大丈夫じゃ困るんです

溜息の現場

救急車は傷病者を迅速に医療機関に搬送するための緊急車両です。緊急性があるか否か、救急車が必要かどうかは通報者の判断に委ねられています。医療従事者でもない一般の方が緊急度や重症度を正確に判断することなんてできる訳もなく、結果的には軽傷であることはとても多いです。そんな時、医師から「心配ない、大丈夫」と言われて安堵の溜息が漏れるものなのですが…

出場指令

「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目…S方、女性は動けないもの、通報は家族女性から」

との指令で救急隊は現場に向かいました。出場途上に119番通報のあった電話に連絡を取りましたが応答はありませんでした。

現場到着

救急車は一戸建ての家の前に停車しました。家の前には50歳くらいの女性が案内に出ていました。

隊長「お待たせしました、通報を頂いた方でしょうか?」
嫁「はい、義母なのですがもう動けなくなってしまっていて…お願いします」
隊長「お話はできる状態でしょうか?」
嫁「はい…意識はしっかりとしているのですけど…」

彼女は要請したお嫁さんでした。傷病者は義母で1階の部屋で横になっていると言います。お嫁さんの案内で傷病者がいる部屋へと向かいました。傷病者は毛布上に仰向けになっていました。この臭いは…。

隊長「こんにちはSさん、どうされましたか?」
Sさん「は?何が?」
嫁「昨日から動けないでいるんです…おしっこも漏らしていてもう大変で…」

傷病者は80代の女性でSさん、衣服は尿で汚れておりアンモニア臭が部屋に充満していました。部屋には大人用の紙オムツがあり、Sさんは紙オムツを履いている。おしっこを漏らしている?失禁している?オムツはパンパンに膨れ上がっており、漏らしていると言うよりは溢れてしまっていると表現すべき状況です。

隊長「どこか痛いところや苦しいところはありませんか?」
Sさん「お陰様でこの年だって言うのに身体の調子も良くてご飯も美味しく食べられるんです」
隊長「そうですか…それは良かった…」
嫁「M病院にかかっています、M病院に連れて行ってください」
隊長「M病院にかかりつけ、なるほど…」
嫁「はい、入院させてください」
隊長「Sさん、M病院にかかっているのですね?今日はお医者さんに何を診てもらいましょう?具合いは悪くないですか?」
Sさん「具合い?この年だって言うのに調子が良くってね、ご飯も美味しいんです」
隊長「…」

Sさんは認知症がありました。デイサービスなどの介護サービスも利用したのですが、肌に合わず行かなくなってしまいました。お嫁さんが自宅で介護を続けている状況でした。

嫁「もういいからM病院に行ってください」
隊長「いくらかかりつけでも患者さんの訴えも分からないままでお連れすることはできません、ご本人のお話を聞かせてもらって、バイタルサインも計らせてください」
嫁「はあ…そうですか…」

Sさんは救急隊の問いかけに体調は絶好調でご飯も美味しい、具合いが悪いことはなく元気であるとアピールするのでした。このまま病院に連絡しても「傷病者は何を訴えているの?」「元気いっぱいと訴えています」「それなら何を診れば良いの?」となってしまう。救急隊はどうやって医療機関に収容依頼をプレゼンすれば良いの?

隊長「ご家族からは動けないとお聞きして救急隊は駆けつけました、病院に行きましょう」
Sさん「病院になんて行かない、こんなに元気だもの、大丈夫よ」
隊長「そうですか…大丈夫なのですか?」
Sさん「ええ、お陰様でこの年だって言うのにご飯も美味しく食べられて…」
隊長「バイタルは?」
隊員「問題ないです」
隊長「ふぅ…お嫁さん、よろしいでしょうか?ご本人がこのようにどこも悪くない、元気だと訴えるとなると…ご本人に受診の意志がないとなると搬送する訳にはいかないのです」
嫁「でも、おしっこを漏らしているじゃないですか!」
隊長「Sさんは認知症があるのですよね?オムツをつけている、元々ご自分でできる方なのですか?」
嫁「それは…いつもは…できる事もあるのですけど…」
隊長「できないで、漏らしてしまうこともある?だからオムツを履いている?」
嫁「そうです…」
隊長「どちらにしてもこのままでは可哀想だ、着替えを出してください、お嫁さんも我々と一緒に説得してください」
嫁「着替え…ああ…はい…」

