溜息の現場
救急隊は生命の関わるような一大事の際に駆けつける緊急車両です。皆さんはそんな一大事をこれまで何度経験したでしょうか?1回2回?そんな機会はこれまで一度もない方も多いはずです。ほとんどの人たちが救急隊との出会いなんて一期一会のはずなのですが…。
出場指令
「救急出場、⚪︎町⚪︎丁目、A方、高齢の女性は下腿部の痛み、動けないもの、通報は女性」
との指令でした。119番通報のあった電話に連絡しましたが応答はありませんでした。
現場到着
指令先は昭和に建てたと思われる古い一戸建てでした。玄関前に救急車を停車すると40代くらいの女性が案内に来ました。彼女が通報者でしょう。
隊長「救急隊です、ご通報いただいた方でしょうか?」
通報者「すみません、よろしくお願いします、おばあさんが足が痛くて立てないと言うので…」
隊長「あなたは?娘さんですか?」
通報者「いいえ、家族ではないです、詳しいことは分かりません…」
女性の案内でドアを開けると玄関部分の廊下に傷病者は座り込んでいました。傷病者は80代のAさん、この家で一人暮らしをしている方でした。
隊長「こんにちはAさん、足が痛くて立てないのですって?どうされましたか?」
Aさん「そうなのよ〜、もう痛くて…左股関節の脱臼なの、間違いないです」
隊長「脱臼?何度か同じことがあるのですね?間違いないですか?」
Aさん「間違いないです、大腿骨骨折をやったから脱臼しやすくなっているみたいなのよ、先月も救急車のお世話になったの」
隊長「そうですか、痛いところをよく見せていただいて、血圧なども測らせて下さい」
Aさん「T病院に行ってちょうだい、T病院ならすぐに診てくれることになっているから」
隊長「なるほど、T病院がかかりつけなのですね、まず痛いところをよく見せていただいて…」
Aさん「ここまでベット(メインストレッチャー)は入らないから、椅子になるやつ(サブストレッチャー)を持ってきてちょうだい」
隊長「はあ、そうですか…」
Aさんは数年前に大腿骨骨折をしておりT病院で手術を受けている方でした。大腿骨骨折は高齢者に多い骨折で、術後には脱臼が起こりやすくなります。今日は転倒などの思い当たるきっかけはなく、椅子から立ち上がろうとした際に手術歴のある左股関節が痛み、歩けなくなったとのことでした。過去に何度か同じことがあり、いつも脱臼だったとのことでした。痛みの部位も性質も過去と全く同じなので間違いないと訴えています。
隊長「椅子に座れるのですか?」
Aさん「痛いけれどベッドは入らないから、それで行くしかないでしょ?その前にトイレに行かせてちょうだい、病院ではなかなか行けないから今のうちに行っておかないといけないわ」
隊長「肩を貸せば立てるのかな?」
Aさん「そうね、あなたとあなたで両脇から支えてちょうだい」
隊員「はぁ、はい…」
機関員「はい…分かりました」
隊員と機関員が両脇から肩を貸して持ち上げ、トイレまで連れて行きました。
Aさん「あとは大丈夫よ、痛いけどズボンは自分で降ろせるから、T病院に連絡してちょうだい」
隊長「いや…Aさん…バイタルサインを測らせてもらわないと…」
機関員「ふぅ…サブストレッチャーを取って来ます」
機関員はAさんご指定のサブストレッチャーを取りに向かいました。トイレのドア越しに指示が飛んだ。
Aさん「終わったわ〜、また肩を貸してちょうだい〜」
隊員「はい…ドア開けますよ」
椅子型に組んだサブストレッチャーにAさんを座らせバイタルサインを測定します。
隊員「Aさん指を貸してください、この機械を付けさせてもらいます」
Aさん「ああハサミね(パルスオキスメーターのこと)私はいつも97くらいよ」
隊員「ああ…そうなのですね…」
計測したサチュレーションの数値は見事に97%、お見事です…。やれやれ…このおばあちゃんは相当に救急車を使い慣れています。バイタルサインには問題はありませんでした。
隊長「先月にも同じところ脱臼したのですよね?その時も救急車でT病院に行ったのですか?」
Aさん「そうなの、これで何度目かしら?その度に救急車で連れて行ってもらうのよ〜嫌になっちゃう」
機関員「火の元、戸締りは大丈夫ですか?」
