仰天の現場
この記事は殺人電波が送られているのですの続編です。
殺人電波が送られているのですを御覧頂いた後にお読みください。
朝の交替
昨日の隊員「昨日は災害はありませんでした、使用資器材も特にありません」
ポンプ隊員「了解、救急は相変わらず忙しかったみたいですね」
昨日の隊員「ええ、昨日もずっと出ずっぱりですよ」
ポンプ隊員「了解、お疲れ様でした」
同じ消防署に勤務しているっていうのに日付が変わってから救急隊の顔を見ていないと言うのだから…。
この日は乗車隊の交代乗務が行われていました。正規の救急隊員の私がこの日乗務するのはポンプ車、一方で救急資格を有する後輩がこの日の救急隊員を務めているのです。
私の勤務する町では日本全国で問題になっているように、救急車の出場件数がうなぎ登り…救急隊の労務管理も大きな課題となっています。
後輩「まだ、○病院にいるみたいですよ、あと30分は帰ってこれないですね」
「ポンプ車は出場なしだってさ」
後輩「救急車は夜中に1時間ちょっと待機していただけですよ、まさに出ずっぱり…」
「今夜はオレの分も出ずっぱりで頑張ってよ」
後輩「はは…そうならないと良いのですけど」
ポンプ車に比べ救急車の出場時間は圧倒的、この日の申し送りも昨日のポンプ車の出場はなしでした。救急車は出場中で交替時間だというのにまだ帰って来られないという状況でした。
こんな状況の中、私の勤務する消防署では救急隊員たちの労務管理、また救急隊を目指す予備隊員たちの経験の場などの観点から乗車する隊の交代乗務が行われているのでした。
この日もやっと帰ってきた救急車は交替の申し送りもままならないほどの待機時間で再び出場し、消防署に帰ってくることなく連続出場を繰り返したのでした。
午後になった
救急車はいっこうに帰ってこない、昼休みを過ぎてもポンプ車の出場はありませんでした。お陰で溜まっていた事務がとてもはかどる。救急車に比べれば待機している時間が多い消防車ですが、もちろん仕事はたくさんあるのです。
この日は午後から町会の防災訓練に出かけることになっていました。地域住民の防災訓練会場に出かけていき、消火器の使い方や119番通報のやり方、災害時の対応などの防災指導、町の人たちと共に様々な訓練を実施するのです。
防災訓練会場
「そうです、とても良いですよ、もう少し肘を伸ばしてまっすぐ5cm程度胸を押してください」
地域の方「はい、けっこう大変ですね」
「ええ、それでも続けてください、心臓マッサージをやめてしまうと患者さんの頭に行く血液はゼロになってしまいます、…少しリズムが早すぎます、1分に100回のリズムです、そうそう、そのくらいの早さです」
私は心肺蘇生法の訓練を担当していました。AEDの普及もあり住民のみなさんはとても熱心です。
消防官の仕事って本来こういうものだよなぁ…。地域に密着してこの町の人達を守る。それが当たり前だしそうあるべきだと思う。
出ずっぱりの救急車は隣町へ、さらに隣町へと出場していく…。救急隊は果たしてこの町を守っていると言えるのでしょうか?
