仰天の現場
近年の救急隊を取り巻く出場の状況は年々、様変わりしています。高齢化社会などの時代背景的な要因もあり、出場件数は増え続け、また出場1件当たりの活動時間も延びています。必然的に消防署に救急車が待機している時間は減っています。
救急車が出場し、一番近い医療機関に選定連絡、すぐに病院が決まって傷病者を医師に引継ぎ、すぐに引き揚げる。こんな当たり前と思われる活動が繰り返されるなら今のような状況はないのかもしれません。
当サイトでもいくつもの現場のお話を紹介してきた通り、こんな活動がちっとも当たり前にいかない事案が多々あるのが現実なのです。
受け入れ先医療機関がなかなか決まらない、マスコミが「たらい回し」などと報道し社会問題化しているその要因のひとつに精神科疾患があります。
特に深夜など、そもそも救急病院に精神科の窓口そのものが存在していないのがほとんどです。需要があっても受け皿がないのです。
今日はそんなお話の一端を紹介します。
朝の交替
隊員「おはようございます、お疲れ様でした」
昨日の隊員「お疲れ様でした、昨日は12件、2件が重症で使った資器材は…」
朝の交替時間、この日はこの時間に待機できていた救急隊はポンプ隊と共に交替ができていました。ただ、ついさっき帰ってきたばかり、やっぱり救急隊だけは朝食が摂れていないのでした。
隊員「了解、資器材の補充もAEDのバッテリーも全部OKです、あとはうちでやっておきますよ、昨日も寝られず?みんな顔色が悪いですけど」
昨日の隊員「ああ、1時間くらいは寝られたかな?やっと横になれたと思ったら要請が入って、そのまま帰ってきたのはついさっきだよ、…そうそう、さっきまでかかったその現場なんだけど要注意だから、○町Wさんというお宅なんだけど…」
隊長、隊員、機関員が昨日の活動状況、使用した資器材、走行した距離などの申し送りを行います。そんな中、くれぐれも注意しろと申し送られたのが○町のWさん宅の活動でした。
○町は私たちの隊の受け持ち区域、消防署から1キロもないお宅です。ここ2日連続で救急要請が入っているとのことでした。
奥さんは明らかに精神科疾患を患っているであろうことを訴え、困り果てている夫からの要請でした。救急隊の話を聞きバイタルサインなども測定させてはくれるのですが、本人が病院には絶対に行かないと頑として搬送を拒否し結局は搬送には至らなかったとのことでした。
昨日の隊長「夜中から朝までだよ、どうにか説得して搬送を、と思ったんだけど…どうにもならなかった…、最後にはご主人が諦めちゃってね…、それにあの時間じゃ病院もどうにもならないだろうし…、昨日も○救急隊が扱ってやっぱり搬送には至らなかったって話だから、今日もあるかもしれませんよ」
隊長「身体合併はないの?」
昨日の隊長「ええ、そもそも本人に主訴がないんですよ、私はどこも悪くない、病気の訳がないってね、ただ…」
隊長「ただ?」
昨日の隊長「殺人電波が送られているって…」
隊長「なるほど、既往はないの?」
昨日の隊長「ええ、何も…、ご主人にはよく話はしてきてありますけどあの調子では果たして病院に連れて行けたかどうか…」
隊長「分かりました、お疲れ様でした、朝飯を食べて早く帰ってよ」
昨日の隊長「ええ、どうも…でも昨日も出ずっぱりで活動報告が全く手付かずですよ…何時に終わるか…はぁ~…」
こんな申し送りを受けても、そんなことすっかり忘れてしまうほどの忙しさが続きました。この日もほとんど消防署にいることなく日が暮れてしまった…。
あくせくと連続した出場を繰り返し、いつの間にやら深夜になっていました。ヘトヘトの救急隊、今夜はもうこれで終わりますように、どうにか朝まで横になれますように、そんな願いも虚しく出場指令が鳴り響きました。
出場指令
「救急出場…○町○番…W方急病、女性は具合が悪く不穏状態、通報は夫から」
