お父さん死なないで

緊迫の現場

忘れられない現場、いつまでも心に突き刺さる辛い思い出、そんな経験をするのは救急隊の宿命です。それに…忘れてはならない理由があるー。

出場指令

深夜の消防署に指令が鳴り響きました。

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…K方、男性は頭痛、通報は妻から」

現場は担当する管内、消防署からは5、6分で到着できる距離です。後部座席から隊員が通報先電話番号に連絡を入れました。

出場途上、119コールバック

隊員「そちらに向かっている救急隊です、急いで向かっています」
妻「早くっ!早く来てください〜、しっかりして〜、早く早く!」
隊員「もしもし、ご通報いただいた奥さんですか?落ち着いてください、どうされましたか?落ち着いて!患者さんは息をしていますか?」
妻「早くっ!早く〜」

ただならぬ状況であることが伝わってくる、この現場は明らかに本物です。通報者の女性はパニックになっている。携帯電話の受話器を抑えて隊員は助手席にいる隊長に報告しました。

隊員「隊長、応援を!まだ何も分からないけど家族はかなり混乱しています」
隊長「落ち着かせて、聴取よりも傷病者への処置を優先しろよ、応援要請する」

隊員は頷くと再び話し始めました。

隊員「救急隊は急いで向かっています、落ち着いてください、今から私が応急処置を伝えます、ご主人は息をしていますか?」
妻「息が…息がないんです、泡を吹いていて、顔色がおかしくて…ねえ!しっかりして、しっかりしてよ〜」
隊員「呼吸がないようなら心臓マッサージのやり方をお伝えします、あなたの他に心臓マッサージができる方はいませんか?」
妻「救急隊から…心臓マッサージをするようにって…家族が心臓マッサージを始めました」
隊員「ご主人は目を開けたり身体を動かす様子はありませんか?」
妻「ないです…早く、早く来て〜」

隊長は無線を操作し消防隊を応援要請しました。妻は明らかに狼狽していますが、どうにか現場の状況を聴取することができました。傷病者の夫は息がない様子で口から泡を吹いている。現場には他にも家族がおり、隊員の指示で心臓マッサージを始めたのでした。

現場到着

現場は一戸建てのお宅でした。大きく手を振る女性の姿が見えた。

女性「早く、早く来てください!息をしていないみたいなんです!早く!」
隊長「分かりました、案内してください」

傷病者は40代の男性でKさん、自宅の床に仰向けになっており口から粘液が溢れていました。男性が心臓マッサージをしていました。彼は近くに住む傷病者の兄で、案内に出ていたのは兄の妻でした。これだけ粘液があるのだから、呼吸をしていれば口や鼻から泡が吹き上がります。しかしそんな様子はありませんでした。一見して呼吸がないことが分かりました。

兄「頑張れ!K、死ぬんじゃないぞ、しっかりしろ!」
子どもたち「お父さん、しっかりして!死なないで!」
隊長「心臓マッサージはずっと続けてくれましたか?私たちが代わります」
兄「お願いします、助けてやってください」
妻「助けて…助けてください…」

現場の部屋には奥さん、子どもたち、案内に出てきてくれた兄夫婦など数名がいて、みんなかなり混乱していました。元来元気な働き盛りの男性が緊急事態に陥っているのです。

隊長「…脈拍なし」
隊員「…呼吸なし」
隊長「このままでは人工呼吸はできないな…口腔内の吸引、隊員は胸骨圧迫!」
隊員「了解!1,2,3,4…」
機関員「了解、吸引器は準備できました」

傷病者の口、鼻からは粘液が噴出していました。このままでは効率の良い人工呼吸はできません。隊員が絶え間ない胸骨圧迫心マッサージを開始、隊長は人工呼吸ができるようにするために口に吸引器のチューブを入れて吸引しました。ずるずると吸い上げられる粘液、かなりの量の粘液が口腔を満たしていました。

隊長「皆さん落ち着いて聞いてください、Kさんは呼吸も脈拍もない状態です、救急隊が心肺蘇生法を実施しています」
妻「嫌ぁー!しっかりして!何やってるの!しっかりしてー!」
隊長「奥さん、落ち着いて、心肺蘇生をしています、ご主人は何かご病気はありませんか?」
妻「病気なんて何もありません…ずっと元気でした」
隊長「頭痛との通報でしたが状況を教えてください」
妻「朝から頭が痛いと、あと肩が凝るって…夜中に痛くて堪らないって言うから119番して…それですぐに白目を剥いて…こんな風に…」

