溜息の現場
※この記事は、狼少年に殺されるの続編となります。前作をご覧になっていない方は、先にそちらをお読みになってからこのページを読んでください。
70代男性のGさんはこれまでにも増したペースで救急車を呼び続けました。この町周辺の救急隊ならみんな知っています。ここ数当務、Gさんの顔を見ない日はありませんでした。
朝の消防署
激務が多い救急隊は朝の交替時に整列する暇もなく出場し、日が暮れるまで消防署に戻ってこれないことも多いです。ところがこの日は珍しく交替してからもなかなか出場はかかりませんでした。今日はいい感じ。
隊員「珍しく静かですね、今日はこのまま5、6件で終わってくれれば良いのだけど」
機関員「珍しくのんびりだな、たまにはこんな日もないとな〜」
出場指令
10時を回った頃、1件目の出場指令がかかりました。
「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…G方急病、足部の痛み、本人から」
機関員「はぁぁ…」
隊長「やれやれ…1件目はまた彼か…」
隊員「昨日も呼んでるって申し送りでした…」
一生に一回のような緊急事態に駆けつけるはずの救急車がいつもの所へいつものように出場します。前回も行ったばかりの場所、機関員はもちろんのこと全員が地図を見ないで行けるところになりました。
この角を曲がるとGさんのアパートが見えてきます。角を曲がると2階の窓からこちらを見ているGさんの姿が見えました。救急車を確認したからなのでしょう、部屋の中に入っていった。あぁ…今日もいつものように降りてくるのね…。
現場到着
アパートの近くに自転車が停まっていたため、救急車は玄関部から少し離れた位置に停車しました。Gさんはまだ降りてこない。アパートの玄関部分には鍵がかかっており入ることができません。アパートの入り口から声をかけます。
隊長「Gさん、Gさ~ん、共同部分のドアが閉まっているよ、降りてこられる?」
Gさん「今、降りる、そこで待ってろ~!」
大きな声で待っていろと指示が飛んだ。はぁぁ…今日も元気だなぁ…。今日は足が痛くて救急車か…古い昭和のアパート、あの階段を降りることができるのだから…。
傷病者接触
アパート共同部分のドアが開いた。
隊長「Gさん今日はどうしたの?足が痛いならD病院?」
Gさん「はぁぁ…足が痛いと言っているのに…本当にこいつらときたら何を考えているのだか…」
大きな溜息をついて一言目にはぶつぶつと救急隊に文句を言い始めた。アパート入り口の目の前に救急車が停まっていないのが気に入らないのです。
隊長「Gさん、歩けるでしょ?救急車でお話を聞かせてくださいよ」
Gさん「オレは足が痛いんだよ、歩けないんだよ」
隊長「…ここまでストレッチャーを持って来いってこと?」
Gさん「そうは言わないけどよぉ、まったく何を考えているのだか…」
歩けない人がどうやってあの急な階段を降りてこられるのでしょうか?今日もまず悪態をつくだけの元気がある。不機嫌な様子でGさんはスタスタと救急車に向かって歩き出しました。
車内収容
隊長「今日は足が痛いのですよね?それならばいつもD病院の整形外科で診てもらっていますよね?」
Gさん「そうだ、もう連絡してあるからすぐ行ってくれ」
隊長「そうはいきませんよ、血圧とか脈拍も病院に伝えないとならないです」
Gさん「はぁぁ…分かったよ、ほら、早くしてくれ」
Gさんはそう言うと隊員に向かって人差し指を出した。とっととパルスオキシメーターをつけろ…か。1日に2度3度と救急車を使う人です。救急隊がどんな風にバイタルサインを測定し、概要を聴取し、連絡に至るかを把握しています。今日は既にかかりつけ病院に連絡して、救急車で今から行くから準備しておけと指示してあると言うのでした。なんて手際の良いことでしょう…。
病院連絡
機関員「…と言う状況です、ええ、Gさんです、ご自身で既にそちらに連絡を取ったと言っています」
看護師「ええ…さっき早く診ろって電話してきました…救急隊から見て救急車じゃないとダメな状況なの?」
機関員「いいえ…ただ、ご本人が歩けないと要請されましたので…早くしろって言っています」
看護師「はぁぁ、私たちにもいつもそうなの…先ほど医師が電話に出て確かに診ると回答しました、ただ先生は救急車では来ないように、自分で来るようにと言っています」
機関員「ええ…先生がそう言ってくれているのだろうとは我々も思っているのですけど…」
看護師「はぁ…聴く訳ないか…」
機関員「ええ…まあ…そう言うことです、ご本人が119番しました…」
看護師「救急車にはどうやって乗ったの?」
機関員「もちろん、ご自身で歩いて…」
看護師「はぁぁ…まあそうよね…ちょっと先生に話してきます、お待ちください」
機関員「お願いします」
看護師が電話対応した医師に状況を説明しているのでしょう。なかなか応答がありませんでした。イライラし始めたGさんがまたぶつくさと文句を言い始めた。
Gさん「なあ?連絡してあるんだよ、何やってるの?」
隊長「病院の方も確認があるようで、時間がかかっているみたいです」
Gさん「緊急なのだから、救急隊も病院も急いで診なくちゃダメだろ?はぁ、まったく何をやっているのだか…こっちはすぐに出発できるように連絡まで入れてやっていると言うのに…」
そう言うとGさんは自分の携帯電話を出してどこかにかけ始めました。おいおい…どこにかけているんだ?
