救命士のこぼれ話
格差社会は問題だと論じる評論家も学ぶ者と学ばない者の格差は益々開いていくと訴えている。彼が訴えるように、そんな社会は更に進むのだろうか?救急隊の現場は社会問題のるつぼ、学びはあるのだけれど…。
帰署途上
少し遠方の大学病院から救急隊は引き揚げていました。
隊長「まさか部長クラスの医師がお出迎えとはね…」
機関員「連絡した時もバイタルすら聞かれなかった、名前を伝えたら直ぐに連れてきてくれって即答でしたよ」
隊員「案内に出てきた女性は奥さんだと思ったらお手伝いさん…あのお屋敷、どれだけ広いんでしょう?」
隊長「オレたちとは違う世界の住人だな?まさに雲の上って感じだ」
傷病者は初老の男性で誰もが知るあの会社の重役とか…。駆けつけた時に案内に出たのはお手伝いさん、胸苦しさを訴えていた傷病者は物腰が柔らかくまさに紳士、同乗した同年代の妻は淑女と言うに相応しい気品が漂っていた。
持病が原因と思われる症状で、かかりつけの大学病院に連絡を取ると即答で収容可能の回答が得られたのでした。到着時には部長の役職を持つ医師が救急車の到着を待っていたのでした。
先ほどの現場の近くまで戻ってきました。ここは隣接した消防署の管轄区域で時々出場する地域です。
機関員「どうにかここまでは戻って来れたな、ほらさっきの現場だ、いつも思うのだけども、この辺はお屋敷ばかりだよな?」
隊員「ええ、お手伝いさんが案内人なのは初めてでしたけど」
隊長「この一角は高級住宅街だ、他にも似たような家は多いぞ」
機関員「いつも思うんだ、この道ってまさに境界線だなって」
隊員「言えてますね…この道の北と南では大きな格差がある…まさに境界線ですね」
消防署に帰ることを許さない再出場を告げる無線が鳴った。
機関員「はぁぁぁ…」
隊長「あ〜あ…一服は許されないのか…」
本部「救急隊、直近です、再出場お願いします」
隊長「了解、安全なところに停車します」
無線再出場指令
「救急隊、消防隊出場、⚫︎町⚫︎丁目、K方、男性は意識なし、通報は息子から」
隊長「救急隊は⚫︎町から向かいます、受信了解」
本部「よろしくお願いします」
機関員は地図を確認、隊長はカーナビを設定しました。
機関員「今いるここがまさに⚫︎町だぜ、これは確かに直近だ…」
隊長「現場まで700m、2分はかからないで着くぞ」
隊員「了解です、意識なし、資器材はフル装備で行きます」
今ある道の北側は先ほど出場した高級住宅街です。今度の要請先はこの道の南側の公営住宅でした。高度経済成長時代に建築された古い団地群、住民の高齢化が特に著しい地域です。
現場到着
まさに直近、この地域を担当する消防隊よりも先に到着しました。古い公営住宅の一室、通報者の息子が案内に出てきました。
隊長「ご通報いただいた息子さんですね?具合が悪いのはお父さんですか?」
息子「ええ、奥にいます、お願いします」
傷病者は70代男性、心肺停止状態でした。息子さんに状況を確認すると、傷病者はつい数十分前まで歩いていた、突然倒れたと母が騒いでいるため要請した。目撃のある心肺停止事案、救急隊はたまたま700mの位置にいたため指令から2分で駆けつけた。心肺停止に至ってからまだ数分であると考えられます。救命できるチャンスは十分にある。
隊長「ご家族の方、ご主人なのですが心肺停止状態です、我々にできる処置をやらせていただきます」
妻「はぁ、処置…ですか?」
隊長「救急救命士が行う処置です、搬送先は3次医療機関と呼ばれる高度な処置ができる病院に搬送します」
息子「高度な処置…?」
隊長「はい、お父さんの救命のために我々にできることをやらせてもらいます」
妻「ねえ…どうする?」
息子「高度な処置…か…」
隊長「良いですね?実施しますよ」
妻「いや…あのう…う〜ん…ねえ?」
息子「いや…うん…」
妻「ちょっと待ってもらって良いですか?相談します」
隊長「相談?いや…奥さん、息子さん、緊急事態ですよ、相談している暇なんてありません、状況だって心臓が止まってまだ数分です、ちょっと待って、ねえちょっと!」