強い頭痛、目撃のある突然の心肺停止、くも膜下出血だろうか?この粘液はなぜ?心肺停止の原因は何だ?慌てている家族たちを落ち着かせつつ、隊長は家族たちに救急救命士の特定行為の必要性について、3次医療機関へ搬送することを説明しました。

隊長「ご家族への説明と同意は得られた」
機関員「オレが心マする」
隊員「了解、指示要請に入ります」

指示要請とはMC医師に救急救命士が行う処置、特定行為を実施する許可を得るための連絡です。MCとはメディカルコントロールのこと。救急救命士は医師の了解が得られないとこの処置を行うことはできません。隊員はチューブを入れてのより確実な気道確保、静脈路を取ってからの薬剤投与を実施するべくMC医師への連絡を開始しました。

傷病者は心肺停止状態、最優先すべきは心肺蘇生法です。消防隊との同時出場であったのならこの間にも処置の準備や搬送の準備を進めることができるのに…。救急隊の処置が高度化していく中、連携する消防隊の力が不可欠であると実感します。近づいて来ていた消防車のサイレンの音が止まった。

消防隊長「消防隊到着!」
隊長「傷病者はCPA、心マの支援を!これから特定行為を実施する、隊員が指示要請中」
消防隊長「了解」

消防隊の支援を得てマンパワーが充実しました。MC医師から特定行為実施の許可を得て、Kさんの喉にチューブを入れて人工呼吸の効率を高めました。チューブに接続したバックマスクを押すと傷病者の胸はしっかり上がりますが、ずるずると粘液の音が聞こえるのでした。さらに上腕部の静脈路を確保(点滴のこと)しました。

隊長「換気時に雑音があるな…でも換気は改善している、チューブは抜かない」
機関員「了解、胸はしっかり上がっている」
隊長「粘液は随時吸引する、搬送準備は?」
消防隊長「行けるよ、障害物になるようなものは全部移動した」
隊員「静脈路が取れました、アドレナリンにいきます」
隊長「了解、薬剤投与をしたらすぐに搬送!」
子供たち「お父さん頑張って、お父さん死なないで!」
妻「ねえ、しっかりしてよ!目を覚まして〜」

現場では家族たちの悲痛な叫びが響き渡っていました。気道確保のチューブを挿入しての人工呼吸、静脈路を確保しアドレナリンという心臓に強く作用する薬を投与しました。

現場出発

機関員「▲病院救命センターが収容可能」
隊長「了解、忘れ物はないな?同乗するご家族のシートベルトは良いか?」
隊員「資器材は全部あります、シートベルトも確認しました」
兄「どうにか、どうにか助けてやってください、とにかく…どうにか命を…」
隊長「今、ここでできる限りのことを実施しています」
兄「どうにか助けてやってください…」

Kさんの兄を同乗させて救急車は直近の救命センターへの道のりを急ぎました。絶え間ない心肺蘇生法、さらに薬の追加投与を実施しましたがKさんが回復することはありませんでした。

病院到着

救命センターの前には医師や看護師などスタッフが待ち構えていました。医師たちの激しい声が飛ぶ、懸命の救命処置が始まりました。

救命医「状況は?」
隊長「救急隊の到着時には自宅居室でCPAでした、家族の胸骨圧迫が実施されていて…」

現場の状況、救急隊が行った処置などを詳細に申し伝えます。医師たちの懸命な処置もありKさんは一時、心拍が再開するなど救命の可能性が見える反応がありました。どうにか…どうにかして助かって欲しい。後はKさん生命力と医師たちの懸命の処置に委ねるだけ…。

引揚準備

通常なら医師引き継ぎを終えればすぐに引き揚げる救急隊ですが、このような活動ではそうはいきません。汚れてしまった資器材の整備、消毒など再出場態勢を整えます。救急車の清掃をしていると看護師がやって来ました。

看護師「お疲れ様です、Kさんを搬送してくれた救急隊ですよね?」
隊長「はい」
看護師「先生からのお願いです、間もなく確認するから警察に申し送りをして欲しいって…」
隊長「そうですか…ダメですか…」
看護師「ええ…」
隊長「要請は?救急隊から警察官は要請しますか?」
看護師「はい、先生はまだ手が離せません、救急隊からお願いします」
隊長「分かりました」