お嫁さんからは介護に疲れ果てている様子が伺い知れる。救急隊はアンモニア臭とネグレクトの臭いを嗅ぎつけていました。傷病者が納得し病院に行くにしても行かないにしても、このままでは可哀想だと着替えを用意してもらいました。高齢とはいえ女性の下着を交換するのです。お嫁さんと協力して着替えの介助すはじめると突然Sさんは豹変するのでした。

隊長「Sさん、病院に行くかどうかは後にして、まずお着替えをしましょう」
機関員「救急隊でお手伝いしますよ、ねえSさん、病院に行きましょうよ」
嫁「ほらお義母さん、救急隊の方もやってくれるから着替えよう」
Sさん「触るんじゃないよ!私はどこにも行かないよ!」
隊長「そんなに大きな声を出さないで、ほら着替えましょう」
Sさん「どこにも行かない!触るんじゃないよ!」
嫁「私が何度も着替えようって言っているのにずっとこうなんです!もう嫌ぁ!」

そう言うとお嫁さんはどこかに行ってしまいました…。

機関員「ちょっと、お嫁さん、ねえ…」
隊長「ふぅ…確かにこれは大変だな…」
隊員「病院に行くかどうかは後にして着替えましょう、ね?このままでは気持ちが悪いでしょ?」
Sさん「そうね、悪いわね、ありがとうね」

Sさんはお嫁さんがとにかく気に入らないようで、救急隊にはそれなりに接するのです。認知症がありますが外面を繕うことは心得ているのでした。お嫁さんは病院への搬送を熱烈に希望している。本人は病院に行きたいないと訴えている。さて、どうしたものか…。

隊長「お嫁さん、着替えは済みました、一緒に説得を続けましょう、戻ってきて!」
嫁「…」

隊長の呼びかけでお嫁さんが戻ってきました。

隊長「ご本人に受診の意志がないと搬送できません、説得を続けましょう」
嫁「見て分かるでしょ?本人はボケてて何も分からないのだからM病院に行ってくだださい」
隊長「そうはいきませんよ、医師にも診てほしくないと訴えるなら、病院だって無理に診察することなんてできないのですから」
嫁「それは困ります、入院の準備もできました、もうどこでも良いから連れて行ってよ!」
隊長「M病院に限らず、入院になるかどうかは医師の診察後のご判断になります」
嫁「こんな状況で、入院できなかったらどうしろって言うんですか!」
隊長「…」

それを救急隊に求められても…。「どうしろって言うんですか!」はむしろ救急隊が言いたい…。お嫁さんは大きなバックを2つ用意しており身支度を整えていたのでした…。何としてでも入院させたい気が満々です。

夫「もういいじゃねえか、うるせえんだよ、どこでも良いから行けよ」
隊員「え”…」
隊長「どなたですか…?」

誰?隣の部屋から叫び声が聞こえてきました。

嫁「夫です…夫も具合が悪くて隣の部屋で寝ているんです」
隊長「ああ…そうなのですか」

このお嫁さんは具合の悪い夫と認知症の義母の面倒を一手にやっているのだそうです。確かに大変な状況だとは思います。しかし、これは医療が手を差し伸べる状況なのでしょうか?介護に助けを求める必要がありそうです。

隊長「救急隊は説得を続けます、それでもどうしてもご本人が行きたくないと言うなら強制的に連れて行くなんてことはできません、あなたも協力をお願いします」
嫁「分かりました…どうにかお願いします」