訓練もひと通り終わり、撤収の準備をしていると住民の方が話しかけてきました。
男性「今日は消防車に乗っているのですか?救急隊の方ですよね?」
「ええ…」
男性「その節はお世話になりました、おかげ様で妻もすっかり良くなったのですよ」
「ええと…、ごめんなさい…、私たちが奥さんを搬送させていただいたのでしょうか?」
男性「いえ、そうではないのですが、お世話になって…、ほら、あの家のWです、あそこにいるのが妻です」
男性はWと名乗り、すっかり良くなったという奥さんを指さしたのでした。
「あっ!あの時の…Wさん」
男性「そうです、ほら、妻も良くなりまして…あの時は本当にありがとうございました」
奥さんは近所の人たちと楽しそうに談笑していたのでした。
「あれが奥さんですが…あの時とはずいぶんと雰囲気が…」
Wさん「ええ、すっかり良くなったのですよ」
「ただ、あの時、結局は病院にお連れできなかったはずです」
Wさん「あの後、隊長さんのアドバイスもあったので往診の先生を呼んで診察してもらったのですよ、おかげで…」
Wさんの話によると私達が搬送できず帰った後、往診医を手配し診察してもらうことにしたそうです。医師の下した判断は「精神科疾患を患っており精神科の治療を受け入院加療する必要があるだろう」でした。
ただ、医師が判断したからと言って奥さんが納得する訳ではありません。実際、奥さんは医師の説得にもまったく応じなかったそうです。
往診医は精神科を有する病院に連絡を取り、病院のケースワーカーが訪問し対応したのでした。結果、奥さんは入院することとなりやっと治療が始まったとのことでした。
Wさん「はじめはどうなることかと思ったのですが、さすがはプロですね、病院の方が駆けつけてくれて入院させることができました」
「ずいぶんと良くなられたのですね、あの時とはまるで別人みたいです」
Wさん「ええ、先生のお話だと薬がよく効いたようで、入院して数週間ですっかり良くなったのです、今も規則正しい生活ときちんと薬を飲んでいれば問題ないと、今では月に1回通うだけです、ありがとうございました」
「…いいえ、私達はお役には立てませんでしたから」
Wさん「そんなことはありませんよ、何度も駆けつけて頂いて力になってもらいました、他の皆さんにもよろしくお伝え下さい」
「はい、ありがとうございます、私の方から伝えておきます」
Wさん「ええ、では」
消防車で防災訓練会場を引き揚げる際、Wさんご夫婦はとても穏やかな表情でこちらに会釈したのでした。会釈を返した私は笑顔を作りながらも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
精神疾患を患っている方に振り回されてしまうことの多い救急隊、これは正確な表現ではありません。
正確には「精神疾患を患い治療が上手くいっていない方」に振り回されることが多いのです。しっかりとした治療さえ受ければただの病気に過ぎないっていうのに…、私は自分の偏見を恥じ改めねばと感じたのでした。
夜の消防署
あの時の奥さんはすっかり良くなって日常生活を過ごしています、ありがとうと感謝の言葉を頂きました。Wさんとの約束です、昼間の出来事を救急隊に伝えなければ…。
今日、あの奥さんの表情を見て学んだことがあったんですよ、救急隊にも改めなければならないとことがたくさんあると思ったんです、みんなで共有しなければ…。
しかし、救急隊は一向に消防署に戻ってくることなくとんでもない地域に出場し、さらに無線で呼び出され出場を繰り返していました。
…ちっとも帰ってこれやしない。
深夜の消防署の食堂
朝に顔を合わせたきり…、救急隊が帰ってきたのは深夜でした。
「味噌汁は温めてあります、ご飯は今、レンジに入っていますから」
隊長「ありがとう」
機関員「今日もとんでもねえよ、○町まで出場だぜ、到着まで20分とか、そんなのばっかり…」
「お疲れ様でした、この辺りも同じです、夕方には○救急隊が指令されていましたよ」
隊長「○救急隊?やれやれ、ここから10キロ近くあるんじゃないか?…いつまで続けられるのかね、こんなこと…」
機関員「続きませんよ、こんなこと、近いうちに終わるんじゃないですか?こんなこと続けていたら本当に必要な人はみんな死んでしまうんだから」
「で、20分かけて駆けつけた先は救急車でなくちゃいけない人だったんですか?」
隊長「いんや…軽症ばかり、どれも緊急性はゼロだな」
「はは…でしょうね…」
自分たちの町を地域を守るのが消防官、救急隊員たちも消防官がなのですが…ぐちゃぐちゃな出場状況でそんな当たり前は…既に壊れてしまっているかもしれません。
「ところで今日、防災訓練に出かけてきたのですが、覚えていますか?○町のWさん」
隊長「Wさん?どんな現場だったっけ?」
「ほら、バラセンの家、殺人電波が飛んできているって訴えていた奥さんの…、あの奥さんなのですが…」
消防署に出場ベルが鳴り響きました。残った食事を掻きこむ救急隊員たち。
「救急出場、○町…」
隊長「○町だって!?また遠いなぁ…」
機関員「ちきしょう!飯も食えやしない」
中途半端に食事を流し込み、救急車はまたも深夜の消防署を飛び出していったのでした。お気の毒に…。
扱った傷病者のその後、私達の仕事が町の人たちとどう繋がっているのか、今の救急隊にそんなことを知る余裕はありません。そもそも自分の町なんて守れていない…。
救急隊も、様々な職種の医療従事者も、そして患者さんの家族も、改めなければならない偏見や差別があります。そんなことを考える暇もなく今日も自分たちが守るべき町を通り過ぎてとんでもないところに出場していく。
改めなければならないこと。まずはこの壊れかけた体制かな…。