溜息の現場
本当に救急隊を必要とする緊迫の現場には只ならぬ雰囲気が漂います。傷病者や家族、関係者たちの慌てぶりなど様々なものが空間を包み込んでいる。本物の現場にはそれを感じ取らせてくれる空気感があるのです。
同じように溜息が漏れるような現場ではそんな雰囲気、そんな空気感がありません。逆説的に言えば、不要不急の現場であると感じ取れてしまうのです。それらを感じ取れる要素の一つには定番とも言えるキーワードがあって…。
出場指令
深夜の消防署、出場指令が響き渡りました。
「救急隊出場、⚪︎町⚪︎丁目、E方、女性は腹痛、歩けないもの、通報は夫」
との指令に救急隊は出場しました。
出場途上、119コールバック
緊急走行する救急車の後部座席から隊員は119番のあった電話に連絡を取りました。
隊員「ご通報いただいたご主人ですね?救急隊です、奥さんが腹痛を訴えているとのことですが、ご様子を教えていただけますか?」
夫「ああ、とりあえずサイレンを止めて来てもらえますか?」
キーワード『サイレンを止めて来て』
救急車は緊急車両です。緊急車両の用件を満たす条件としてサイレンの吹鳴、赤色回転等を使用しての走行があります。サイレンを止めてしまえば緊急車両である用件が満たされません。大切な人が緊急事態、命の危機、一刻も早く医療機関に搬送しなくてはならない、そんな時にサイレンは止めて欲しいと言うでしょうか?
隊員「救急車は緊急車両なのでできません、患者さんの様子を教えていただけますか?」
夫「ああ、そうですか…どうにかできませんか?」
隊員「はい、急いで向かっています、奥さんのご様子を教えてください」
夫「はぁ、妻なのですけど、お腹が痛いと言っています」
隊員「歩けないとのことでしたが、お話はしっかりとできる状態ですか?」
夫「ええ、大丈夫です、今は歩くこともできるようで着替えています」
隊員「そうですか、奥さんにご病気やかかりつけの病院はありますか?」
夫「ええとですね…」
傷病者は着替えをし救急隊の到着を待っている。一分一秒を争う状況ではなさそうです。応答してくれた夫にも全く慌てる様子はなく、到着前にかなりの情報が得られました。
隊員「なるほど、救急車を呼ぶに至ったのはどうしてなのですか?」
夫「病院も分からないし、何かあったら困るのでね、一応呼びました」
隊員「そうですか、分かりました、間もなく到着できますので案内をお願いします」
キーワード『一応呼びました』
救急車は緊急事態の際に、何かが起こってしまった時に要請する緊急車両です。何かがあったら困ると予防的に一応呼ぶものではありません。
現場到着
指令先のEさんのお宅はアパートの一室でした。部屋の呼び鈴を鳴らすと要請者の夫が出てきました。
夫「どうも、お願いします」
隊長「お待たせしました、患者さんは奥にいますか?」
夫「どこの病院に行くんですか?」
キーワード『どこの病院に行くんですか?』
まだ傷病者と接触すらしていないこのタイミングでは回答できません。だってまだ何も分からないのだから…。傷病者の年齢も性別も何も分からない状態で聞かれる事もあります。エスパーじゃないし無理…。
隊長「奥さんのご様子を見せていただいてから選定します、まだどんな症状なのかも分かりませんので…」
夫「はあ、そうですか」
ただ、これは地域によって違いがあり仕方がないとも思います。例えば島の消防本部などでは救急指定病院が1箇所なんて地域もあります。このような地域では選定するという概念がありません。救急車の行き先が決まっている地域があるのも事実です。
傷病者接触
傷病者のEさんは50代の女性でした。玄関で靴を履こうとしています。
隊長「こんばんは救急隊です、歩けるのですか?」
Eさん「よろしくお願いします、お腹が痛くて…」
隊長「すぐそこにストレッチャーを用意しましたから、救急車内で詳しいお話やどこが痛いのかよく見せてください」
Eさん「はい、分かりました」
Eさんは昼頃から腹痛と下痢がありましたが、どうにか1日の仕事を終えて帰宅しました。病院に行こうかとも思ったのだが、どこの病院がやっているかも分からないので我慢して寝てしまった。深夜になり腹痛で眠れないからと救急要請に至りました。Eさんは自宅の玄関先に出てきており、出かける準備ができていました。
隊長「ご自宅は留守になりますか?ご主人が戸締りや火の元を確認してください」
夫「分かりました」
