記念日は忘れてしまっても…

溜息の現場

彼は救急隊にはもちろんのこと医療機関にも超有名人です。私たちには”常習者”と呼ばれ、周辺医療機関には”ブラック”と呼ばれています。ブラックとは…


出場指令

町がうっすらと明るくなり始めた早朝、消防署に出場指令が鳴り響きました。

「救急出場、○町○丁、○駅前交番に急病人、Aさん男性は気分が悪いもの、通報は○駅前の公衆電話、本人から 」

との内容でした。今夜も深夜まで出ずっぱり、やっと1時間ほど横になれたっていうのに…仮眠室を飛び出し救急隊員たちは救急車に向かいます。

隊長「Aだ…まただよ…」
機関員「やれやれ…これで2回目ですよ…、あの後、また酒を飲んだんでしょ?また長期戦ですよ、これは…」

昨夜、○駅前からAさんというホームレスを搬送していました。彼は常習者、この駅周辺を根城としており、いつも酒を飲んでは気持ちが悪いと救急車を呼びます。医療機関で時には点滴などの治療を受けて、また○駅前に戻ってきて再び酒を飲み救急車を呼ぶ、そんなことを繰り返しているのでした。

昨夜もいつものようにたらふく酒を飲んだAさんをずいぶんと遠くの医療機関へと搬送していたのでした。○駅前は私たち救急隊の受け持ち区域です。私たちが最も彼を扱っていると思いますが、周辺の救急隊で彼を知らない者などいません。

ここ最近は特に酷く1日に2回は救急要請をしていました。このままでは年間で数百件の救急要請を繰り返す事になるであろう大常習者です。そんな有名人を知っているのは私たち救急隊だけではなく…


現場到着

救急隊は指令先の○駅前のロータリーに停車、この辺りでは最も大きな駅である○駅、昼間はたいへんな人ごみとなるこの辺りも、始発が動き始めたばかりのこの時間はまだ人もまばらでした。

機関員「ほらやっぱり…、交番の前に座っていますよ」
隊長「間違いないな…ま~た、Aだよ…」

つい先ほど搬送したばかりのAさんです、もちろん服装も同じですぐに分かりました。交番の前に座り込み警察官と何やら口論をしていました。私たちが関わることのないトラブルも多いようで、この交番の警察官も彼を知らない人などいないのでした。


傷病者接触

交番の前には数人の警察官、腕組みし難しい顔の警察官がAさんに話しかけていました。Aさんは体格の良い40代男性です。

警察官「Aさん、ほら救急隊が来てくれたよ、あんたもういい加減にしなよ!警察官も救急隊もあんたのためにいる訳じゃないんだよ!」
Aさん「気持ちが悪いんだよ!仕方がねえじゃねえかこの野郎!おえ…気持ち悪い…」

これもいつものこと…。警察官を相手に口論できるほどに元気は元気なのでした。ただ、いつもかななりの酒を飲んでいるので気持ちが悪いというのは本当です。隊長が警察官に声をかけます。

隊長「どうもお疲れ様です、救急要請がありましてね…またAさんですよね?」
警察官「ええ…どうもお疲れ様です…またなのですよ…、交番に気持ちが悪いから救急車を呼べって来ましてね…、昨夜も来ていただいたばかりじゃないですか?こちらでもいい加減にしろと言ったんですけどね…そうしたら自分で公衆電話から…申し訳ありませんね」
隊長「いいえ…お疲れ様です」

隊員がAさんに声をかけます。

隊員「どうもAさん、また気持ちが悪くなりましたか?先ほど私たちで○病院にお連れしたばかりじゃないですか?先生には飲み過ぎだって言われていたじゃないですか、あの後どうされたんですか?」
Aさん「…点滴を打ってもらって、さっき帰ってきたんだ」
隊員「そうですか、点滴を打ってもらって大分良くなられたんじゃないですか?」
Aさん「ああ…」
隊員「それで…良くなったからまた飲んだのですか?」
Aさん「そうだ…」
隊員「ふぅ…それでまた気持ちが悪くなったの?」
Aさん「ああ、気持ち悪い…」
警察官「お前、いい加減にしろよ!この人たちは暇じゃないんだよ!命の関わる人を助けるためにいるんだ、分かっているのか!?」
Aさん「うるせえな!気持ちが悪いって言っているだろうが!」

はぁぁ…元気だなぁ…

隊長「分かったよAさん、詳しい話は救急車の中で聞かせてよ、ほら行こう」
警察官「ほら立て!歩けるんだから甘ったれてんじゃねえ!ほら!」
Aさん「なんだとこの野郎!」

警察官2名に抱えられたAさん、ふらふらとしていましたが自身で歩き救急車に乗り込みました。まさに千鳥足、あの後またどれだけ飲んだのでしょうか?

