は?知らねえよ!

溜息の現場

老人ホームで介護士が高齢者に暴行、そんな報道にコメンテーターがけしからんと怒りをあらわにしています。確かにけしからん、でもどんな背景があるのだろう?あの現場には、そんな背景のひとかけらがあったのだろうか?

出場指令

「救急出場、〇町〇丁目…路上、高齢男性は転倒し受傷、通報は通行人男性」

との指令に救急隊は現場へと向かいました。出場途上に救急車の後部から隊員が119番通報電話に連絡を取りました。

(119コールバック)

隊員「もしもし、通報いただいた方でしょうか?そちらに向かっている救急隊です」
通報者「お願いします、お年寄りなのですが…今は歩道に座っています、膝と手のひらに怪我をしているみたいです」
隊員「そうですか、安全なところにいるのですね?その方の意識はしっかりしていますか?」
通報者「ええ、怪我は大したことはなさそうなのですが、どうも様子がおかしくて、多分徘徊していたんじゃないかな?警察を呼ぶか迷ったのですが、怪我をしているので…」
隊員「なるほど…まもなく到着できますので手を振って案内していただけますか?」
通報者「分かりました」
隊員「ご協力お願いします」

聴取できた内容を隊長と機関員に報告します。

隊長「話はできる状態なんだな?」
隊員「ええ、手のひらと膝のかすり傷程度みたいです、ただ、多分徘徊しているんじゃないかって」

現場到着

隊長「ご通報いただいた方ですね、こちらの方でしょうか?」
通報者「ええ、お願いします、おじいさん、救急車が来てくれたよ、手当てしてもらおう」
傷病者「手当?手当って何だ?」

傷病者は80歳くらいの男性、手のひらと膝に擦過傷がありましたが出血は完全に止まっていました。

隊長「こんにちは、どうされましたか?手と膝にお怪我をされていますよ」
傷病者「怪我って何だ?」

会話がどうもかみ合わない、どうやら認知症がありそうです。服装はいかにも部屋着のスウェットでした。確かに徘徊している可能性が高そうです。

隊長「ご存じの方ではないですよね?」
通報者「ええ、通りかかったらここに座り込んでいて、怪我をしているしどうも様子がおかしいので…」
隊長「ありがとうございました、あとは我々に任せてください」
通報者「お願いします」
機関員「ご協力ありがとうございました」
隊長「車内収容しよう、身元確認と処置をしよう」
隊員「了解です」

車内収容

隊長「お名前を教えてください?あなたはどちらの方ですか?」
傷病者「どちらって何だ?」

傷病者は名前も生年月日も答えられないのでした。隊長は傷病者から聴取を、隊員は傷病者の全身観察に当たりました。

隊員「お体を触ります、痛いところはありませんか?お洋服をめくります、他に怪我はありませんか?」
傷病者「別にどこも痛くなんてないぞ」
隊員「隊長、ここに名前と、これは…施設名です…特別養護老人ホームで…」

怪我は手掌と膝に擦過傷のみ、バイタルサインもまったく問題はありませんでした。ズボンには施設名、氏名、生年月日が記載されていました。

隊長「Mさん、あなたはMさんとおっしゃるのですか?」
傷病者「ああそうだ、Mだ、何で知っているんだ?」
隊長「お誕生日は昭和〇年〇月〇日で間違いありませんか?」
傷病者「誕生日?誕生日ねえ…もう忘れちゃったなぁ…」
隊長「そうですか、まあ間違いないだろ?連絡を取ろうか」
機関員「ここから800mってところですよ」
隊員「了解、かけてみます、既往症とお迎えの依頼ですね」
隊長「ああ、頼むよ、機関員は外科を探してくれ」
機関員「了解です」

施設連絡

隊員はMさんが入居していると思われる特別養護老人ホームの電話番号を調べ連絡を取りました。

隊員「もしもし、こちらは特別養護老人ホーム▲でしょうか?」
職員「はい、特別養護老人ホーム▲でございます」
隊員「良かった、私は救急隊の者です、そちらに入居されている方だと思うのですが、Mさんと言う方を扱っていまして、そちらの方で間違いありませんでしょうか?」
職員「Mさん?Mさんですか!いなくなってしまって、探していたところなんです、ちょっと待ってください、今、担当に代わりますので、Kさん、Kさ~ん、Mさん見つかったよ~」