隊長「○町のW方、ひょっとして?」
隊員「ああ、朝、申し送りにあった?」
機関員「…間違いないな、そのW方ですよ」
隊長「ふぅ…こりゃ長期戦だぞ…」
申し送りのあったあのWさんのお宅からの要請です。一昨日も昨日も結局は搬送には至らず長時間を要した事案、今回も簡単にはいかないでしょう。長期戦を覚悟の出場でした。
現場到着
要請されたWさんのお宅は直線距離で1キロもない受け持ち区域、すぐに到着しました。呼び鈴をならすと通報者の夫が出てきました。
隊長「救急隊です、Wさんですね?患者さんのところまで案内して下さい」
夫「はい、申し訳ありませんね、実はこれで3回目なのですよ、度々で本当に申し訳ありません」
隊長「そうですか、患者さんのところに案内していただけますか」
夫「はい、こっちです」
夫に続く救急隊、これは…。家の周辺、さらには外壁にはバラセンが巻きつけられているのでした。一筋縄ではいかないぞこれは…。
傷病者接触
家を取り巻くバラセン、ただ事ではないであろうこの現場でしたが、傷病者は意外と素直に私たちを迎え入れたのでした。傷病者のWさんは60代の女性でした。
隊長「こんばんは、Wさん、救急隊の者です」
Wさん「はぁ、救急隊?」
隊長「ええ、あなたの具合が悪いからとご主人に要請されて来たのですよ」
Wさん「また夫が!?私は病気ではありませんよ」
夫「何を言っているんだ、今日はもういい加減にしよう、病院に連れて行ってもらおう」
Wさん「何を言っているのよ!私は何ともないって言っているじゃない!」
夫に対し激怒するWさん、それをなだめる救急隊、Wさんはそれと分かる表情と言動があり夫に対しては声を荒げているのですが、私たちに対して暴言を吐いたり、暴れたりすることは一切ありませんでした。
隊長「Wさん、そんなに大きな声を出さないで、ご主人も私たちも驚いてしまいますよ、病院に行くかどうかはお話をしっかりさせていただいてから決めましょう、私たちはWさんと始めてお会いしますから、あなたに何が起こっているのか、あなたがどう具合が悪いのか全く分からないのです、どうかお話を聞かせていただけませんか?」
Wさん「ええ、はい…、ただ私はちっとも悪いところなんてないんです、夫が勝手に」
夫「何言っているんだ!おかしいじゃないか、言っていることもやっていることも!」
隊長「まあまあご主人も落ち着いて、ねえ、お二人とも落ち着いて私たちにも分かるようにお話してください」
ベテラン隊長の落ち着いた問いかけに、Wさん夫婦もここ数日のことを話してくれたのでした。ご主人によると奥さんの様子がおかしくなったのは一月ほど前から、「誰かから覗かれているような気がする」と言う訴えから始まり、そんな訴えは次第にエスカレートしていったのだそうです。
ここ数日に至っては「この家を監視している何者かから電波が送り込まれている」との訴えになり、家への侵入を許さないと家の周りにバラセンを巻きつけるなどの行動がみられるようになったのでした。
ご主人も再三、病院に言って相談しようと説得し続けてきたのですが、Wさんはどこも悪くないと頑として病院には行かなかったのだそうです。
隊長「…なるほど、そうでしたか」
夫「そうなんです、救急車など呼ばずどうにか家族でと思っていたのですが、どうにもならなくて…」
一方のWさんの訴えは…。
Wさん「私のどこが悪いって言うのかしら、悪いのは私たちを狙っている人じゃない!それに、もし私が病院になんて行った時にはその時が一番危ないじゃない!絶対に留守になるのを狙っているんだわ!」
隊長「…」
Wさん「あなたたちには聞こえない?」
隊長「…いえ、私たちには聞こえませんよ、何が聞こえるのですか?私たちにも分かるようにお話していただけますか?」
夫「聞こえる訳がないだろう、なあ、いい加減に病院に行こうじゃないか」
