みんながプロとは限らない

溜息の現場

不要不急の救急要請が社会問題となっています。医療機関への受診を望む傷病者がいるのならば、明らかに不適切な要請内容であったとしても、救急隊が搬送しないという選択をすることはできません。

逆に傷病者が搬送を拒否した場合は、どれだけ治療が必要と判断した場合であっても搬送することはできません。搬送するためには、傷病者を説得し理解を得なければなりません。そのどちらでもない場合は…

出場指令

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目、W公園、男性は倒れているもの、通報者は公園管理人の男性」

との指令に救急隊は出場しました。間もなく夕食の時間帯です。

隊長「はぁぁ…休憩は返上か…」
機関員「くぅ…今日も定時に飯は食えないのか…」

出場途上に通報電話番号に連絡を取りましたが応答はありませんでした。

現場到着

出場先のW公園は広大な公園で住民の憩いの場であると同時にホームレスたちが住み着いています。公園の入り口には通報者の公園管理人が案内に出ていました。管理事務所の前に救急車を停止し、彼の案内で現場へと向かいました。

管理人「公園を利用していた方から管理事務所に連絡がありましてね、ベンチの下に男性が倒れているのです、今も他の者が付き添っていますが多分ホームレスです」
隊長「そうですか、分かりました」
管理人「あの人なのですけどね…」
隊長「ああ…なるほど…」

ベンチの下に60歳くらいの男性が倒れていました。近くには他の管理人、公園の利用者たちが野次馬になっていました。衣服はかなり汚れている、顔色は悪くない。倒れていると言うよりは寝ているというのが正しい表現です。確かにホームレスみたいだ。

傷病者接触

隊長「もしもし?どうされましたか?」
傷病者「…」
隊員「どうされましたか?お返事してください!」

隊員が強く呼びかけ肩を叩いても反応がない、意識障害?違うな…とてもそうは思えない。けっこうなアルコールの臭いもしている。呼びかけに反応がないため、傷病者の胸部を押して痛み刺激を与えました。意識の覚醒度を評価する手段です。

隊員「胸を強く押します!ごめんなさい、痛いですよ!」
傷病者「うぅ…」

顔をしかめて唸った。痛み刺激で顔をしかめる…か、意識レベルはJCS200…?いや、違うな…。こうやって意識がないように見せかければ重症だと判断されて、入院できるかもしれない。たまにこの手を使うホームレスには出会います。こんな手に騙されるようではこの町の救急隊は務まらない。救急隊はこの町を守るプロです。

隊長「詳細観察は車内収容してからにしよう」
隊員「了解です」

本当に意識レベルが低下している人は全身が脱力しており、持ち上げる際にはとても重いものです。しかし、この傷病者は抱えられる際に力が入っていました。目を瞑っている状態で抱えられれば怖い、無意識に力が入ってしまうものです。疑念は確信に変わりました。間違いない、これは意識障害ではない、狸寝入りです。

車内収容

バイタルサインに全く異常なし。ただ名前も生年月日も分からない…困ったな…。

隊長「あれ?この人…扱わなかったか?」
隊員「いつですか?どんな事案でしたっけ?」
隊長「ほら、▲町の…確か娘さんと暮らしているって…電話を切られた事案」
隊員「あ!確かに…あぁ…そうかもしれない…あれから1週間くらいですよ?」
隊長「そうなんだよな、ちょっと汚れ過ぎだよな?」
機関員「いや…多分間違いないよ、名前は…?ええと…」

▲町にいつもアルコールを飲んで問題を起こす男性がいます。先週も路上に酩酊状態で寝込んでいました。警察官の協力で身元が判明、娘さんに連絡を取ると「その人は父親でも何でもありません、本当に迷惑なんです、死んで構わないからほっといてください」と言われて電話を切られました。

機関員「お前が娘さんに連絡したんじゃないか、名前は思い出せないか?」
隊員「娘さんに理不尽に怒られたので内容はよく覚えているのだけど…ええと…何だっけな…」

この時はH病院に頼み込みどうにか搬送、相当の酩酊状態であったため警察官の保護となりました。あの時と同じ人だと救急隊の3人とも思うのですが…それにしてもあれからたった数日でここまで汚れるものだろうか?