Gさん「D病院?整形外科につないでくれる?は?私…?Gって者だけどね…これからそっちに行くんだけどね…救急車から電話してもらっているのだけどなかなか応答しないのだよ、何やってんだ、病院がそれじゃダメじゃないか、いいから整形外科に繋げ!」
電話に応答しているのは病院の事務員なのでしょう、ここでも文句を言っている。
看護師「もしもし…お待たせしました、ねえ…?何か電話してきてない?」
機関員「救急車の後部座席からそちらに電話をしているみたいです、早く診ろって言っていますよ」
看護師「はぁぁ…分かりました、どうぞ向かってください」
機関員「すみません、救急隊は向かいます、お願いします」
まだ電話を続けているGさんは言いたい放題文句を言い続けていました。
機関員「ねえ、Gさん診てくれるってさ、D病院に行きますよ
隊長「救急車は動きますよ、電話はそこまでにしましょう」
Gさん「ああそうか、救急車が動くって、今から向かうからしっかり準備しておくようにな、こっちはここまで準備しているのだから…おい聞いているのか?」
救急車が動き始めてもまだ事務員へのお説教が足りないようです。このGさんは、救急隊にだけではなく病院スタッフにもこんな感じなのです…。
医療機関到着
隊員が救急車のリアドアを開けた。
隊員「Gさん、病院に着きましたよ、気をつけて降りてください」
Gさん「はぁぁ…まったく…何を考えているのだか…歩けないのだから車椅子だろ?」
隊長「ねえ、Gさん、さっきまで歩けたじゃない?あの階段も自分で降りてきたじゃないの?」
Gさん「オレは歩けないから救急車を呼んでいるんだ、本当にテメエらは分からない奴らだな」
機関員「はいはい、ちょっと待っててね、今お持ちしますからね」
いつもなら真っ先にイライラし始めるのが機関員なのですが、今日まだ1件目なので心に余裕があったようです。自称歩けないGさんは自身の足でしっかりと救急車を降りて、リアステップに座り車椅子の到着を待つのでした。
院内
機関員が病院スタッフに声をかけました。
機関員「救急隊到着しました、Gさんです、お願いします、車椅子をお借りします」
医師「そんなもの持って行くんじゃない!」
医師が怒鳴った。 医師のそばには看護師や事務員が集まっていました。皆難しい顔をしている。
機関員「え”…」
医師「救急隊もそんなことまでしてやるから付け上がるんだ!車椅子を持ってこいって?」
機関員「ええ…」
医師「救急車では来るなと言ったのですよ」
事務員「先生、私たちにも早くしろって、いいから診ろって…」
看護師「私たちにもいつもそうです、今日も本当に酷い…」
医師「ふぅ、分かった」
医師は外へ出て行きました。
再び救急車
Gさん「オレが言ってやったからこうやって診ることになったんだ、あんたたちももっと強く診るように言わないとダメだ」
隊長「はぁ、強くねぇ…」
Gさんは救急車のリアステップに座り、救急車や病院のあり方について持論を述べていました。医師が怒りの形相でやってきました。 よしよし、オレのために医師が迎えにやって来た。やっと分かってきたじゃないか。
Gさん「あ、先生どうも、よろしくお願いします」
医師「あんた何やってんだ?」
Gさん「え”…何って?歩けないもんで車椅子を待っています」
医師「あんたが乗る車椅子なんてこの病院にはない!歩けるのだから歩け!」
Gさん「え”…え”…はい…」
物凄い剣幕の医師に素直に従うGさんはトボトボと歩き始めた。診察室に入ると医師の怒りが爆発したのでした。
診察室
医師「なあGさん、私は救急車では来るなって言ったよな?」
Gさん「いえ…歩けなかったもので…」
医師「歩けない?たった今も歩いているじゃないか?私が何も見ていないと思っているのか?昨日来た時も待合室で歩いていたじゃないか?」
昨日も来たのか…。Gさんは昨日ももちろん救急車で来院していたのでした。
Gさん「それは…少しは歩けますけど…痛いので…」
