溜息の現場
救急隊の仕事は人命救助、緊急事態の傷病者を迅速に適正な医療機関に搬送する事です。不要不急の要請ばかりに対応していれば、本当に必要な人の命に関わってしまう。それなのにこの夜は…
1件目
深夜に差し掛かった23時過ぎでした。
「救急隊出場、⚪︎町⚪︎丁目、K駅南口広場公衆電話からの通報、男性本人からの通報で寒気」
との内容、K駅南口の公衆電話か…。携帯電話が普及している時代に公衆電話からの通報と言えば…。傷病者は時々見かけるホームレスのHさんでした。
隊長「どうされましたか?」
Hさん「寒い」
隊長「寒いから救急車を呼んだのですか?」
Hさん「ああ、そうだ」
隊長「あのね…Hさん、前も説明しましたよね?救急車は緊急事態の方のためにあるのです、寒いは病院でどうにかすることじゃないです…」
Hさん「じゃあ胸が痛い…」
隊長「じゃあって…」
やっぱり胸が痛いと訴えるホームレス…彼は過去にも何度か同じような内容で扱ったことがありました。周辺の病院とのトラブル歴もあり、ブラックリストに載っており医療機関選定は当然のように難航しました。消防署に戻った時には日が明けていました。Hさんはもちろん入院することなく帰ることになりました。
2件目
深夜2時を回り、絶望の指令が流れた。
「救急隊出場、⚫︎町⚫︎丁目、⚫︎駅前公衆電話からの通報、男性は歩行困難」
また公衆電話か…。行ってみると身なりはそれなりにきれいだけれどやっぱりホームレスなのでした。彼は50代男性でGさん、いろいろ聞くと結局はこれでした…。
Gさん「とりあえず入院できるところを探してほしいんだけど」
隊長「救急隊が入院できるか否かを判断することはできません、それは医師が診察して決めることです」
Gさん「そう…でもどうにか入院できないかなぁ…」
このGさんは近隣病院のブラックリストにも載っている訳でもなく、受け入れ先はすぐに決まりました。もちろん入院の必要はないと判断され帰ることになりました。
3件目
もうやめてくれ…少しで良い、本当に少しで良いんだ、休ませてくれ…。早朝4時を回った頃、救急隊を奈落の底に突き落とす指令が流れた。
「救急隊出場、⚪︎町⚪︎丁目、K駅前交番に急病人、男性は発熱、通報は扱い中の警察官」
1件目と同じK駅南口、今度は交番からの通報でした。到着すると男性が警察官と共に歩いてきました。傷病者は30代男性でTさん。
隊長「どうされました?」
Tさん「身体がだるくて…多分熱があると思うんです」
隊長「歩くことはできるのですね?救急車でお熱を測らせて下さい」
Tさんは自力歩行で救急車の乗り込みました。通報した警察官によると大きなカバンを持って交番を訪ねてきた。具合が悪いから病院に行きたいと訴えるため救急要請に至ったとのことでした。
隊長「他に調子の悪いところはありませんか?」
Tさん「あの…私、先週に△県から出てたばかりでお金がないんです」
隊長「今はどちらにお住いなのですか?」
Tさん「家はありません、来週から仕事をしますので、それまで入院させてくれる病院を探してください、支払いはツケでって言ってください」
はぁぁ…やっぱり結局はこれなのか…。バイタルサインに問題はなし、熱もないのでした。
隊長「入院するかどうかは救急隊が判断することではなく、医師が診察してから決めることです、救急隊が入院できる病院を選ぶ事はできませんよ」
Tさん「あ”あ”?じゃあ家も金もないのにこの雨の中、どうしろって言うんだよ!」
隊長「…」
警察官「ねえHさん、あなたの言っていることは無茶苦茶だよ!」
お金がないのに診察を受けるっておかしいとは思わないのですか?救急隊を威圧する程度の元気はあるのですね?そんなことは言えない…。病院が決まった頃にはすっかり朝になっていました。Hさんは当然入院が必要と判断される訳もなく帰るように言われるのでした…。
Hさん「ふざけるな!この雨の中、どこに行けって言うんだ!」
医師「入院して治療する必要はありません、お薬をお出しします、安静にして下さい」
Hさん「だからどこで安静にしろって言うんだよ!」
医師「それを私に言われてもね…病院はホテルじゃないですからね…」
Hさん「この寒い中、病人を放り出すとか人でなしだ!」
隊長「Hさん…さっきも言ったよね?入院の必要がないと先生が判断されたのです、泊まるところは病院も救急隊も関われることじゃないです」
Hさん「ふざけるなこのヤブ医者!この病院は最低だ、馬鹿野郎!」
暴言を吐くHさんを救急隊が診察室から連れ出します。はぁぁ…元気じゃないか…。このようにして彼の名前もこの病院のブラックリストに刻まれるのです。
この日の深夜から朝にかけての出動は3件、全員が住所不定者でした。どうにか入院したいがために救急車を要請したのでした。彼らに対応している間、この地域に重症の傷病者がいたのなら?一刻一秒を争う怪我人がいる事故が起こったのなら?きっと助からない…。
救急隊は人命救助を生業とする公共の奉仕者です。家があろうがなかろうが、すべての人の生命・身体・財産を守るため尽力することが使命です。だからこそこんな夜はふと考えてしまう…こんな活動の裏で脅かされている命のことを−。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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