溜息の現場
記念日は忘れてしまってもで紹介したAさんがこの日も1件目の出場でした。Aさんは酒を飲んでは気持ちが悪いと救急車を要請する、そんな事を1日に2度3度と続ける大常習者、医療機関からはブラックリストに載せられています。
ここ数ヶ月、いつもの駅前で彼をいったい何度扱ったでしょうか?この日も朝一件目の出場から酒臭いAさんを扱ったのでした。周辺の医療機関は診てくれないので、1件目から遠くの医療機関まで搬送することになったためもう昼になろうとしていました。
隊長「…やれやれ今月、これで何回目だ?」
隊員「さあ?昨日も扱ったって申し送りがありましたからね…」
機関員「今日も朝からあの酒臭さだもんな、まったくどうにかならないものかね…」
昨夜も深夜に救急要請し、病院からいつもの駅前に帰ってきて再び飲酒、また朝に救急要請に至っていたのでした。Aさんの救急要請の傾向は深夜から明け方にかけてが多いこと、夜から明け方にかけて酒を飲むためです。一晩中飲んでは病院に行き、また酒を飲むの繰り返しです。どうやら昼間は寝ていることが多いようです。
Aさんに始まったこの日の救急活動、いつものように激務が始まり、休憩も食事もまともに摂れないままに、いつの間にか日付が変わっていました。やっとひと段落したのは深夜、救急隊はもう祈るような気持ちです「お願いだ、もう出場なんてやめてくれ…頼むからもう許してくれ…」仮眠室に入った救急隊3名、倒れこむように横になりました。休めたのは1時間半ほど…、私たちの祈りも虚しく早朝の消防署に出場指令が鳴り響きました。
出場指令
「救急出場、○駅前交番に喧嘩傷害による怪我人、ホームレス同士の喧嘩、警察官扱い中」
くぅぅぅ…眠たい…フラフラの救急隊は消防署を飛び出しました。
隊長「駅前交番でホームレス…って言うと…またAじゃないだろうな?」
隊員「そうかもしれませんね、あの人の場合、1日2度3度の要請は珍しい事ではないですからね…」
ひょっとしてまたAさんではないのか?いや、○駅前交番からの要請でホームレス…となるとかなりの確率でAさんなのです。ふぅ、また病院が決まらないぞ…。
現場到着
Aさんならまたいつものようにたらふく酒を飲んで交番の警察官に囲まれているのでしょう。
…おや?いつもと様子が違うぞ?駅前交番には一人の警察官が座っておりその横に小柄な男性が座っていました。いつも扱っているのですぐに分かります、Aさんは身体がもっと大きいし40代、もっと若いのです。この現場はどうやらAさんとは関係がないようです。
昼間なら混雑している駅前も早朝はガラガラでした。救急車を駅前のロータリーに停車、資器材を傾向して交番に向かいます。
あれ?あっちは何だ?駅入り口で何やら騒いでいる人がいました。その人を取り囲むように警察官が数名、どうやらあの騒ぎのせいで交番には警察官が1名しかいないようです。その1名の警察官が私たちに向かって手を挙げました。
交番の警察官「どうもお疲れ様です、こちらです、お願いします」
隊長「はい、分かりました」
やはり私たちが扱う傷病者は交番にいる小柄な男性のようです。良かった…あっちの騒ぎとは関係なくて。
傷病者接触
警察官「どうもお疲れ様です」
隊長「お疲れ様です、喧嘩による怪我人とお聞きしているのですがこちらの方ですか?」
警察官「ええ、喧嘩と言っても一方的に殴られたようです、Eさん、救急隊の方が来てくれたよ、ひとまず病院で診てもらおうや」
Eさん「ああ、分かった」
Eさんは60代の男性でホームレスのEさん、時々この駅前で夜を明かすのだそうです。今日はこの駅前でホームレス仲間で酒を飲んでいたところ口論となり一方的に殴られてしまったとの事でした。
隊長「おはようございます、Eさん、受傷されているのはお顔だけですか?」
Eさん「ええ、ここだけです」
隊長「殴られたのは一発だけですか?他に転倒して頭を打ったとか、痛いところはありませんか?」
Eさん「殴られたのは一発だけ、痛いのは顔だけだよ」
隊長「そうですか分かりました」
Eさんの顔面は腫上がっていました。お酒をかなり飲んでいるようでしたが落ち着いており、警察官や救急隊に暴言を吐くような人ではありませんでした。意識もしっかりとしておりしっかりと歩ける状態でした。
