治療できない病

仰天の現場

人生を賭けて成し遂げたいこと、命を懸けでも守りたいもの。果たしてそんなものがあるだろうか?絶対に失いたくないもの、這ってでも守り抜きたいもの。現場にはそんなものもあって…。

出場指令

暖かい日差しが注ぐ消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…F方、女性は体動困難、通報は家族男性から」

との指令に救急車は消防署を飛び出しました。

119コールバック

救急車の後部座席から隊員が119番通報のあった電話に連絡しました。電話に応答した家族男性は傷病者の息子でした。

隊員「救急隊です、ご通報いただいたご家族ですか?」
息子「よろしくお願いします、母なのですが動けなくて…」
隊員「お母さんはおいくつの方でしょうか?どうして動けないのでしょうか?」
息子「それがですね…」

傷病者は80代女性で3日ほど前から発熱があり体調不良を訴えていた。今朝は部屋から出てこないので様子を見にいくと、トイレにも行けなかったようで布団が尿で汚れている。救急車を呼ぶと伝えたが、本人は病院になど行かないと訴えている。昼を過ぎても全く起き上がる様子がないため、家族と相談し要請することにしたとのことでした。

隊員「ご本人は話ができるけれど、自分では動けなくてトイレにも行けなくなっているのですね?」
息子「はい、そうです…」
隊員「ご本人は救急隊が来ることを知らないのでしょうか?」
息子「はい、知らせていないです」
隊員「分かりました、ご本人には救急車を呼んだことを伝えて下さい、あと数分で到着しますので案内をお願いします」
息子「分かりました、よろしくお願いします」

ふぅ…。簡単にはいかない現場の臭い…。隊長と機関員に情報を共有しました。

隊長「傷病者は病院に行かないって言っている訳か…病気は?」
隊員「近所のクリニックで高血圧の薬をもらっている程度で生活は自立、介護認定なども受けていない元気な人だそうです、ただ、最近は認知症みたいな症状があるってことでした」
機関員「情報源は息子か、着替えは?汚れたままなんじゃないか?」
隊員「そこは確認していませんが、その可能性が高いと思います」

布団上で汚れている。最近は認知症のような症状があって病院には行きたくないと訴えている。いつかのおじいちゃんみたいなことにならなければ良いのだけれど…。

(いつかのおじいちゃんの事案→住民のニーズに応えるということ

現場到着

現場は古い一戸建て、大きく手を振る男性の姿がありました。

隊長「お待たせしました、Fさんですね、あなたは?患者さんのご主人ですか?」
夫「ええ、妻がね…動けないんだ、よろしく頼みます」
隊長「案内をお願いします」
夫「ああ…2階なんだ、狭くて申し訳ないな、息子が一緒にいるから」

膝が悪そうな夫の案内で救急隊は傷病者がいる2階へと向かいました。昭和に建てたであろう家は確かに階段が急で狭い、救急隊3人でこの階段を安全に安全に降ろすことができるだろうか…。

傷病者接触

隊長「お待たせしました、救急隊です」
息子「ほら、母ちゃん、救急隊の人たちが来てくれたぞ、病院に行くぞ」
Fさん「救急隊?あんたが呼んだのか!?わたしぁ病院になんて行かないって言っているじゃないか!」
息子「動けないじゃないか、このままでどうするつもりなんだ」
Fさん「そんなこと言って、分かっているんだ!あんたたちは狙っているんだ!」

到着した救急隊を見て激怒している傷病者、意識があり、呼吸があり、怒っている。1分1秒を争う緊急性が高い状態ではないであろうことが分かる。ふぅ…。同時に一筋縄ではいかない現場であることも分かった…。

隊長「こんにちは、Fさん、そんなに大きな声を出さないで、救急隊です」
Fさん「わたしゃ病院になんて行かないよ!」
隊長「病院に行かなくてはならないかどうか、私たちに判断をさせて下さい」
隊員「Fさん、私には血圧を測らせて下さい、お話を聞かせて下さい」
Fさん「はぁ…はい」

Fさんは同意を得ないまま救急車を呼んだと息子に激怒していますが、救急隊にはそれなりに接してくれるのでした。JCS1、やや頻脈であるも血圧は正常値、40度代の発熱がありました。痰が絡んだ咳をしており、聴診すると胸部には明らかな雑音がありました。肺炎を起こしている可能性が高そうです。

隊長「なるほど、それでは3日前から発熱があって、今朝からはもう歩けなくなったと…トイレは?ご自分では行けなかった?」
Fさん「ええ…行こうと思ったのだけれど…間に合わなかった、辿り着けなかった…」
隊長「分かりました、体温も高いし、この咳の様子、呼吸音にも雑音があります、肺炎になっている可能性があるし病院に行った方が良いですよ」
Fさん「行きたくない、私が出かけたら狙われる」
隊長「狙う?誰も何も狙っていませんよ、大丈夫、病院に行きましょう」
Fさん「ダメだ、私が出かければ隙を狙われる、絶対にダメだ」

Fさんの下半身は尿で汚れており布団までびしょびしょに濡れている状態です。四肢に麻痺はないが、支えることでやっと座ることができるような状態でした。もちろん一人では歩けない、立ち上がることすらできませんでした。救急隊は再三に渡り説得しますが、Fさんは病院には行かない、狙われると訴えています。

息子「母ちゃん、そんなこと言ったって動けないだろ?病院行かないと…」
Fさん「嫌だ…行かない…」
夫「救急隊の人たちも困っちゃうだろ、トイレも行けないのだから行けって」
Fさん「ダメだ、盗られる、狙っている」

何者かが狙っている、精神科疾患の方がよく訴える症状です。認知症ではなく何らかの精神科疾患を患っているのでしょうか?Fさんは高熱がありもうろうとした状態でも、明確に救急隊の搬送を拒否するのでした。ただ、よくよく話を聞いてみると…どうやら病院に行きたくないのではなくて、ここから離れたくはないと訴えているのでした。どういうこと?