隊長「奥さんの荷物もご主人が管理してください、このハンドバッグと…この大きなカバンも持っていくのですか?」
Eさん「着替えやタオルなど、入院セットは準備できています」
隊長「はあ、そうですか…」
Eさん「ああ、そうだ!ねえスリッパも持っていくわ、それ持ってきて!」
夫「ああ、そうだな、分かった」
キーワード『入院セット準備完了』
緊急事態だから要請するはずの救急車なのですが、自身ですっかり身支度を整えて準備万端の場合があります。さらに上手の方は化粧までしている場合まであります。そういった方の中には入院すると決めていて、入院セットまで準備万端で待っていることがあります。
救急車で病院に行けば入院できるものと思っていることが多いです。入院治療が必要かどうかは医師が診察し判断するので、患者や家族が一方的に決めるなんてことはできません。
Eさんは救急隊が駆けつける頃合いを見計らい、着替えを済ませ、入院セットなどの身支度を整え、歩いて玄関で靴を履いている。指令内容は歩けないであったのですが…。
車内収容
隊員「それではご主人は、こちらから乗ってください」
夫「ああ、私は車で行きます」
隊員「同乗してもらえませんか?」
夫「病院には行きます、帰りが困っちゃうのでね、私は車で後で行きます」
隊員「そうですか…どちらにしても病院が決まるまでは、ひとまず乗っていただけますか?」
夫「はい」
隊員「後ろのドアが閉まります」
バタン…。はぁぁ…。
キーワード『私は車で行きます』
夫は自家用車で病院に向かいたいと帰りを心配する余裕がある。傷病者は救急車が来るまでに着替えを済ませ入院セットを用意する余裕がある。この車で病院に行こうとは何故に思わないのだろう…?
病院決定
搬送先病院はすぐに決まりました。一番近くの内科で診察可能な病院です。
隊長「▲病院で対応していただくことになりました、ご主人は後から病院に駆けつけると伝えてあります、安全運転でお願いします」
隊員「それではこちらから降りてください」
夫「お願いします」
隊員「救急隊に追走はできません、救急車は緊急走行で先に行きます、くれぐれも信号を守って安全運転で来てください、慌てて来る必要はありません」
夫「ああ、そう…分かりました」
何ともキレのない夫の空返事、嫌な予感がしました。
関係者が救急車には同乗せずに自家用車で病院に駆けつけることがあります。そんな時、緊急走行する救急車にピタリと追走してくる困った人がいるのです。酷い人だと赤信号までお構いなしなんてこともあります。
こんな人がいるので、救急車は緊急走行で先に病院に向かう旨、追走はできないこと、くれぐれも安全運転で、交通ルールをしっかり守るようにと念を押しておきます。ここまで、ここまで…気を使っているのに…。
現場出発
出発するとピタリと後方についてくる夫の車、最初の赤信号を通り抜けると…はぁぁ…やっぱり…。
機関員「あっ!後ろの車、赤信号をついてきた、あれ旦那さんの車だろ?」
隊員「はぁぁ…そうです」
機関員「隊長、停車します、後ろの車がついてきている」
隊長「了解…」
機関員「お前、ちゃんと言ったのか?」
隊員「言いました、しっかり説明しましたよ!」
機関員「本当か?」
救急車を安全なところに寄せて停車しました。すぐ後ろを走行していた夫の乗用車も救急車の後ろに停車しました。
隊員「ご主人、ダメですよ!今、赤信号を突っ切ったでしょ?ご主人の車は緊急車両ではないのですから交通ルールをしっかり守ってください、先ほどそう言いましたよね?」
夫「いやぁ…分かった、分かったから、アハハ、ごめんごめん」
キーワード『追走』
病院到着
「腹痛 軽症」
帰署途上
隊員「本当にしっかり説明したんですよ、くれぐれも交通ルールを守って来るようにって」
機関員「深夜だし、他の車もいないし、別にいいやって感じだったのだろうなぁ…」
隊員「注意しに行ったら、バレちゃった?アハハってそんな感じでした…」
隊長「はぁぁ…今の夫婦、最初から最後まで緊迫感ゼロだったな?」
隊員「救急車を呼ぶ前から入院支度、帰りの心配、ずっと余裕がありました」
緊急性の乏しさ、緊迫感を打ち消して有り余る空気感を放つキーワードの数々、特に深夜に連発されるとキツい…。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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