隊長「それではEさん、救急車まで歩けますね?救急車の中でお怪我の処置をさせてください」
Eさん「ええ、大丈夫です」
隊員が介助しEさんは自力歩行で救急車まで向かうこととなりました。救急車に向かって歩き始めた救急隊とEさん、そして警察官
隊長「殴った相手というのは何者なのですか?」
警察官「それがですね…」
「コラー!こっちに来いコラァ~!」
何?何だ?まだ早朝で人もまばら、静かな駅前に何やら怒号が響き渡りました。駅入り口の先ほどの騒ぎの場所からです。男性が数人の警察官に取り囲まれ静止されていました。
数人の警察官「おい!A、お前いい加減にしろよ!」
Aさん「うるせえ!コラ!お前、逃げてるんじゃねえよコラァ!こっちに来いコラァ~!」
Eさん「ふん…」
スタスタと歩くEさん、これはひょっとして…
隊長「殴った相手っていうのは…あれですか?」
警察官「ええ…そうなんですよ…」
隊長「はぁぁ…今回は本人じゃなくて、加害者ってことですか?」
警察官「そうです…」
Eさんを殴り受傷させたのはAさんでした。いつものようにかなり酔っ払っており、そしてまたいつものように大騒ぎして警察官に囲まれているのでした。気に入らないからと殴って怪我をさせた訳か…はぁぁ、こりゃ少なくとも救急隊なんかより相当に元気だな…。
車内収容
しっかりとした足取りで救急車に乗り込んだEさん、昨夜から明け方までホームレス数人でこの駅前で酒を飲んでいたところ口論となり、突然、Aさんに殴られてしまったとのこと。ただ、すぐに騒ぎを聞きつけた警察官が駆けつけたたため殴られたのは一発、受傷部位は顔面だけでした。特にバイタルも問題はありませんでした。
隊長「そうですか、それでは特に大きなご病気もありませんね?救急隊でその怪我を診てくれる病院を探しますからね」
Eさん「ええ、お願いします」
救急車のサイドドアが開きました、顔を出したのは先ほどまでAさんの騒ぎに対応していた警察官でした。どうやらAさんは交番に連れて行かれたようで騒ぎは収まっていました。
警察官「病院は決まりましたか?」
隊長「いいえ、選定中です」
警察官「そうですか、決まったら搬送先を教えてください」
隊長「ええ、了解しました」
警察官「少しよろしいですか?」
隊長「どうぞ」
警察官は救急車に乗り込みEさんに話しかけ始めました。
警察官「Eさん、災難だったね?お怪我は大丈夫?」
Eさん「ああ、そんなにたいした怪我じゃないよ」
警察官「そう…でもずいぶん腫れているし殴られているのは間違いないからね、治療してもらった方がいいよ、これ訴えるよね?」
そりゃそうだ、人を殴って怪我をさせれば傷害事件、これは事件です。人を殴ってはいけません、怪我をさせてはいけません、ルールを破ればペナルティがある、こんな事は当たり前です。Aさんがしたことは許されることではありません、Eさんに痛い思いをさせ、そしてまたこうして警察官、救急隊を巻き込む騒ぎを起こしているのです。『逮捕だ逮捕!留置所にでも入って警察官に絞られれば少しはAさんも大人しくなるだろう』そんな風に思っていると…
Eさん「いや…オレは訴えないよ」
警察官「え…訴えない?訴えないの?」
Eさん「ああ、訴えない、オレはただ顔は痛いから治療はしてもらいたいけど訴えたりはしない」
警察官「いや…でも…訴えないならあなたに怪我をさせたあの人はこのままだよ、それでいいの?」
Eさん「じゃあオレが訴えるって言ったら、アイツは治療費を払うことになるのか?アイツは金なんて持っていないぜ?」
警察官「う~ん…治療費だとか、そういう話は私たちが介入することではないから何とも言えませんが…確かにお金は持ってはいないとは思うけど…」
Eさん「オレはアイツのことをよく知っているのよ、オレが訴えて刑務所に入ることになっても別にアイツは痛くも何ともないよ、治療費が貰えるのなら訴えるけどアイツが払えないのもよく知っている、訴えるなんてそんな意味のないことはしない」
Eさんはキッパリ訴えないと宣言したのでした。
警察官「…そう、分かりました、それではEさん、お大事にしてね」
