溜息の現場
救急現場には「拒否事案」というものがあります。傷病者や関係者が病院への搬送を拒否する事案のことです。
救急要請は傷病者本人が呼ぶ場合もありますが、家族、知人、通りすがりの人など、救急車が必要だと感じた人が119番通報します。目撃した人が救急車を呼び、
要請者「目撃したのですが、あんまり派手に転倒したので大怪我したと思って要請しました」
傷病者「ちょっと膝をすりむいただけだから、病院になんて行きたくないなぁ…」
…とまあ、このような事案です。傷病者が本人が大丈夫だと言うのだから、救急隊も無理やり病院に連れて行くこともできません。このような時には傷病者本人から署名をもらって、病院搬送することなく引き揚げることになります。
たまに困ってしまうのが、明らかに治療が必要な怪我をしているにも関わらず、傷病者が病院に行きたがらないケースです。「仕事中で忙しいから」「病院がとにかく嫌いだから」そんなことを言って、救急搬送は必要ないと訴える傷病者です。このようなケースであっても無理やりに連れて行くわけにはいきません。
実は、後になり「大怪我だった」となった場合、いくら本人が拒否したとしても「救急隊はプロなんだから、いくら本人が拒否しても説得して連れて行くべきだった」と責任問題となり、最悪は訴訟にまで発展します。要請された以上は責任を持って病院に搬送するよう最大限努める、それが救急隊の責務です。
傷病者自身が要請し、傷病者自身が搬送拒否する場合もあって…
出場指令
「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目⚪︎マンション▲号室、K方、指を受傷、出血が止まらないもの、女性本人から」
まだ暖かい日差しが降り注ぐ町に救急車は飛び出しました。
出場途上、119コールバック
隊員「もしもし救急隊です、指を切って出血が止まらないとのことで要請を受けました、指をお怪我されたのはどなたですか?」
Kさん「私です、料理をしていて左手の中指を切りました」
隊員「まだ出血していますか?」
Kさん「はい、血が止まらないんです」
隊員「圧迫止血と言いまして、ガーゼや清潔なハンカチ、タオルなどを傷口に当ててしっかりと圧迫して下さい」
Kさん「圧迫止血?分かりました、やってみます」
隊員「救急車の到着までもう少しかかります、急いで向かっていますのでお待ちください」
出場途上で止血処置を指示しました。
現場到着
現場はマンションでオートロック、Kさん方の▲号室のインターホンを鳴らすも出ない、さらに押すも応答がない…。
救急隊はこんな時に何を考えるか?指の切創、傷病者は電話にも応答ししっかりと話をしていたけれど、ひょっとして動脈性の出血だったのでは?出血が多くて倒れてしまったのではないのか?より悪い方を考えて活動します。オートロックが開かなければ開ける手段はどうする?さらに▲号室の玄関が閉まっていたらどうする?応援要請?救助隊を呼ぶべきか?
Kさん「はい…」
隊長「あ…良かった!Kさん、救急隊です、オートロックを開けてください」
Kさん「…」
3分ほどしてから傷病者が応答しました。
隊長「大丈夫ですか?開けてください」
Kさん「ええ…」
オートロックが開きました。Kさん方の▲号室に向かいます。傷病者はとてもかったるそうに応答した。出血が多く意識状態が悪くなってきているのではないだろうか?救急隊ならそんな風に考える…訳もなく、インターホン越しの応答の様子で溜息が出る現場の匂いを嗅ぎつけていました。
機関員「ふぅぅ…行きたくないって言うんじゃないの?」
隊員「ええ、搬送拒否の匂いがしますね」
▲号室のドアをノックします。やはりなかなか応答がない。
隊長「Kさん、救急隊です、Kさん、Kさ〜ん」
インターホンを鳴らしてもノックしても応答がない。またさらに3分程、ドアの前で待ちぼうけです。救急隊は緊急事態に駆けつけるものなのだけど…。もちろん、このタイミングで倒れてしまった可能性だってあり得る。しかし、電話越し、インターホン越しに彼女の声を聞いています。もう分かる…これは相当にガッカリな事案になるな…。
Kさん「…はい」
やっとドアが開いた。傷病者はKさん、40代の女性でした。
傷病者接触
現場到着から傷病者接触まで10分近くかかりました…。
Kさん「あのう…どうしても行かなくちゃいけませんか?」
隊長「え…?それは…?」
Kさん「いや…ですから、どうしても病院に行かなくちゃいけませんか?」
隊長「お怪我されたのはどなたですか?」
Kさん「私です」
隊長「救急車を要請された方は?」
Kさん「私です…」
隊長「…」
Kさんの指にはティッシュが巻きつけてあって、輪ゴムで締め付けてありました。
隊長「緊急事態と思われたから救急車を要請されたのですよね?」
Kさん「そうなんですけど…血も止まったし、私…忙しいんですけど…」
隊長「はあ…まあ、ご自身が行く必要がないと仰るなら無理に連れて行ったりはしませんが、まずは怪我をよく見せていただかないと…、創を見せていただいてから判断させてください」
Kさん「はあ…そうですね」
Kさんの左指中指には約1cmほどの切創がありました。料理中に誤って包丁で切ったしまったそうです。出血は完全に止まっていて、縫合の必要もない深さです。もちろんバイタルサインに全く問題はありません。救急隊は創の状況を説明し、滅菌ガーゼを当てるだけの応急処置をしました。
Kさん「それじゃ大丈夫です、ありがとうございました」
隊長「出血は完全に止まっていますし、指が動かないこともない、創の深さも縫合の必要はないと思います、ただ救急隊はこの処置で問題ありませんと申し上げられる立場にはありません」
Kさん「いや…でも私、忙しいので…大丈夫です、病院は行きたくないです」
隊長「そうですか、ご本人がそこまで仰るなら…」
「不搬送 搬送辞退」
帰署途上
自分で要請しておいて第一声が「どうしても行かなくちゃいけませんか?」か…。消防署に戻る救急車内はどんよりと暗い。
機関員「指の創で救急要請ってだけでも溜息が漏れるところなのだけど…どうしても行かなくちゃいけませんか?って…」
隊長「ああ…私…忙しいんですけど…にもガッカリしたな…?」
機関員「ええ、不要不急のこんな現場が多いから…お陰様でオレたちも相当に忙しい…」
隊員「はぁぁ…本当にそれですね…」
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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