隊長の静止にも関わらずふたりは部屋を出ていってしまいました。
機関員「特定行為の準備はできました…」
隊長「ああ…困ったな…」
隊員「ええ…同意が得られない、これじゃ指導医に連絡すらもできないです…」
救急救命士が行う特定行為と呼ばれる救命処置は医師からの具体的な指示が得られなければ実施できません。それには家族からの同意を得る必要があります。準備はできているのに家族は他の部屋に行ってしまったのでした。
隊長「ふたりはどこに行ったんだ?」
機関員「多分隣の部屋みたい、話声は聞こえるのですけど…」
隊長「奥さ〜ん、息子さ〜ん、戻ってきて、大切な話なんです」
必死の呼びかけにふたりは戻ってきました。
息子「あのう…高度な処置をするって…」
隊長「ええ、お父さんは心肺停止状態です、3次医療機関と呼ばれる病院に連れてきます、具体的には⚪︎病院や▲大学病院などです」
息子「金がかかりますよね?」
妻「うちはお金がないので…ねえ?」
隊長「いや…お金の心配は後にして頂いて…心臓が止まっているのですよ、一刻を争う状況です」
息子「それは分かっているのだけれど…ないもんはないからなぁ…」
妻「生活に困っちゃうから、ねえ…」
隊長「そんなことを言っている場合ではなくてですね…」
機関員「奥さん、この国には高額医療費制度って制度もありますから…」
消防隊が到着し搬出する準備が整った。妻と息子の同意は得られない。救急車までの搬出中にやっと特定行為と3次医療機関に搬送することの同意が得られた。彼らが隣の部屋で連絡を取っていたのはこの家を出た娘さん、彼女は「私だって金なんてない」と言った。
医療機関到着
「心肺停止 重篤」
救急隊が病院を引き揚げる頃には死亡確認に至りました。
帰署途上
機関員「またここまでは帰って来れたな…」
隊長「この道の北と南、格差の境界線か…」
隊員「ねえ、気が付きました?この2つの事案の傷病者は昭和⚪︎年生まれの同い年です」
隊長「ああ、そうか…同級生だな」
機関員「ひょっとすると半世紀以上前、ふたりはクラスメイトだったりしてね?」
隊長「あり得ない話ではないね、そうだったとしたら少なくとも同じ国、同じ地域で、同じ時代、おまけに同じ小中学校を生きてきたふたりだな」
隊員「格差、エグい…」
隊長「それぞれの生い立ち、生まれ持った環境、いろんな理由はあるのだろうけど、一体どこに分岐点はあるのだろうな?」
隊員「やっぱり生まれた家?特にお金ですか?」
隊長「否定はできないね…でも、偉人の血縁にだって犯罪者はいる」
機関員「確かに…大きな要因かもしれないけど、それだけではないよな…」
隊員「人格を疑ってしまうようなお金持ちに出会うこともあるもんなぁ…」
機関員「ああ、でもオレは家がない人格者に出会ったことはないぞ」
隊長「それは…オレもない」
機関員「ベテランの隊長がないんだ、そんな人はほぼいない、これのもまた事実だな」
隊員「豊かな人生、人格者になるにはお金や環境も必要、大きな要素ってことかな…?」
隊長「ああ、多分それは間違いないぞ」
機関員「世知辛い話と感じるけれど、経済的な余裕は心の余裕とリンクしている、経済的に余裕のない人たちは心も貧しいって感じるよな?」
隊員「ええ、救急隊をやっていると本当にそれはよく分かる、間違いなくそれがリアルですね」
さらに進行していくと言われている格差社会、学ぶ者とそうでない者の差は益々開いていくと評論家は訴えている。救急現場はリアルな学びの場、救急隊ならどちらに向かうべきかは骨身に染みて分かっている。
給料日までまだ1週間もあるのか…。今月も厳しい…う〜ん…何に使ったんだっけ?ちっとも学べていないけど…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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