隊員「Aさん、後ろのドアが閉まりますよ、もう少し奥まで入ってください、閉めますよ」

バタン、救急車のリアドアを閉めた。

警察官「本当にいつもすみません、お疲れ様です、はぁぁ…」
隊員「本当、お互い大変ですね、お疲れ様です、はぁぁ…」


車内収容

隊長「えっと、Aさんは名前も誕生日もこれで間違いなかったよね?」
Aさん「ああそうだ」

いつだか隊長がこぼしていました。数年前に一緒に勤務した同僚の名前がなかなか出てこない事があるっていうのに、常習者の年齢、さらに名前はフルネームで覚えてしまうと…。このAさんに関しては誕生日まで覚えてしまいました…。Aさんは特にバイタルサインにも問題はありませんでした。呼気からはいつものように相当のアルコール臭が漂っていました。

隊長「Aさん、あれからどうやってここまで帰ってきたの?電車もバスも動いていない時間だったでしょ?」
Aさん「歩いて帰ってきたんだ、3時間近くかかった」
隊長「そう…、確かに歩いたら3時間くらいかかるね、それでまたここで仲間と酒を飲んだの?」
Aさん「ああ、たくさん歩いたから喉が渇いたんだ」

Aさんはいつもこうなのです。要請理由はいつも飲みすぎての気持ちの悪さ、もうこれまで何十回も彼を扱ってきましたが、一度たりとも酒の臭いがしなかったことはありません。つい先ほどまで3時間も深夜の町を歩いていた人です。40代で身体も大きく基本的には元気なのです。

隊長「ねえAさん、いつもじゃない、こうやって飲みすぎて病院に行って…少しお酒を控えることはできない?気持ちが悪くて救急車を呼ばなくちゃならないほど飲んでも、あなただって楽しくはないでしょ?」
Aさん「気持ちが悪いんだ、仕方がないだろ!いいから早く病院に行ってくれ!帰りがたいへんだから今度は近くの病院にしてくれよ」
隊長「ふぅ…近くの病院なんて無理なのは、あなたが一番よく知っているじゃない?だからさっきもあんなに遠くの病院に行く事になったのでしょ?さっき行った○病院ではトラブルにならなかった?○病院はまたあなたを診察してくれますか?」
Aさん「…」
隊長「さっき診てもらったばかりで申し訳ないけどって、○病院に連絡してくれ」
機関員「了解です…さてさて、診てくれるかな…」
隊長「ねえ、Aさん、先ほど行った○病院に連絡してみるよ、○病院は診てくれるの?ちゃんと約束守って治療を受けたよね?」
Aさん「…」

何も応えないAさん、こりゃまた何かトラブったな…。


病院連絡

機関員「おはようございます、○病院ですね、救急隊です」
看護師「はい、どうもお疲れ様です」
機関員「患者さんの受け入れ要請です、先ほど私たちの隊でお連れした方です、Aさんという方なのですが、○駅にいまして…」
看護師「ダメです!Aさんに関しては当院ではもう受け入れることはできません」

看護師は名前を聞いたとたんに話を遮り、受け入れることはできないと強い口調で言いました。

機関員「あぁ…やっぱり…、何か問題がありましたか?」
看護師「ええ、点滴を終えたら帰っていただく約束になっていたのに、こんな時間じゃ帰れないって、朝まで入院させろって暴言を吐いたり暴れたり…大騒ぎしましてね、私も先生も大変だったんです、もう当院でAさんを診察することはできません」
機関員「はぁぁ、そうですか、…それではもうブラックですね?」
看護師「ええ、そうです」
機関員「分かりました、ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした、他を当たってみます」
看護師「お願いします、大変ね…」
機関員「ええ、どうも…またお願いします」
隊長「ダメだって?」
機関員「はい…、ねえAさん、○病院でも先生や看護師さんにずいぶん迷惑かけたんですって?もう○病院も診てくれないって言われましたよ」
Aさん「オレは朝までいられれば良かったんだ、朝になったら帰るって言ったのにあいつらダメだって言うから」
隊長「いつも入院するかどうかは先生の判断だって言っているじゃない、さっきも応急処置をしてもらったら病院に迷惑をかけるようなことはしないって約束したじゃない?」
Aさん「ふん、あんな病院、オレだって行きたくねえよ、他にしてくれ」