Wさん「だから病気じゃないって言っているじゃない…、でも、確かに今は聞こえないわ、やっぱりどこかから見ているんだわ、救急隊の方が来ているから今はボリュームを弱くしているんです!この前もそうだったんです、救急車が家の前に停まっている間は電波は飛んできていなかったの、やっぱりどこから監視しているんだわ、この家に向けて誰かが殺人電波を送り込んでいるんです!」
呆れ顔の夫と真剣な表情のWさん、さてどうしたものか…。「誰かから見られている、電波を飛ばし自分を落としいれようとしている」実はこんな訴えは珍しいことではありません、よくある被害妄想の典型です。
Wさんは精神科疾患を患っているのでしょう、そして家の周辺にバラセンを巻きつけるなどの行動を起こしている。
医師に診察してもらい判断してもらう必要があるでしょう。問題なのは傷病者本人が病院に行く必要はないと訴えていること。仮にWさんが暴れたりして他人に危害を及ぼしたり、あるいは自分自身に危害を加える自傷行為があったのなら対応する方法があります。
しかし、そういったことは一切なく、しっかりとした口調で「私は病気ではない、病院に行く必要はない」と訴えているのです。バイタルサインも全く問題はありませんでした。この人を力ずくで病院に連れて行くことはできません。隊長は穏やかな口調で根気強く説得を続けたのでした。
隊長「Wさん、お話はよく分かりました、私たちは医師ではありませんからあなたがご病気なのかどうかを判断することはできません、ですから、ご主人も心配されていることですし、ご主人を安心させてあげるためにも病院に行かれてみてはどうでしょうか?」
Wさん「病院になんて行く必要がありません、きっとこの人も電波でやられているんだわ」
隊長「ひょっとしたらその電波のような音も何かのご病気の症状かもしれませんよ、ですから病院で先生に相談してみてはどうでしょう?」
Wさん「今は電波を飛ばしてきてないからそんな風に思えるんです、あなたたちが帰った後にまたすぐに飛ばしてくるんですから」
どうにかして…、どうにかして…、隊長は根気よくじっくりと傷病者の話を聞いてこの活動の糸口を見つけようとしました。しかし、話はまったく前には進みませんでした…。
機関員「時間を要すと…、本部に報告を入れてきますね…」
隊長「ああ、頼むよ…」
深夜の住宅街、Wさんのお宅で隊長の根気強い説得は実に1時間ほども続いたのでした。どうにかしたい、この人をこのままにして帰る訳にはいかない。しかし、どうにも話は進展しませんでした。
夫「ふぅ…ありがとうございました、もう結構です」
隊長「いえ…ご主人、そんなことは仰らずに、奥さんが納得してくださるなら私たちもどうにかお力になれるようにいたしますから」
夫「でも、妻が病院に行くと言わない限りはどうにもならないと言うことですよね?」
隊長「それは…その通りです…、力ずくで病院にお連れするなんてことはできません」
夫「ここ3日、どの隊長さんもそのように仰って、みなさんよく話をしてくれたのですが、ずっとこの調子で…ありがとうございました」
隊長「ふぅ…そうですか…」
Wさん「私は大丈夫ですから、でもあなたたちが来てくれたおかげで今は電波も飛んできていないしすごく良かったです」
隊長「…」
夫「…」
引き揚げる救急隊を見送りに玄関先まで出てきたご主人に隊長が語りかけました。
隊長「ご主人、今日もお役に立てずに申し訳ありませんでした」
夫「…いいえ、こちらこそ度々ご迷惑を…」
隊長「奥さんなのですが…医師でもない私がこんなことを言うべきではないのですが、おそらく何かしらの精神科疾患を患っている可能性があると思います」
夫「ええ、そうでしょうね、もちろん私もそう思っています」
隊長「ご家族でどうにか説得を試みて医師に診察してもらえるようにするのが一番なのですが…」
夫「それができればね…、ご覧の通りまったく聞かなくてね…」