Eさん「ああ」
はぁぁ…訴えないのか、と言うことはこれは事件にはならずAさんはまたこの駅前を根城にして酒を飲み続ける…ということか…。
病院到着
「顔面打撲 軽症」
帰署途上
隊長「Eさんが訴えてくれれば、警察官が連れて行くだろうから少しの間は静かになるかと思ったのにな…」
隊員「本当ですよ、それなのに訴えないって言うんだもんな…」
隊長「でもEさんの言う通りなのだろうな?一緒にいるホームレス仲間が言うんだから間違いないのだろう、金を払ってもらえる訳じゃない、別に逮捕されてもAさんにとってはそれは問題じゃない、確かに訴えたって意味はないのかもしれない…」
機関員「でも逮捕されれば酒が飲めなくなる訳だから本人には痛手なんじゃないかな?」
隊員「確かに…でも酒を飲まない規則正しい生活が送れる訳だから実はむしろメリットの方が大きいかもしれませんよ」
隊長「それもそうだなぁ…まっとうな社会人なら逮捕されるなんて世の中がひっくり返るくらいの出来事なのにな…」
機関員「はぁぁ…何て言うかさ…いくら腹が立つことがあってもグっと我慢して、世の中の人がみんなそうやっているって言うのに…あのAさんの方がよっぽど自由な気がするのはオレだけかな?」
隊員「いや…オレもそんな気がしますよ」
機関員「家族もいるし、家のローンもあるし…だからこんな時間に、こんな目にあっても我慢しているのだけど…なんかオレ…バカバカしくなってきちゃったよ」
隊長「おいおい、ちょっと病んできているんじゃないのか?」
機関員「そうなんですよオレ…最近、あのAさんが羨ましくってね…」
隊員「ははは、その気持ち分かりますよ、怖いものなし、ある意味最強ですからね」
隊長「そうだなぁ…」
隊員「病んでますかね?オレたち…」
隊長「ああ病んでいるね、でもオレたちだけじゃないな、この時間のこの辺りの救急隊はみんな病んでるよ、みんなボロボロだ」
機関員「少なくとも今のオレたちには人をぶん殴るほどの元気なんてありゃしないよな?」
隊員「ええ、そんなエネルギー残っちゃいませんよ、もうヘトヘトで…」
消防署に戻るともう相番が出勤しており交替の時間が迫っていました。深夜の出場も堪えますが、交替間際の出場も非常に堪えます。『お願いだ、もう許してくれ、どうにか出場がかかりませんように』この日はこの祈りが通じたのかこのまま交替の時間を迎えることができました。交替すれば出場がありません、落ち着いて机に向かって仕事ができるのです。
交替後はじめての出場指令が鳴り響きました。
「救急出場、○駅前に急病人、Aと名乗る男性は気分が悪いもの、公衆電話からの通報」
隊長「何だって!はぁぁ…ま~たAだよ…」
隊員「ついさっき人を殴って怪我をさせるぐらい元気だったって言うのに…」
機関員「ほら…警察官に取り囲まれてむしゃくしゃしたんじゃないの?だからあの後、また酒を飲んだんだよきっと…」
救急車が消防署の車庫を飛び出していきました。昨日に引き続き今日もこの救急隊の1日はAさんを扱うことから始まったのでした。
機関員「ははは…はぁぁ…羨ましいよなぁ」
隊員「ははは…はぁぁ…本当ですね…」
隊長「おいおい…早く片付けて帰ろう…こっちがいかれちまう…」
Aさんのように1日に複数回救急要請するような常習者は実は珍しくはありません。常習者の対応については全国の消防本部でも課題になっており、なかなか解決には至らない難しい問題です。しかし、現場の救急隊ならみんな知っているのです、こんなことをこのままにしてはいけない。
だって、消防官になった時に一部の奉仕者にならないって誓ったじゃないか、全体の奉仕者になるって宣言したじゃないか、1日に2度3度と同じ人のところに駆け付けることは全体の奉仕者がやることなのでしょうか?難しい問題だからって腰が引けていてはいけない…でも現実はね…。
このAさんにまつわる話はさらに続きがあって…。帰ってきた常習者につづく。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
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