良かった…、身元が判明した。これで既往症やかかりつけなど情報がそろいます。施設入居者なら治療後にも迎えに来てもらえる。これで選定が開始できる。

担当「電話…代わりました…」
隊員「救急隊の者です、今、そちらのMさんを扱っていまして、これから病院にお連れしたいのですが…」
担当「…」
隊員「もしもし?」
担当「は?知らねえよ!」
隊員「え?知らない?そちらの方ではないのですか?」
担当「ったく、冗談じゃねえよ!どれだけ迷惑かければ気が済むんだよ!」
隊員「え”…いや…Mさんはそちらの方で間違いありませんよね?」
担当「また勝手にいなくなってしまって…探していました…、クソっ、もうこれで何回目だって言うんだよ、その度、その度、その度…マジで冗談じゃねえ!」
隊員「いや…そうですか…過去にも何度も同じようなことがあるのですか?」
担当「どれだけ言っても勝手に…勝手に…マジでもう知らない、もう関係ねえから!」
隊員「怪我をされているので病院にお連れしたいのですが…」
担当「もう知らねえ!いつもいつもいつも…もう関係ない!」

イライラ…。施設の高齢者が出て行ってしまって怪我をしている。通行人が通報して救急隊が駆け付けている。連絡を取ったら知らねえと怒られる。救急隊のどこに非があるのでしょうか?

隊員「いや…でもそちらの利用者なのですよね?関係ないってことはないですよね?」
担当「今までどれだけ同じことを…もう知らない!関係ない!」
隊員「いや…それは困りますよ」
担当「あぁぁ…関係ない!もう知らない!」
隊員「はあ…そうですか…ちょっとお待ちくださいね…」

施設の担当者はキレてしまっている。まさにこう表現してふさわしい勢いで怒りまくっています。しかし、面識もない人に対して、こんな電話対応っていかがなものでしょうか。隊長に状況を説明しました。

隊長「それは困ったな…キレまくってるの?」
隊員「ええ…まさにそんな感じです、もう知らねえって…何度も同じようなことがあるみたいで…」
隊長「やれやれ…代わろうか」
隊員「お願いします…」

こういう時はやはりベテランの隊長の出番です。いつものように落ち着いたトーンで説得し、救急隊にも、傷病者にも、施設にとっても、より良い方向に導いてくれることでしょう。

隊長「もしもし、お電話代わりました、救急隊長をしております〇と申します、そちらのMさんなのですが、こらから病院にお連れしますので…」
担当「マジで知らねえ!どれだけ大変か分かりますか?冗談じゃないですよ!」

隊長が代わっても担当の怒りは収まることなく、もうそんな利用者は知らない、関係ないの一点張りでした。これまで似たようなことが幾度とあったなら、その度に多大な迷惑がこの人にはかかったことでしょう、それは想像できる。

隊長「これから医療機関を選定したいのですが、施設に入っている方と分かっているのにお迎えも何もないとなると…せめてご家族に連絡をしてはいただけませんか?」
担当「本当、どれだけ迷惑か、マジで知らない!冗談じゃない!」

この対応、言葉使いは社会人としてどうなのでしょうか…。どれだけ大変だったか分かるかって?それは分からない。だってあなたと会ったことなんてないもの…。あなたの部下でも子分でもないもの…。だからあなたにそんな風に言われる筋合いなんてないもの…。イライラをつのらせる隊員…。

しかし、既往症も分からない、施設職員や家族のお迎えも得られない、これでは選定が始められない。イライラする気持ちを抑えて、隊長はベテランらしい落ち着きで説得し活動を進める、と思ったら…。

隊長「そうですか…それではご協力はいただけないと言うことですね?」
担当「もう知りません、マジでもう関係ありません!」
隊長「分かりました、私は〇消防署の救急隊長で〇と申します、それでは失礼します」

ガチャ…。

え”、え”、え”…ええ~電話を切った。

隊員「え”…ちょっと…隊長、既往症は?お迎えは来てくれるんですか?」
隊長「いんや…嫌だって、もう知らねえって…」
隊員「いや…だって、それなら病院なんて簡単には決まらないじゃないですか」
隊長「まあそうだろうなぁ、緊急性はないんだ、焦らないで行こう、機関員は選定を始めてくれ、誰がお迎えに来てくれるかは分からないけど施設には連絡は取れているって」
機関員「了解です」

ダメだろ…これでは活動は前に進まない。いつものベテランの落ち着きはどうしたんだ?ひょっとして隊長も怒っている?…でも、活動中にイラつくような人ではない…。いったいどうしてしまったの?