隊長「ふぅ…そうですね、ご本人からしてみれば何で病院になんてと思われているでしょうからね、往診医に来てもらうなどどうにかして、どうにか医師の判断を仰ぐようになさってください、そうしないときっと話は一向に進まないと思いますよ」
夫「はぁ…、実は私たちには息子がいましてね、どうにかしないといけないと先週に無理矢理にでもと二人がかりで病院に連れて行こうとしたことがあったんです、そうしたら豹変しましてね、あなたたちもグルだったのかなどと言って大騒ぎになったのですよ」
隊長「…そうでしたか」
夫「息子もすっかり諦めてしまってね…、私ひとりではどうにもならないし、救急車を呼べばどうにかなるのではないかと思ったのですが…、ご迷惑をおかけしました」
隊長「本当に、お役に立てず申し訳ありません…、あとですね、正直申し上げて、この時間ですと仮に奥さんが病院に行くことに納得されてもすぐに医療機関にお連れすることは相当に難しいのですよ、やはり、昼間のどの病院もやっている時間にどうにか動くことをお勧めします」
夫「分かりました、こんな夜分にすみませんでした」
隊長「いいえ…、そんな…、難しいとは思いますが、もし奥さんが病院に行くことに納得して下さったらいつでも私たちを呼んでください、すぐに病院にお連れすることは難しいと思いますが、どうにかお力になれるようにいたしますから」
夫「ええ、その時はよろしくお願いします」
隊長「それでは、失礼します」
帰署途上
機関員「殺人電波が飛んできている、か…」
隊員「監視されている、電波で殺そうとしているってけっこう聞く話ですね、統合失調症でしょうか?」
隊長「かもな?仮に奥さんが病院に行きたいって言っても難しかっただろうな…」
機関員「この深夜じゃ特にですよ、いったいどこの病院が受け入れてくれるんだって話ですよ、旦那さんが諦めなくちゃ朝になってもどうにもならなかったでしょうよ」
隊長「そうだなぁ…」
Wさんはここ3日間、3隊の救急隊が関わったにも関わらず結末は同じ、どうにもならず活動は終了したのでした。
「不搬送 本人辞退」
精神科疾患の傷病者を扱った際、この事案のようなケースもあり長時間を要することが多々あります。このケースとは逆に傷病者が「精神病院に入院させてほしい」と熱望する場合も多くあり、それはそれで搬送先は簡単には決まりません。
少なくとも私が勤務している町では特に深夜になると精神科で新規の患者を受け入れてくれる病院など皆無に等しいのが現状なのです。かかりつけの精神科が救急指定病院であっても難しいのが現実なのですが…。
医療機関が充実している大都市部でこの現状、これはおそらく日本全国で全く同じ状態なのではないでしょうか?全国の救急救命士、救急隊員のみなさんいかがでしょうか?
こんな中、本来は早期に搬送先を決めて、早期に医師に引継ぎ、早期に引き揚げる。こんなことがまったく当たり前にはできないのです。
世間にも根強く精神科疾患に対する偏見や差別があります。医療従事者の端くれとしてそんなことではいけないと思っていても、長時間を要することが必須のような精神科疾患を患っている傷病者に苦労することが非常に多く、救急隊員たちの中にも偏見を持っている者がいると感じることもあります。
受け入れる側の医療機関にもこういった偏見があるのだろうと感じることはやはりよくあるのです。
精神科疾患をお持ちの方、またそのご家族の方、不快な思いされた方もいたかもしれません、申し訳ありません。今回のこのお話には続編があります。
私たちには全く力になれなかったこの現場、実は私たちの力の及ばないことで解決し、ひょんなことからそれを知ることとなったのでした。
私はこれまでの自分を恥じて、自分自身の精神科疾患に対する考えを改め、もっと理解しなければと強く思うこととなったのでした。
解決編は続編で紹介させてもらいます。続・殺人電波が送られているのですに続く。