こんな感じでずっとゴタゴタ、活動にはかなりの時間がかかりました。ベテラン隊長の見事な説得で、Sさんは納得し病院に行くことになりました。どこでもいいから連れていけと叫んでいた夫は最後まで救急隊の前に現れることはありませんでした。

車内収容

かかりつけのM病院に連絡しました。

機関員「…という状況なのです」
看護師「ふ〜ん…で、どこが悪いの?」
機関員「いや…ご家族が言うには失禁して動けないのを診てほしいそうなのです」
看護師「ご本人は?」
機関員「元気だって言っています」
看護師「(失笑)困ったわね?」
機関員「ええ…困っています」
看護師「かかりつけですから当院で対応します、入院になるかどうかは先生のご判断だと良く言っておいて下さいね」
機関員「了解です、その辺りの話はお付き添いのお嫁さんには隊長からよく説明してあります」
看護師「理解してくれているかは別にして…でしょ?」
機関員「ええ…」

さすがはベテランの看護師です。カルテを見ながら過去の経過を斜め読みしているのでしょうが、こちらの状況をお見通しです。

病院到着

Sさん「おかげさまでこの年だっていうのに身体の調子も良くて、ご飯も美味しく食べられるんです」
医者「そうですか…それは良かった」

Sさんはやっぱり医師にも元気であるとアピールしている。

医師「ご本人は元気だと訴えていますが…」
嫁「元気じゃないです、もう本当に大変で…入院でお願いします」
医師「それはこれから検査などをしてから私が判断します、ただ、Sさんは元々こういう方ですからね…大丈夫なら帰ってもらいます」
嫁「そんな…大丈夫じゃ困るんです
医者「困ると言われても…異常がないのに入院させる訳にはいきません」
嫁「動けないのだから家に帰っても困ります、何でも良いので入院させて下さい」
医師「…」

お嫁さんは大きなバックを2つも持っており、誰の目にも入院させたくて仕方がないのは明らかです。

医師「Sさん、検査を受けていただきます」
Sさん「この年だって言うのにご飯も美味しくてね」
看護師「ご家族は待合室でお待ちください、またお声をかけますから」
嫁「先生、どうにか入院でお願いします」
医師「…」

看護師に促されてお嫁さんは家族待合室に向かいました。Sさんはレントゲンなどの検査へと向かいました。

隊長「先生、ありがとうございました」
医師「あの方、通院の時にもどうにか入院させてほしいと言って、ソーシャルワーカーが介護サービスにも繋げたのですけどね」
隊長「Sさんは介護サービスが肌に合わなくてダメだったみたいです」
医師「疲れてしまっているのは分かるけれど、医療の領域じゃないんだよね」

「体動困難 軽傷」

引揚途上

機関員「介護ノイローゼの重症だな」
隊員「ええ、間違いないですね」
隊長「あの家はもうとっくに限界だよ、ただ介護サービスを拒否するのではなぁ…」
隊員「あのおばあちゃんの様子だと、豹変して介護施設からも飛び出しそうですね」
隊長「実際そうだったみたいだよ、病院のソーシャルワーカーを介して介護サービスに繋いだのだけれどダメだったとさ」
機関員「気持ちは分かるけれど…SOSの出し先はやっぱり医療ではないよなぁ…」
隊長「ああ、救急車や病院の領域じゃない、やっぱり介護のプロに助けを求めないと…」
隊員「治療なのか、休養なのかは分からないけれど、むしろあのお嫁さんにこそ必要ですね」
機関員「言えてる、彼女こそ限界だ、可哀想だとは思うけれどオレたちの出る幕じゃないな」



119番通報する家族が正確に緊急度や重症度を評価し通報している訳などなく、医師から大丈夫と言われれば「良かったぁ…」安堵の溜息を漏らす。…とは限らない。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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