私、今ここで死にますから

溜息の現場

救急活動が円滑に進まない大きな要因は選定です。受け入れ先が決まらなければ救急車は出発できません。選定困難に陥る要因は様々あって、それら理由が重なってしまう場合には特に…。

出場指令

「救急隊出場、○公園南入り口のベンチ、女性は手首を切り出血、なお自損の模様、警察官が活動中」

との指令に私たち救急隊、そして同じ消防署の消防隊がペアで出場しました。

現場到着

既に警察官が到着しており傷病者の少女と話をしていました。話をしている警察官の手には彼女から取り上げたカミソリが握られていました。

傷病者接触

少女「だからあなたには関係ないじゃないですか、私がここで何をしたって言うんですか?」
警察官「いやね、別にあなたが悪いことをしたから私たちが来た訳ではないですよ」
少女「だったらほっといて下さい、私が何をしようと、どうなろうと関係ないじゃないですか」
警察官「ほっとく訳にはいかないよ、このまま私たちが帰ったら、また君は手首をコレで切っちゃうかもしれないでしょ?」

彼女はどう見ても10代、学校に行っているのなら高校生くらいの年代です。警察官とけっこうな剣幕で言い争いをしていました。警察官に食ってかかれるくらい元気とも言える…。緊急性も重傷度も高くはなさそうです。

隊長「創傷処置をしてバイタル測定を、オレは警察官から情報を取ってくるから」
隊員「了解です」

少女「だからほっといてよ、関係ないでしょ!警察だからって何もしていない私をどうこうできる権利なんてあるんですか!」
警察官「別にどうこうするなんて言ってないじゃない」

本当に警察官も大変な仕事です…。

隊員「どうもお疲れ様です、ひとまず…怪我の処置をさせてもらいます」
警察官「お疲れ様です…そうですね、お願いします」
隊員「こんばんは、救急隊です、お怪我されたところを見せてください」
少女「別にたいした怪我じゃないからほっといてください!」
隊員「そんなこと言わないで、せっかく来ましたから怪我を見せてくださいよ、ね?」

そう言うと彼女は不機嫌な表情で左手を隊員に見せてくれました。左手首には3,4本の細い切創、縫合する必要のあるような創ではなく、カミソリで撫でた、そんな表現がしっくりくる程度の深さの創です。出血は完全に止まっている。

ただ、この少女、以前にも何度も同じようなことをしているのでしょう。手首には細かい傷痕が無数にあるのでした。

隊員「他に怪我しているところはありませんね?」
少女「…別にないです」
隊員「あなたのお名前を教えてください」
少女「…」
隊員「お名前教えてください」
少女「…」

ガーゼを当てながら声をかけるも教えてくれない。

少女「なんで名前を言わなくちゃいけないんですか?」
隊員「これから病院に連絡して、医師に説明するためです」
少女「別にこんなの怪我じゃないです、病院になんて行かなくて大丈夫です」
隊員「そんなこと言わないで消毒してもらった方が良いですよ、お名前を教えてください」
警察官「そうだよ、ほら救急隊だってこうやって、あなたのために来ているんだから名前を教えてよ」
少女「名前を言うくらいなら私、今ここで死にますから」
隊員「そんなこと言わないでよ…」
警察官「ずっとこうなんですよ、名前も年齢も何も言いたくないって…」
少女「…だから何であなたたちにそんなこと言わなくちゃいけないんですか、あなたたちが勝手に来て騒いでいるだけじゃないですか」
警察官「そんな言い方ないでしょ、みんな心配してこうして集まっているんじゃない!」
少女「別に心配なんて…誰もしていないって分かっているし…」

この少女のふてぶてしいこと…。

隊員「それでは、あなたが今かかっている病院とか、治療中の病気を教えてください、大事なことですからこれは教えてください」

この少女、警察官にはふてぶてしい態度なのですが、救急隊には少しは素直に応えてくれました。

少女「○クリニックでパニック障害と言われています」
隊員「そうですか、今も治療しているのですね?お薬はちゃんと飲んでいますか?」
少女A「はい…」
隊員「分かりました」

手首の創傷処置も完了、バイタルサインも測定した。さて、困ったぞ…本人が病院に行きたくない、おまけに名前も言いたくないって言うんじゃ…。隊長はこの現場を指揮している警察官から状況の申し送りを受けていました。

隊員「隊長、○クリニックかかりつけでパニック障害の治療しているんですって、名前は言いたくないって、あと搬送も拒否です」
隊長「ああ…みたいだな、困りましたね…」
警察官「ええ、どうみても未成年だし、このままほっとく訳にはいかないよなぁ…」

警察官からの申し送りによると、この薄暗い公園のベンチで少女がカミソリを手首に当てていると通行人から110番通報があったのでした。駆け付けた警察官が彼女からカミソリを取り上げて救急要請に至ったのでした。

