定内です。

車内収容

Tさんを救急車に車内収容しました。隊員は傷病者の継続観察、機関員は引き続き医療機関への収容依頼、隊長は△県の娘さんに連絡を取りました。

隊長「…と言う状況でして、お兄さんには全くご協力いただけないのです」
娘「はぁ…そうでしょうね、やっぱり兄はまだいたんですね、出ていけば良いのに…」
隊長「あなたから説得していただくことはできませんか?」
娘「無理です、あいつは頭がおかしいので関わりたくないです」
隊長「娘さんは遠方ですがどうにかご協力頂けませんか?他にご親類とか、協力いただける方はいませんか?」
娘「私も縁を切っているので関わり合いたくはないんですよね、母は病院に行かないとダメなんですか?」
隊長「はい、身動きが取れなくなって3日も経つそうで身体も汚れています、絶対に病院に連れて行きます」
娘「はぁぁ…嫌だなぁ…あいつ…兄は話にならないですよね?」
隊長「はい…再三お願いしたのですが聞く島なしでした」
娘「そうですよね…はぁぁ…あいつ…もう死ねば良いのに…」

隊長は渋りに渋る娘さんの説得を続けました。娘さんは医療機関に駆けつけるとは言いませんでしたが、病院から連絡があった際には仕方がないので対応すると言うのでした。こんな状況でしたがどうにか受け入れてくれる病院が決まったのでした。

医療機関到着

看護師「ふぅ…全身がおしっこまみれ…ネグレクト?」
隊長「2階には息子さんが住んでいるのですけど関わりたくない、絶対に同乗もしないって…」
看護師「私たちは誰に連絡すれば良いの?」
隊長「△県の娘さん、これが連絡先です」
看護師「その娘さんもでしょ?」
隊長「ええ、息子さんほどではないけど関わりたくはないって、病院から連絡があった時には対応してくれって頼んでおきましたが、さて…どこまで対応してくれるか…すみません、よろしくお願いします」
看護師「はぁぁ…酷い家族…」

「脱水 中等症」

引揚途上

隊長「本当よく受け入れてくれた…」
隊員「看護師さんはずいぶんと難色気味でしたけどね」
機関員「そりゃそうだ、俺たちはここまでだけど病院はここからだぜ?あの息子はとてもダメ、娘だってどこまで協力してくれるのか…」
隊長「トラブルの火種なんて通り越して、もはや確定したトラブルの塊だな?」
機関員「ええ、間違いなくそれ」
隊員「こんな家族にはよく出会いますけど、どうしたらここまで関係が壊れるのでしょうね?」
機関員「さあな?息子は母に死んでくれ、その妹も兄に死ねばよいって…数年であんな風になるとは思えない、何十年にも渡っての積み重ねだとは思うけどな…」
隊長「家族だからこそ、あそこまで壊れるのかもしれない…娘さんの話だとあの息子さんはもう何十年前に仕事を辞めて、それからずっとあの家にいるってさ、お父さんが亡くなってからは1階と2階で完全別居状態だとさ」
機関員「それなら親の家で、親の金で生活しているだろうに…」
隊長「親が死んでも通報しないでミイラ化、年金を騙しとったと逮捕、そんなニュースは時々見るけど、こんな家の果てなのかもな…」
機関員「ええ、救急隊なら想像ができてしまう、今の家がそうなっても俺は多分驚かないと思う…」
隊員「ネグレクト、8050問題、救急現場って社会問題のるつぼですね…」



1分1秒を争う瀕死の傷病者を救命する、こんな現場を経験した時には何よりも報われます。救命の先には涙を流して喜んでくれる家族だっているー。か、どうかは分からないけど…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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