溜息の現場
小さなお子さんが怪我をした。親ならば自身が傷つくよりも辛い経験かもしれない。そんな気持ちも分かるけれども、程度と言うものはあって…
出場指令
「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…T方、3歳の子どもは転倒して上唇を受傷、通報は母親から」
指令からして軽症の臭いがプンプンと漂ってはいましたが、行ってみるまでは本当に何が起きているか分からないのが現場です。
先入観は絶対にダメ、しっかりとやるべき観察と処置を行うことこそがプロの仕事です。ひょっとしたら、唇が裂けて血の海になっている可能性だってゼロではないのですから——。出場途上に119番のあった電話に連絡しましたが応答はありませんでした。
現場到着
指令されたマンションの前に救急車を停車すると、サイレンを聞きつけたお母さんが小走りでやってきました。3歳の女の子がしっかりと抱かれ、半べそをかいています。
お母さんに抱っこさせたまま、まずは救急車へと収容しました。
車内収容
通報者の母親に慌てている様子はありません、冷静に受け答えができます。パニックになって119番通報した訳ではありません。状況を確認すると、自宅のリビングで転んで顔をぶつけ、前歯で上唇の裏側を切ってしまったとのことでした。
どれどれ?と女の子の口元を覗き込みます。
上唇の内側に約5ミリほどの切創を認めますが、出血はすでに完全に止まっており、うっすらとかさぶたになりかけている状態でした。バイタルサインも年齢相応で全て問題なし。他の部位の外傷も一切ありません。救急隊として現場で行うべき緊急処置は正直、もう何もありません。そもそも病院に行くのこの怪我で?
お母さん「私がちょっと目を離した隙に、急に泣き声が聞こえたから飛んでいったら、転んで唇を切っちゃってたんです!」
隊長「……そうですか、でも、もう血は止まっていますし、前歯にもぐらつきや異常はありません」
お母さん「あの…▲病院に連れて行ってください、この子はそこで生まれたのでカルテもあるんです」
隊員「分かりました、▲病院に受け入れ確認の連絡をしてみます」
機関員が医療機関に連絡している間、隊長は女の子の緊張をほぐすためにあやし始めました。女の子はすっかり機嫌を良くし、救急車の中でキャッキャと笑顔を見せ始めます。
隊長「痛かったね〜」
傷病者「ピーポーで行くの?」
隊長「そう、ピーポーで行くんだよ〜」
傷病者「ピーポーしゅご〜い!」
救急車は緊急車両なのだけど…。車内の空気はもはや緊迫感とは無縁の和やかな保育室のようです。まるで優しいおじいちゃんとお孫ちゃん…。やれやれ…。
医療機関連絡
機関員「3歳の女の子、転倒による上唇の約5ミリの切創です、完全に止血しています、バイタルサインにも問題はなくてですね…」
看護師「…はぁ…それで、救急車を呼んだの?」
機関員「ええ…お母さんからの要請で」
看護師「はぁ…しょうがないなぁ…、自家用車かタクシーでどうにかならなかったの?」
機関員「いや…救急隊は要請された以上、我々はお断りすることはできませんので……」
看護師「はぁぁ…そうだよねぇ…当院で対応できます」
機関員「ありがとうございます、5分ほどで到着します」
看護師が呆れている様子が伝わってくる。でも彼女もこんな対応は慣れっこです。溜息が電話越しに痛いほど伝わってきました。
現場出発
赤色灯を回し、サイレンを響かせながら走る車内。
お母さん「本当に、子どもって何をするか分からないから…はぁ」
隊長「…」
お母さんは心底疲れた様子で大きなため息をつきました。
はぁ……。救急隊も心の中で、お母さんの何倍も大きな溜息をひとつ…。
病院到着
医師「はい、あ〜ん、ちょっと唇切っちゃったね、大丈夫だよ〜、ちょっとだけ消毒するからね、チクっとするよ」
傷口を消毒し、軽く軟膏を塗って処置は終了。所要時間は、およそ1分でした。
お母さん「先生、ありがとうございました!」
医師「いいえ、でもね、お母さん、こういうことで救急車を使っちゃダメだよ、子どもはケガをして育つものだからね?もし、こんな小さな傷でみんなが救急車を使っていたら、本当に命が危ない緊急の人が救急車を使えなくなっちゃうでしょ?」
お母さん「でもすごい音がして、すごい勢いで泣いたんですよ!」
医師「うん、お子さんはすごい勢いで泣くものです、元気ってこと」
お母さん「…」
医師からお母さんへの優しいご指導、こんな風に言ってくれる医師は本当にありがたい。およそ2分間の「優しいお説教」でした。こっちの方が処置より時間を要した。
「上唇切創 軽傷」
医療機関引き揚げ
救急車の駐車場で引き揚げの準備をしていると、先ほどのお母さんと女の子が、すでに病院の出口から歩いて帰っていく姿が見えました。女の子は笑顔でこちらに向かって手を振っています。機関員も苦笑いしながら手を振り返します。
機関員「はは…、オレたちより引き揚げが早いじゃねえか…」
隊長「ああ…まあ、まさにタクシー代わりだな」
救急車は一刻を争う緊急性の高い傷病者を、一秒でも早く最適な医療機関へ搬送するために存在しています。
では、何をもって「緊急事態」とするのか。その判断は、119番通報をする市民の側に委ねられています。医学的知識のない一般の方にとって、その判断が非常に難しいことはよく理解しています。駆けつけてみたら結果的に軽症だったというケースは日常茶飯事です。要請した方が「本当にどうしていいか分からず、パニックになって呼んでしまった」というのであれば、分からないこともありません。
大切な我が子が怪我をしたら、身を切り裂かれるような思いをする気持ちも分かる。
しかし、今回のケースはどうでしょうか。現場での雰囲気からも、お母さんから切迫した緊急性を感じることはできませんでした。「通院に使う便利な交通手段」という表現が、もっともしっくりきてしまうのが、残念ながら現実です。
このような安易な利用が増えてしまっては、救急車がいくらあっても足りなくなってしまいます。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい。大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
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