医療機関に搬送し創の処置を受けてもらい、医師が精神科的治療が必要と判断したのなら、その後、精神科のケアを受けてもらう。警察官としても自分の手首を切っていた少女をこのままにして、また何かあったら困ってしまいます。保護して保護者に引き渡すまでは引き揚げる訳にはいかないでしょう。

隊長「ひとまず事情を説明して病院を探そう、どうにか診てくれる先生をみつけよう」
機関員「ふぅ…了解、オレは病院連絡してきます…簡単に決まるとは思えないけど…」
隊長「病院に連れて行って手当を受けるよう説得を続けましょう、このままじゃらちが明かない、警察の方もそれでよいですよね?」
警部補「…ええ、そうしましょうか、本当困りましたね」
隊長「そうですね、でも簡単には病院決まりませんよ」

選定困難の要因は様々ありますが、今回の場合、「身元不明」「未成年」「自損」「精神科疾患」複数のキーワードが当てはまるのでした。機関員は救急車に戻り選定を開始、警察官と救急隊でどうにか治療を受けるように公園のベンチで説得を続けるのでした。

病院連絡

機関員「…そこをどうにかなりませんかね?本当に手首をちょっと切っているだけなんです」
看護師「未成年で名前も答えられない、精神科の現病でしょ、うちの当直は私と先生ふたりだけだもの、何かあったらとても対応できないないので、他の病院を当たってください」
機関員「そうですか、分かりました…」

次はどの病院に当たろう…。看護師の言う「何かあったら」とは、目を離した隙に再び自殺を図るようなことをしてしまうことなどです。創の処置はできてもそれとは別の要因が選定を困難にしていました。

何件当たったでしょうか?ひとまず診てくれる病院が決まりました。診察の条件は保護者が来ないようなら救急隊でも警察官でもよいから少女を絶対ひとりにしないこと。治療が終わるまで必ず付き添うこと、警察官とも協議し、救急隊は少女を乗せて病院に向かいました。

現場出発

隊長「そう…それで手首を切っちゃったの…でももうこんなことしたらダメだよ」
少女「はい…そうですね…ごめんなさい」

搬送途上、過去にも同じようにリストカットをしては救急車で搬送されたことがあるとのことでした。先ほどのふてぶてしい態度はすっかりなくなり、ベテランの救急隊長に対しては素直に話をするのでした。

病院到着

処置は消毒してガーゼを当てておしまいです。通常であれば医師に引き継いだら救急隊は引き揚げますが今回はそうはいきません。病院との約束、彼女をひとりにしないためです。病院の待合室、自身を傷つけたりしないでほしい、救急隊長の話を素直に聞く彼女だったのですが…。

警察官「お疲れ様です、到着しました、処置は終わりましたか?」
隊長「ええ、今終わったところです」
少女「…」
警察官「治療も終わったのならご両親に迎えてきてもらおうよ、連絡しましょうよ」
少女「親に連絡されるくらいなら、今ここで死にます」
警察官「またそんなこと言う…」

彼女は警察官を見た途端に、またふてぶてしい態度になるのでした。とにかく警察官が気に入らないみたいです。

隊長「看護師さん、警察官が到着したので救急隊はこれで引き揚げます」
看護師「はい、お疲れ様です」
警察官「どうもお疲れ様です…」
隊長「どうもお疲れ様です、後はよろしくお願いします」

「左手首切創 軽症」

この後、彼女は警察官に保護されたのか、それとも親が迎えに来たのかは分かりません。自損を図るようなことをしている方の場合、一人にしてはおけないから、そんな要因もありなかなか搬送先が決まりません。

目の前の傷病者を安全に医師の管理下まで送り届ける。本来そこまでであるはずの救急隊の仕事なのですが、処置が終わるまでの付き添い、そんな本来業務でないことがあったりします。救急隊が足りないと、どの消防本部も悲鳴を上げている今日、こんな条件を飲まないと行先がない、そんな現実もあるのです。

これは警察官も同じことで、今、近くで大事故があっても、ここにいる警察官も救急隊も現場に急行できないのです。本来業務でないことのために、本来業務が果たせないのです。

開け番の事務室

今夜も夜通し働いた…。

上司「隊長、この活動なんだけど、医療機関の滞在時間が長いんだよね、早期引き揚げ態勢をしっかりとってもらわないと…」
隊長「あの…時間がかかった理由ならそこに書いてありますよ」
上司「え?ああ…ふ~ん…ああ、なるほど、警察官に引き継いでから…ああ、なるほど…」
隊長「…」
上司「まあ、理由は分かるけど、救急隊が足りないこのご時世だからな、大変だけど早期引き揚げを継続して頼むね」
隊長「はい、分かりました…」

今日も救急隊って可哀そう…。


119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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