隊長「ねえ、あたなは▲町で娘さんと暮らしていませんか?」
機関員「ねえ、お父さん、ちょっと起きてよ!名前も分からないままじゃ病院になんて行けないよ、ねえ!」
傷病者「…」
隊員「困ったな…」
隊長「先週は確かH病院だったよな?」
機関員「連絡してみますか…」

この病院は選定が難航しがちなホームレスでもよく受け入れてくれる。あんたもオレみたいになるよとホームレスに言われたあの時も受け入れてくれました。救急隊にとっては頼りになる病院です。

機関員「…と言う状況なのです」
看護師「意識障害があるの?」
機関員「いや…狸寝入りだと思っています、先週にうちの隊でそちらに搬送しているはずなんです」
看護師「先週?ちょっと調べてみるね」
機関員「確か○日の夜だったと思います」
看護師「○日の夜…救急搬送…あぁ…Kさん」
機関員「そうだ、Kさん、Kさんです、間違いないと思います」
看護師「先週で…また救急車?今日はアルコールは?」
機関員「けっこう臭います」
看護師「ふぅ、やっぱり…先週も結局は警察で保護…か」
機関員「どうにか診て頂けませんか?」
看護師「ふぅ…先生が診ると言っています…どうぞ来て下さい、それと入院の必要がなかったら、その方が帰るか警察官が保護するまでは救急隊がしっかり面倒みてくださいね」
機関員「分かりました、向かいます、よろしくお願いします」

受け入れ先は意外とあっさりと決まりました、本当に良かった…。傷病者はほぼKさん(仮)…。

病院到着

傷病者はまだ狸寝入りを続けている。ストレッチャーの上でへの字の結んだ口元には硬い意思が伺える。

看護師「Kさん!今日はどうしたって言うのよ!」
傷病者「…」
看護師「間違いない!Kさんです、私も何度も会った事がある」
隊長「やっぱりですか」
看護師「でもずいぶん汚れているわね?」
隊長「そうなんですよね、あれからそれ程は経っていないっていうのに…」

彼女もこんな傷病者には慣れています。傷病者はKさんで確定…。

看護師「さあKさん、車椅子を用意したからこっちに座って、ほら!いつまでもストレッチャーになんて寝ているんじゃないわよ!ほら!」
Kさん「…」

益々口元をへの字に結んだKさんは救急隊に抱えられて車椅子に座らされました。今回もちゃんと力が入っている。

看護師「ねえKさん、意識がない人は椅子になんて座れないの、ねえ目を開けてよ!」
Kさん「…」
看護師「狸寝入りなんて決め込んでんじゃないわよ!ほら起きて!」
Kさん「…」

この町のこの病院の救急科に勤めているベテラン看護師はこうでなければ務まらない。間違いなくプロ、伊達じゃない。Kさんはもう意地なのでしょう。への字に結んだ口元からはさらに固い意志を感じる。車椅子に座ったまま医師の診察が始まりました。

医師「Kさん、飲んでいるの?アルコールの臭いもするね?ねえ起きて?」
Kさん「…」
医師「ごめんなさいね、胸を押すよ、目を開けて」
Kさん「…」
隊長「我々も何度も痛み刺激をしたのですけども…」
医師「ふ〜ん…救急隊は甘いんだよ」

そう言うと医師はボールペンをKさんの爪に当てて押し込みました。これは爪床圧迫(しょうそうあっぱく)と呼ばれる評価方法です。

Kさん「…」
医師「へぇ…」

今度は乳首を強くつねった。見ているだけで痛い…。これは推奨される方法ではないみたいですが、こんな患者さん相手には時々見る方法です。

Kさん「う…ぐ…」
医師「起きてるじゃない、ほら、目を開けて!聞こえているでしょ?」
Kさん「ぎゃぁ〜ぁ」

Kさんが車椅子上で仰け反った。これぞ綺麗事など通用しない現場、まさにこの町の臨床です。

医師「あ、良かった良かった、目が覚めたね!」
Kさん「…」
医師「ねえKさん、もう分かったから、入院なんてできないよ、ほら帰ろう」
Kさん「…」

この町のこの病院に勤務する医師はさらにプロです。プロを欺くことはできない。

医師「ね?救急隊の観察は甘いよ」
隊長「はぁ、先生…でも救急隊がそんな風に判断する訳には…」
医師「ハハハ…まあそうだよね、入院の必要はなし、警察の保護まではいてよ」
隊長「了解しました、ありがとうございました」
看護師「さあKさん、診察が終わりました、大丈夫ですって、良かったですね」
傷病者「…」
機関員「Kさん、診察は終わったのだから帰ろうよ、帰ろう!」