隊長「Fさん、治療は受けたいの?ここから離れるのが嫌なの?」
Fさん「具合いは悪い、それはどうにかしないと…」
隊長「そうであれば私たちが病院に連れて行きます、救急隊に任せて下さい」
Fさん「ダメだ、家は出られない、狙われる狙われる…私のお金、私の…」

狙われているのは得体の知れない何かではない?お金?呆れ顔で腕組みをしている息子と夫はこちらの様子を見ている。救急隊は根気よく丁寧にFさんへの説得を続けました。頑なに病院には行かないと訴えていたFさんも徐々に心を開き…。

Fさん「うん…確かに立てないし…病院に行く…」
隊長「それは良かった、それならば私たちは病院を探します」
Fさん「ただ、行く準備を、私が準備を…」
隊長「準備?それはご家族にお願いしましょう」
Fさん「私が!私が…準備を…」
息子「…」

再三の説得で病院に行くことに同意したFさんですが、どうしても譲れないことがあると言うのです。条件は「病院に行く支度は自分でやる」こと。

尿で汚れたままの衣服を息子や男性ばかりの救急隊には替えさせたくはない。Fさんは私たちが思っていたよりも遥かにしっかりした方なのだろうか?80代だからなんて…女性の羞恥心への配慮が必要だったのか?そうであれば、救急隊も家族も配慮に欠けているのかもしれない…。

隊長「それではFさん、出かける支度をしましょう、お着替えはどこにあるのですか?」
Fさん「着替え?そんなのはいい、救急隊も…全員この部屋から出ていって、私がやる…私がやるから…」
隊長「だってFさん、動けないのだから…」

着替えは必要ない?羞恥心への配慮…ではないのか?Fさんからのもう一つの条件は「救急車への家族の同乗を認めないこと」でした。この様子に呆れ顔でだった息子は明らかに不機嫌になり始めた。

息子「ふん、分かったよ、だったら勝手に行けよ!」
隊長「息子さんもそんなことを仰らないで、ご本人がそう言っていますから後からお迎えに来て下さい」
息子「分かりました…それではオレは後から行きます」
隊長「機関員は選定を始めてくれ」
機関員「了解です」

身支度の介助するという救急隊の声を振り払うように、Fさんは強い眼光でこの部屋から全員が出て行くように訴えるのでした。そう言うと床を這って進み出したのでした。恐ろしいほどの執念を感じ取り、家族と救急隊は部屋を出たのでした。

息子「申し訳ないですね、絶対に聞き入れませんから本人の好きにさせて下さい」
夫「あの執着は病気だ…治療できない…」
息子「ふん…元はと言えば…治療できないのは親父の方だろ!」
夫「…」

搬出開始

全員が部屋を出てから数十分、這ったままFさんは身支度を整えたのでした。この間に病院選定を行い搬送先を決めることができました。部屋に入る許可が得られたのですが、衣服は汚れたままでした…。

隊長「Fさん、それでは病院に行きましょう、この担架で救急車までお連れします」
Fさん「はい…」
隊長「そのバックは救急車まではご家族に持ってもらいましょう」
Fさん「ダメ…私が持つ、渡さない…」

Fさんは大きなバックを抱きしめて絶対に離さないと言います。執着の元はこれか…。絶対に聞き入れない、家族がそう言うのだから間違いないのでしょう。

隊長「そのバックには保険証やお薬手帳は入っていますね?」
Fさん「そんなのいい、そんなのどうでも良い…」

いや…それはどうでも良くないから、それが大切なのだけど…。医療機関に向かう救急車内でもストレッチャー上でも、Fさんは肌身離さずにバックを抱き抱えるのでした。うなされるように呟いている。

Fさん「渡さない、誰にも渡さない…お金、私の…お金…」
隊長「…」

医療機関到着

レントゲン検査の結果、すぐさま入院治療が必要と判断されました。

「肺炎 中等症」

引揚途上

隊長「何というか…強い執念、恐ろしいまでの執着を感じたな」
隊員「ええ、命懸けの意志を感じました」
機関員「現場で息子さんが言っていたな、元はと言えば親父せいだって、事情は分からないけど…」
隊長「あそこまでの金への執着は過去に相当のことがあったのだろう、夫のギャンブルかな?」
機関員「間違いないでしょ?家のあちこちにパチンコ店の販促品みたいなのがあったし、今もきっと継続中ですよ」
隊員「あのバックには多額のお金が入っていたのですかね?」
隊長「さあな?搬送中にもうなされるようにお金お金って呟いていた」
機関員「あの部屋には家族も誰も入れないのだって、出かける時にも部屋に鍵をかけるって…、実際にあの夫は狙っているのかもな?息子さんもウンザリって様子だった」
隊長「ギャンブル狂いも病気だからな…これまであの奥さんには計り知れないお金の苦労があったのかもね?」

命を懸けて守りたいものは賭けてしまう金…。治療できない病は夫のギャンブルか?妻の執着か?

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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