Aさん「ああそうね、確認してちょうだい、2階の窓が開いているはずだわ」
機関員「ああ、分かりました…」
指示された機関員は戸締り、火の元を確認しました。サブストレッチャーに乗ったAさんは隊長を差し置いて隊員と機関員にまだまだ指示を飛ばします。
Aさん「帰りにないと困っちゃうわ、杖と靴を持ってきてちょうだい」
隊員「はい、杖はあの黒いやつ、靴はこのベージュのやつで良いですか?」
Aさん「靴はそっちのにしてちょうだい、お薬手帳はそこにあるわ」
機関員「こちらの引き出しですか?」
Aさん「違う、もう一つ下の引き出しよ」
隊長「…」
何でもおっしゃってください閣下、指示を飛ばすAさんに機関員は苦笑している。さらにAさんは隊長にも指示を飛ばすのでした。
Aさん「これが玄関の鍵よ、戸締りしてちょうだい」
隊長「はい…承知いたしました…」
さらにAさんの指示は通報者の女性にも飛ぶのでした。
Aさん「そこの扉を開けるとガスの元栓があるから閉めてちょうだい」
通報者「はい…この扉ですね?」
Aさん「そこのハンドバックを持っていけば大丈夫だわ」
通報者「この茶色のハンドバックですね?」
Aさん「そうよ、それそれ」
車内収容
かかりつけのT病院に連絡すると多くの患者さんに対応中であるため、かなり時間を待たせることになるかもしれないとのことでした。
機関員「ご希望のT病院はこのような回答なのですが…」
Aさん「大丈夫、大丈夫、3時間でも4時間でも待ちますから、行ってちょうだい」
機関員「大丈夫だとおっしゃっています」
看護師「でも本当に相当に混んでいる状態で1時間以上も待たせることになりますよ」
機関員「ご本人は3時間でも4時間でも待てると言っています」
看護師「ふぅ…だったら全く緊急じゃないじゃない…」
機関員「はぁ…そうなんですよね…」
看護師「分かりました、どうぞいらして下さい…」
機関員「ありがとうございます、よろしくお願いします」
病院到着
T病院に到着すると、確かに患者で溢れていました。診察まで時間がかかるのでレントゲン室に搬送してほしいと指示がありました。レントゲン室の検査台にAさんを移した。
Aさん「荷物はこのハンドバックと杖よ、預かってちょうだい」
レントゲン技師「ああ…はい、分かりました」
隊員「それではAさん、お大事に」
機関員「救急隊は引き揚げます」
Aさん「ありがとう、助かったわ、またお願いしま〜す!」
隊員「はぁ…どうも…」
機関員「…」
「左股関節脱臼疑い 軽傷」
引揚途上
隊長「いやいや…ちょうだいばあちゃん…凄かったな~」
機関員「たくましい…オレはもう誰が隊長なのか分からなくなっちゃったよ」
隊員「はい、指示が的確で明確でした」
隊長「オレも何十年かぶりに隊員の気持ちになったよ、彼女から見ればオレなんて小僧だ」
隊員「ところであの通報者の女性は友達だったのですかね?何を聞いてもよく分からないって感じでしたけど?」
機関員「オレも不思議に思っていたんだ、最初はヘルパーさんかと思ったのだけど、何も分からない様子だった」
隊長「それが…彼女は宗教だか政党だかの勧誘員なのだって…」
隊員「え”…つまり初対面ってこと?だって彼女のことも顎で使っていましたけど…」
隊長「ああ、動けないところにたまたま訪ねて来たのだとさ、たぶんあの感じで119番通報しろと指示したのだろう」
機関員「はは…そりゃますます凄えや…長生きするだろうな〜」
隊長「ああ、間違いないな、オレの方が先にお迎えが来ると思う」
見ず知らずの初対面の人に通報しろ、ガスの栓閉めろと指示していたのか…。本当にたくましい。
Aさんは一人暮らしで確かに動けない状態でした。救急要請しても仕方がない状況ではありましたが、何時間でも待てると即答し、緊急性に関しては相当に疑問があります。救急車は一生に一度あるかないかの緊急事態に駆けつけるものです。救急隊と関わるなんて一期一会のことのはずです。事前にまたお願いしておくものではないー。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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