ふぅ、間に合った

溜息の現場

救急車は緊急事態の傷病者を一刻も早く病院に搬送することが使命です。だから緊急走行が許され、一般車両のドライバーたちは道を譲ってくれるのです。病院が遠ければ、医師引継ぎまでの時間は長くなる訳で、それは傷病者のリスクです。だから原則、医療機関は現場からの近くから順に選定します。

緊急事態の判断は、119番する要請者に委ねられており、息をしていない、出血が酷い、そんな誰もがそう思う場合もあれば…

出場指令

この日は深夜の出場は1件、珍しく仮眠が摂れていました。交替まであと1時間を切った朝の7時代の出場指令…一番泣ける時間の要請でした。

「救急出場、〇町〇丁目…○駅北口交番に急病、女性は腹痛、歩行できないもの、通報は警察官から」

との内容でした。

現場到着

交番の前には警察官に付き添われ小奇麗にした服装にハンドバックを持った初老の女性が立っていました。歩けないとの通報内容でしたが立って救急車を待っていました。どうやら歩けないと言うことはなさそうです。

隊長「救急隊です、そちらの方ですか?」
警察官「はい、こちらの方です、お願いします」
隊長「おはようございます救急隊です、ご自身で救急車の乗ることはできますか?」
傷病者「ええ、それくらいなら歩けそうです」
隊員「私がお手伝いしますから、どうぞこちらへ」
傷病者「急いでここにお願いします」

傷病者が持っていたのはカード、病院の診察券です。隊員が傷病者に付き添い救急車内へ、隊長は警察官から申し送りを受けることになりました。

車内収容

傷病者は50代の女性でJさん、腹痛がひどくなり○駅で途中下車し、交番に救急車を呼んでほしいと助けを求めたとのことでした。

Jさん「D病院が診てくれますからとりあえず向かってもらえますか?」
隊員「いやいや、Jさん、痛い部位も状況も分からない、血圧などのバイタルサインも分からないでは病院に連絡できませんよ」
Jさん「そう…それならとにかく急いでちょうだい」
隊員「分かりました…、お腹を触らせてもらいますよ、痛いのはここですか?押すと痛みますか?」
Jさん「そこは大丈夫、痛たた、そこです、その辺が痛みます」
隊員「上腹部ですね、何か心当たりはありませんか?」
Jさん「ないです、大丈夫だからD病院に急いでください」

警察官から申し送りを受けた隊長が救急車に乗り込んできました。ここまでの観察結果と状況を報告する。Jさんのバイタルサインに特に問題はありませんでした。

Jさん「9時からD病院の予約が入っているんです、向かう途中だったのでD病院にお願いします」
隊長「D病院は何科でどんな病気を診てもらっているのですか?」
Jさん「循環器で不整脈を診てもらっています、K先生が9時から診察してくれることになっています、これが予約番号、とにかく急いで行ってください」

Jさんは不整脈の治療でD病院の循環器科にかかりつけ、他に病気はないとのことでした。診察券の他にも予約券を出してD病院に行きたいと訴えるのでした。

隊長「今は歩けなくなるくらい上腹部痛が痛いのですよね?D病院は循環器でのご予約ですよね?」
Jさん「いえ、もう大分落ち着いてきたしD病院で大丈夫です」
隊長「でも痛いのは上腹部ですよね?もう一度触りますよ、この辺が傷むのですよね?」
Jさん「いいえ、今は何かこの辺りが…」

Jさんが指差すのはみぞおちよりやや下…さっきは上腹部痛の…しかも激痛だと訴えていたのに…

隊長「お腹というよりは前胸部ですね」
Jさん「そうなの、心臓が心配だからD病院で診てもらいたいわ」
隊長「…でしたら、Jさん、なおさらD病院は遠すぎますよ、歩けなくなるほど胸が痛かったとなると、ここから一番近くの循環器が対応可能な病院にお連れすべきと思うのですが…」
Jさん「いいえ、ですから、今は大分落ち着いたのでD病院で大丈夫だから、とにかく急いでください」

う~ん、話が通じない…。隊長は根気よく救急隊は緊急車両であること、医療機関選定の原則は直近からであること、胸部が歩けなくなるほど痛い症状があったのなら、なおさら早く、一番近くの医療機関で判断を受けた方が良いこと…、説明をするのですが…。