間もなく確認するとは死亡確認すると言うこと。突然死の場合、医師は死亡診断書を書くことができません。特に救命センターは初診で重篤な患者を扱うことばかりなので、死亡確認され警察官が駆けつけることはとても多いです。救急隊から警察に連絡し向かってもらうことになりました。隊長と隊員は再び初療室へと向かいました。

初療室

隊長「先生、救急隊から警察官を要請しました」
救命医「ありがとうございます、これから死亡確認します」
隊長「原因はいったい何だったのでしょうか?」
救命医「確定はできませんが、肺が水浸し…くも膜下出血の可能性が高いです」
隊長「あの粘液は肺水腫から来ているってことですか?」
救命医「ええ、恐らく間違いないです」

まるで溺れたみたいだった、あの粘液はやっぱり神経原性肺水腫だったと言うことか…。Kさんを救命センターに運び込んで1時間を待たず医師が死亡確認するに至りました。外で待っていた家族が初療室に入れられました。この時には奥さん、子どもたち、兄夫婦、他にも数名の家族たちが集まっていました。

妻「ねえ、ウソでしょ?しっかししてよ、何やってるのよ…」
子供たち「お父さん、お父さん…死んじゃ嫌だよ」
兄「お前…何やっているんだ、しっかりしろ!」
救命医「最善を尽くしましたが…」
兄「先生、どうにかしてやってください!」
救命医「残念ですが…心臓が止まって1時間以上が経ちました…」
兄「もうダメなんですか?」
救命医「これ以上、蘇生処置を続けても可能性はありません…私の時計で○時○分、死亡確認させていただきます」

医師、看護師、他の医療スタッフ、救急隊、その場にいる全員が深く頭を下げた。泣き崩れる妻、Kさんにしがみ付き生き返ってくれと訴える子どもたち…。誰もかけてあげられる言葉が見つかりません。とても…見ていられない…。

救命医「これからKさんに刺さっている管や針を抜きます、ご家族は外でお待ち下さい」
看護師「ご家族の皆さんはこちらに…」

看護師に促され家族たちは初療室から出て行きました。

隊長「先生、警察官には状況を申し伝えてから救急隊は引き揚げます」
救命医「お願いします、お疲れ様でした…」
隊長「ありがとうございました」

初療室から出ると外にはKさんの家族たちが呆然と立ち尽くしていました。掛ける言葉がみつからない…。

隊長「ご家族の方々…、救急隊も最善は尽くしたのですが…お役に立てなくて…」
兄「いえ、救急隊のみなさんには良くやっていただきました…ありがとうございました」
隊長「これで引き揚げます、失礼します」
妻「私…取り乱してしまってごめんなさい…ありがとうございました、他の方たちにもよろしくお伝え下さい」
隊長「はい…」

たった今、大切な家族を亡くしたばかりだと言うのに、奥さんや他の家族たちからも感謝の言葉を頂きました。

子どもたち「ありがとう…ございました」
隊長「…」
隊員「…」

この時、最も突き刺さったのは子どもたちからの言葉でした。涙をいっぱいに溜めた目でかけられた感謝の言葉、返せる言葉なんてない…。ごめんね、何の役にも立てなかった、お父さんを助けてあげることができなかった、ごめんね…。本当にごめんね…。

「心肺停止 死亡」

帰署途上

隊長「活動に当たった他の方達にもよろしくお伝え下さいってさ…感謝の言葉を頂いたよ」
機関員「そうですか…結局、助けてはあげられなかったけど」
隊長「働き盛り、子どもたちも小さい…どうにかして助けたかったな…」
隊員「辛い現場でした…」

深夜の消防署に帰ると隊長は欠かすことのない一服へと消えていきました。隊員は使用した資器材の補充のため倉庫へと向かいます。

機関員「オレはこのまま横になるぞ」
隊員「了解です」
機関員「なあ…隊長がわざわざお前を死亡確認に立ち会わせる理由って分かるか?」
隊員「忘れるなってことだと思います…」
機関員「そうだな…そう言うことだよな…でも今はもう寝よう、次があるんだから」
隊員「はい、資器材を補充したらオレもすぐに寝室に向かいます」
機関員「ああ、忘れることも大事だからな、お疲れさん、おやすみ…」

忘れられない現場、ふと思い出す辛い現場の風景、あの時の子どもたちは大きくなっただろうか?あの時の「ありがとう」が今でも心に突き刺さっている。あの時の悔しさを忘れてはならない、あの時の経験を糧にするしかないのだからー。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
この記事に対するご意見・ご感想をお待ちしています。SNSでのコメントを頂けると嬉しいです。

@paramedic119 フォローお願いします。