ダメだこりゃ、話にならない…。

隊長「はぁぁ…さっきも聞いたけどもう一度、教えてくれる?診てくれない病院を…A病院はダメだろ?B病院、C病院、D病院、E病院、それからF病院もダメだったよね?」

医療機関からは”ブラック”と呼ばれるAさん、ブラックとはブラックリストのこと。医療機関で何らかのトラブルを起こし診てもらえない状態になっている人のことです。診てくれないことが分かっている医療機関に連絡しても非効率です。Aさんは自分のことを診てくれない医療機関を教えてくれました。

Aさん「G病院、H病院、I病院、J病院、K病院それから…L病院もそうだ、それから…」
隊長「Aさん、R病院も診てくれないんじゃなかったっけ?」
Aさん「そうだR病院もダメだ、それから…」

信じられない…挙げられた医療機関は20を超えていました。その中にはとてもじゃないですが歩いて帰ってこられるはずのない医療機関も含まれていました。このリスト以外の医療機関を選定…と、すごい!まさにこの町、隣の町、そのまた隣の町の医療機関は全滅です。隣の隣のさらに隣の町と遠くから選定を開始することとなりました。この間、この町の救急隊はこの町を守ることができません。

こんな早朝、医療機関だってスタッフが手薄な時間帯、トラブルを起こすことが約束されているようなAさんを受け入れてくれる医療機関を選定するのは至難の業です。何十件選定したでしょうか?途方もない時間をかけてずいぶんと遠くまで搬送することとなりました…。


病院到着


「急性アルコール中毒 軽症」


帰署途上

もう町は完全に朝、出勤や通学に急ぐ人たちが町には溢れていました。

機関員「本当どうにかならないものかなぁ…」
隊長「どうにもならないよな…、オレ達は要請されれば何があっても駆けつけなくちゃならないからな…、本人が受診を希望すれば搬送する以外に道はないよ、まさにやりたい放題だ」
機関員「今月だけで何回扱った?」
隊員「さあ?もう分かりませんよ、今日だけで2回目ですからね」
隊長「もうオレなんてあの人の名前も誕生日まで覚えちゃったよ…」
隊員「オレもです…」
機関員「オレさ…昔から誕生日とか記念日とか全く覚えられないんだよ…今年も結婚記念日を忘れてて…この前なんて娘の誕生日も言われるまで忘れててさ…妻も娘もドン引きだよ…」
隊長「ふふふ…なのにAさんの誕生日は覚えちゃったって?」
機関員「そう…昭和○年○月○日4×歳…オレより年下ですよ…まったく…」
隊員「あれだけ酒を飲んで一晩中歩けて、一晩中休めない救急隊や医者、看護師なんかよりずっと元気ですよね?」
隊長「まったくだ…」

救急隊が119番通報を受けた場合には何があっても駆け付けます。どんなにもその内容が酷い不適切利用であったとしても救急隊は搬送しなければなりません。それは行きつくところ誰しもに人権があるからです。医療を受けることは守られるべき基本的人権なのです。

一方で、医療機関に勤める医師や看護師、スタッフにも暴言や暴力を受けない権利があります。院内での暴力、暴言に対して毅然とした態度で対応し、拒否することができる。今もまだ泣き寝入りが多いと聞きますが、どの医療機関も暴言・暴力は絶対に許さない、当然の姿勢です。

で、この狭間にいる救急隊…。暴言や暴力、問題行動を起こすことが約束されているような傷病者…どうしたら良いの?ブラックな人たちに一晩中振り回される救急隊…今夜も食事も休憩もまともになかった…。

隊長「やれやれ…また朝まで出ずっぱりだったな…事務処理が溜まりに溜まっちまった…」
機関員「昼までにはどうにか帰りましょう…」
隊長「そうだな…ろくな休憩なしで24時間働いて、さらに昼間まで?ブラックはこっちもだな?」
機関員「仕方ないですよ…救急隊に人権なんてないんだから…」

え”…え”…そうなの?


Aさんとのお付き合いは長らく続くこととなりました。オレは訴えないよにつづく。

119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。

すべては救命のために

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