医師「救急車は命の危ない人が乗るためにある、あんたみたいにこんな風に使うと本当に命が危ない人が死んでしまう、分かっているのか?」
Gさん「え”…はい…でもここまでは遠いもので…」
医師「救急車は遠ければ使って良い車じゃない、ねえGさん、帰りは救急車じゃ帰れないよな?どうやって帰っているの?」
Gさん「…」
医師「聞いているよ、事務員に送りの車を出せとかタクシーを呼べとか騒ぐのだって?」
Gさん「いや…そんなことは…」
医師「私はね、診ないとは言わない、痛ならちゃんと診察します、ただこれからあなたが救急車で来るのならもう診ない!この病院はね、あなたより高齢で足の痛い方もみんな朝からやってきて、順番を守って診察を受けて帰っていく、これ以上ふざけたことは許さない!」
Gさん「あの…え”…あの…すみません」
医師「足は大丈夫です、納得がいかないなら出直してきなさい、間違いなく大丈夫です、外来で順番を取って来るなら、いつでも診察します」
Gさん「は、はい…すみませんでした」
そう言うとGさんは今まで見たことのない迅速な足取りで立ち去っていきました。今日は一段と速く歩くなぁ…。
看護師「ありがとう〜先生〜」
事務員「先生、ありがとうございます〜」
医師「私は決して診察を断ったりはしない、これまでだって本当に腹立たしかったけどちゃんと診察してきたんだ、絶対に歩けないなんてことはない」
隊長「あの方は1日に2度も3度も救急車を呼ぶのです…救急隊も本当に困っています」
医師「昨日も診察はするから救急車で来るなと言っているのに救急車で来てね…待合室でも看護師を怒鳴り散らしたり、早く診ろと騒いだりと酷かったのですよ、帰宅後も「まだ痛いからどうにかしろ」電話で事務員を困らせてね、みんな困っていたんだ」
隊長「そうでしたか、本当に助かりました」
この優しい口髭の医師、怒りが爆発した様子は大迫力でした。あれ?そう言えばお会計の手続きは?生活保護だからお金はかならないのだろうけど…。
「足部痛 軽傷」
帰署途上
隊員「これに懲りて救急車を呼ばなくなれば良いですね」
機関員「何言ってんだよ!D病院には行かなくなるだけで何にも変わらないって」
隊員「そうでしょうけど、せめて件数が減ってくれれば良いですね」
隊長「そうだな、どの病院にもあんな先生がいてくれれば良いのだけどな」
これを機会に少しは救急車の使い方を考えてくれるのではないか、ほのかに期待しつつ引き揚げました。まだ1件目、今日はいい感じ…かと思ったのだけどれども…。
甘い救急隊は打ちのめされる。この後、嵐が来たのでした。消防署の敷地を踏むことなく救急車は無線で呼び出され続け日付が変わってしまいました。
別に近くでテロが起こった訳でも、大型バスが大きな事故を起こした訳でもありません。大きな要因は本当に簡単に救急車を呼ぶ人たちが引っ掻き回しているから…。1日に2度も3度も救急車を呼ぶような人までいるから…。
翌朝
救急隊は仮眠室に入ることもできないまま翌朝になりました。ここまで15件の出場、まさに1秒も横になることができなかった…。もうやめてくれ…もう限界だ…もう許してくれ…。そんな救急隊を打ちのめす16件目の出場指令が流れたのでした。
「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…G方急病、男性は腹痛、本人から」
隊員「また…」
隊長「ちっとも分かっていないじゃないか!」
機関員「…」
ここまでいっさい眠らずに運転してきた機関員にはもう口を開く元気もありませんでした。この当務、1件目はGさん、そして16件目もGさん…。常習者に始まり常習者で終わる。だから常習者と呼ばれるのです。またあの角を曲がるとあのアパートがある…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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119番『通報しまくり女』逮捕