Jさん「大丈夫、いいから、もう、早く~、D病院に早く行ってください、予約が取れているんだから!」
隊長「…」

Jさんはそわそわし、明らかにイライラをつのらせる様子で、とにかくD病院に急いで向かえと訴えるのでした。

隊長「ふぅ、分かりました…連絡してみましょう」
Jさん「ええ、お願いします、とにかく急いでください」
隊長「でもね、今のあなたの状況をお伝えして、先生が近くの病院で診てもらった方が良いって仰ったらそのようにしますからね?」
Jさん「ええ、それでけっこうです、絶対に診てくれるから大丈夫です」

朝の通勤時間、D病院はここから緊急走行しても30分以上はかかるでしょう。かかりつけでなければ対応できない難病の症状だと言うなら仕方がないでしょう。9時からの予約でこの時間に〇駅…そもそもこの痛みの訴え…本当だろうか…。

病院連絡

機関員「○救急隊です、そちらにかかりつけの方の受け入れ依頼です」
看護師「○救急隊?それってどこの救急隊?」

ここから20キロ近くも離れている病院です、看護師も聞いたことのない隊名のはずです。Jさんは連絡している最中もそわそわと落ち着かない、ちらちらと時計を見ています…。

看護師「分かりました当院のかかりつけの患者さんですね、K先生ならもう出勤されていると思いますから循環器科に繋ぎます、少しお待ち下さい」
機関員「はい、分かりました」

看護師から状況やバイタルサインなどを伝えてもらい、直接、主治医が電話に対応してくれることになりました。

医師「代わりました医師のKです、今のJさんの状態はどうなの?」
機関員「ご本人は今は大分落ち着いたと仰っていまして、今は激痛を訴えていると言うことはありません」
K医師「確かにバイタルサインは問題ないけど、さっきまでは激痛だったのでしょ?近くで診てもらうべきではないの?遠すぎるよね?」
機関員「先生…我々もそう説明したのですが、ご本人の強い希望でして…」
医師「ああ…なるほど、Jさんならそうなるか…どうしても私のところにって言っているの?」
機関員「ええ…まさに、どうしてもと仰っています」
医師「はぁぁ…まあ、そうでしょうね…どうぞ、30分くらいはかかるね?」
機関員「この時間だともっとかかるかもしれません」
医師「分かりました、では気を付けて」
機関員「ありがとうございます、それではこれから向かいます」

隊長「了解…Jさん、D病院で診ていただけるそうです」
Jさん「あら~良かったわぁ~」

朝の混雑した時間帯、一般車両なら1時間はかかるであろう道のりでしたが、40分ほどで到着することができました。搬送中もそわそわ落ち着かない傷病者、ちらちら時計を見ているのが見て取れました。

病院到着

救急車がD病院に到着しました。8時57分。

Jさん「ふぅ、間に合った…」
隊長「…」
隊員「…」
機関員「…」

「腹痛 軽症」

帰署途上

機関員「通院、通院だよ…まったく…」
隊長「搬送途上もずっと…時計を見てはそわそわしてたよ…」
隊員「あの時間に○駅、もう電車じゃ間に合わない時間ですね…」
機関員「ああ、D病院なら最寄り駅まで2回は乗り換えないといけないから絶対に間に合わない、それで閃いたんじゃないのか?そうだ、救急車でならって…」
隊長「引き継いだ主治医からも説得しでも通じない人だから仕方がないって言ってた…ずっとこんな大病院に来なくても、近所でも大丈夫と説明してもダメなんだってさ」
隊員「ええ、そうでしょうね、隊長があれだけ分かりやすく説明したって、いいからD病院だって…そもそも聞いていない様子でしたね…」
隊長「緊急事態の判断は119番する要請者に委ねられているからなぁ…」
機関員「予約に間に合わない、それが緊急事態か…」
隊長「帰ろう…もう交替時間はとっくに過ぎちゃったよ」
機関員「オレは今日は娘と約束があるんだ、早く帰りたいよ」

Jさんに救急車を通院に使ってやろう、予約に間に合わないから緊急事態だ、そんな意図があったかどうかは分かりません。でも、119番通報時点で要請場所にいたのなら、公共の乗り物では予約していた時間に間に合わないことは確かでした。

帰署途上、大渋滞…。今度はちらちら時計を見てはため息をつくのは機関員、お気の毒様です…。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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