車椅子の両サイドから隊長と隊員で抱えて歩かせようとするも相変わらずの狸寝入り…。まだ頑張るのか…。

機関員「警察に連絡しました、パトカーで迎えに来てくれるそうです」
隊長「そうか…でも時間がかかるのだろうな」
機関員「ええ…どうにか自分で帰れないものなのかって渋られました…」
隊員「そうでしょうね…」
隊長「じゃあ後は頼んだぞ」
機関員「よろしくな」
機関員「え”…」

隊長と機関員は救急車に戻ってしまいました。ちぇ…最後まで面倒をみるのは隊員の仕事なのか…。夕食の時間に出場したのにすっかり夜は更けていました。病院の待合室は隊員とKさんのふたりきりです。腹が減ったなぁ…飯も食えずにいったい何をやっているのだろう…?

警察官「どうもお疲れ様です、こちらの方ですね」
隊員「どうもお疲れ様です…あれ?確か…」
警察官「ああ!どうも先週も…」

酩酊者を保護するのは警察官の仕事です。迎えに来てくれたのは先週もこの病院にKさんを迎に来てくれた警察官でした。

隊員「話が早くて助かるな…先週の方です」
警察官「え”…また?…Kさん?」
隊員「そうです…」
警察官「Kさん、先週もだったじゃない…あれ?ずいぶん汚れているな…」
隊員「そうなのですよ先週からずいぶんと汚れてしまったんです」
警察官「Kさん、娘さんは来てくれないの?あれから路上生活になったの?」
Kさん「…」
隊員「ずっとこうなんです、何も話してくれないのですよ」
警察官「なあKさん、こんなことしたって入院なんてできないんだよ、無駄なことはやめよう、娘さんのところに帰ろう」
Kさん「…」
警察官「はぁぁ…病院の玄関にパトカーを回します、もうちょっと待って下さい」
隊員「申し訳ありません、よろしくお願いします」

病院の待合室、Kさんと隊員、警察官の3人、パトカーはなかなか来ない。

警察官「なあKさん、もう諦めて自分で帰ろうよ」
Kさん「…」
警察官「ねえ聞こえているでしょ?」

そう言うと警察官はKさんの鼻を摘みました。への字に結んだKさんの口元がもぞもぞと動き出した。

警察官「ねえ、起きてよ、自分で帰ろうよ」
Kさん「ぷはぁ~」
警察官「ぷはぁ〜じゃねえ、しっかり起きてるじゃねえか!」
Kさん「…」
警察官「ねえKさん、自分で帰ろうよ…本当は帰れるでしょ?」
Kさん「…」

パトカーが迎えに来ました。警察官もさすがはプロ…粛々と仕事を進める。Kさんは両脇を警察官に抱えら引きずられるようにパトカーに乗せられました。まるで捕らえられた宇宙人…。パトカーで自宅まで送っていくのだそうです。ある意味Kさんの粘り勝ちかも…?とにかくやっと終わった…。

引揚途上

病院の駐車場に停車している救急車に戻りました。

機関員「お疲れさん…」
隊員「やっと終わりました…最後の最後まで意識なしで頑張っていました」
機関員「入院はできなかったけど、帰りの交通手段はゲットってところか…」
隊員「はい、パトカー送って行くって、あのKさん、ある意味プロですよ…」
隊長「引き揚げて夕食にしよう、腹が減っただろ?」

消防署への帰路を走り出した救急車

隊長「さて、これはどう報告したものかな…」
機関員「仕方がないでしょ?先生がそう書いたんだ、ありのままを報告すれば良いんですよ」
隊長「う〜ん…そうだよなぁ…」
機関員「この町にこんな人がいるのは想定内ですって、救急隊が診断する訳ではないのだから意識不明を演じられたら搬送するしかないでしょ」
隊長「それはそうなのだけど…救急のことなんて知らない上司もいるからなぁ〜」
隊員「隊長は何を悩んでいるんですか?」
隊長「いや…それがな…」
機関員「お前も見ろよ、あの先生、さすがだぜ!」

記載された傷病者引継書には医師のサインと共に傷病名程度が記載されます。

「詐病 軽傷」

夜の消防署

夜の更けた消防署の事務室、来客もいないこんな時間帯はみんなリラックスモードです。

隊長「と言う事案で、時間がかかりました」
上司「大変だったね、お疲れ様でした…」
隊長「ええ…大変でした…」
上司「ところで…詐病なら搬送する必要ってあったの?」
隊長「…」

みんながプロとは限らない…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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