機関員が医療機関を選定し数分後。

機関員「隊長、■病院が傷の対応はできるけど、お迎えは必要だって、そこは抑えてほしいって」
隊長「ああ、それで十分だ、施設と話がついたらまた連絡すると伝えておいて」
機関員「了解、そう言っときます」

だからダメだって…この活動はまさにそこが課題じゃないか…。

隊員「隊長、施設は対応しないって、もう知らないって言っていたじゃないですか…」
隊長「ああ、そうだな、まあ待ってろって、そろそろだろうから」
隊員「そろそろ?」
隊長「Mさん、病院が決まったらすぐに向かうからね、大丈夫ですね?」
Mさん「病院?何が?」

数分後、救急隊の携帯電話が鳴りました。

機関員「おっと、来たみたいですよ」
隊長「ああ、そうだな」
機関員「どうも~、お疲れ様です」

いったいどこから?

機関員「ええ、今、扱っているところです、そろそろだと思っていたところですよ、ええ、特別養護老人ホームの、ええ、担当者の…Kさんね、はい、はい…こちらから連絡しますから、あとは任せてください、はい、はい、了解で~す」
隊長「了解、オレがかけるよ」

電話の主は私たちの消防署、救急隊宛に至急連絡が取りたいとKさんと言う方から連絡があったという内容でした。

隊長「もしもし、特別養護老人ホーム▲でよろしいでしょうか?私は救急隊の者です、Kさんからご連絡をいただいたので」
担当「あ!先ほどの…Kです、すみません…あの…病院は決まりましたでしょうか?」
隊長「それがですね…傷を診てくれる病院はあるのですが、ご高齢の方がお一人ですし、誰か連絡はつかないのかと言われていまして…困っているところなのです、こちらで連絡しますのでMさんのご家族の連絡先を教えてはいただけませんか?」
担当「いや…私が行きます、私が行きますので…」
隊長「そうですか、来ていただけるのですか、それは良かったです」
担当「はい…行きます、あの…すみませんでした…」
隊長「分かりました、それでは病院が決まりましたらすぐに連絡しますので、Mさんのご病気やかかりつけなど教えていただけますか?」
担当「はい、分かりました…」

先ほど連絡した病院に診てもらえることになりました。

病院到着

「右膝挫傷 軽症」


引揚途上

隊員「どうしちゃったのかって思いましたよ…」
隊長「焦らずに行こうって言っただろ?沸騰している人に正論をぶつけても火に油を注ぐだけだよ」
機関員「俺たちもどんなに不適切な要請であったとしても、傷病者を投げ出す訳になんていかないだろ?同じことだよ」
隊長「人間の怒りの感情って数分の持続が限界らしい、彼も社会人だ、無責任ではいられないだろ?電話が切れた後に考えることになるだろ?」
機関員「他の職員も見つかって良かった、で?Mさんはどうしたんだってなるだろうしな」
隊員「そうか…確かに…下手すれば…いや、下手をすればじゃないな…大問題になる」
機関員「ああ、施設利用者が怪我をしているからって救急隊から連絡があったのに関係ねえ、そんなことはまかり通らない、我に返って頭を冷やしたのさ」
隊員「なるほど…そういうことか…だからわざわざ消防署名を名乗ったんだ」
隊長「押してダメなら引いてみろってやつだよ」

戦わずして勝つ、いつだか聞いた孫氏の兵法の話みたいだ。これがベテランの味か…。さすが…キャリアの差に脱帽です。

隊員「なるほど…そんな意図があったのですね…そうか…」
機関員「グイグイ押してばかりじゃダメなんだぜ?時に引くところがあるから出るところが際立つってことだよな」
隊員「そういうことか、勉強になりました…」
隊長「そうそう、だからガツガツしている消防士はモテないんだよ」
機関員「要はスマートじゃないんだよ、押してばかりはダサいんだぜ?」
隊員「モテない?ダサい?」
隊長「だから合コンもスベるの、だから女の子が引いちゃうの、分かる?」
機関員「ねえ?そこ、分かる?分かってる?」
隊長・機関員「あはははははは~」
隊員「な、な、な…」

何で知ってるの?…って、うるせえよ、おやじ共…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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