救急救命士のこぼれ話
どの仕事でもその職業に就いているからこそ知っていること、見えてくるものがあるものです。誰もが仕事での経験や知識が日常で役立ったなんて経験があるのではないでしょうか?
それは救急隊の仕事にも当てはまるもので、例えば具合が悪い時には病院に行くべきか否かの判断ができるようになったり、原因が推定できるようになったり、どの病院がどの科目に強いかなどを知っていたりと…それなりに役立つことはあるものです。
救急隊は日常に起こる緊急事態やトラブルに飛び込んでいく仕事です。どうしてこの現場はこんな状況に陥ったのだろうか?トラブルの原因は何だろうか?知っていれば予防策も見えてくる、備えることができるのです。それはとても価値のあるもので…
出場指令
消防署で朝食を摂っている時、もう少しで交替という一番堪える時間です。出場指令が鳴り響きました。
「救急隊出場、○町〇丁目…路上、歩行者と自転車の交通事故、高齢の女性が受傷、歩けないもの、通報は扱い中の警察官より」
隊員「くぅぅ…、あと一口だったんだけどな…」
機関員「オレは食ったぞ!」
嘆く隊員の横で機関員は残ったうどんの汁を一気に流し込んだ。
後輩「お疲れ様です、どうします?ラップしておきますか?」
隊員「いや、もういいや、残念だけどごちそうさま」
後輩「片付けておきます」
隊員「ありがとう!」
何をしていても指令がかかれば飛び出していく仕事、やっぱり食事の最中は辛いです。現場は消防署からすぐの受け持ち区域、すぐに到着しました。
現場到着
指令先の路上、警察官の案内がありました。警察官と何やら話をしている若い女性、その横には座り込んでいる高齢の女性がいました。あの人が傷病者でしょう。
現場到着
隊長「お疲れ様です、救急隊です」
警察官「どうもお疲れ様です、歩行者と自転車の交通事故です。こちらの女性が足腰の痛みで立ち上がれないと訴えています」
隊長「了解しました、怪我人はこちらの方だけですね?」
警察官「ええ、お願いします」
隊員「おはようございます、救急隊です」
Eさん 「おはようございます、よろしくお願いします」
傷病者は80代の女性でEさん、受け答えはしっかりできる状態でした。自転車を運転していたのは女子大生のTさん、Eさんが歩道を歩いていた際、横を自転車ですり抜けようとした際に持っていたカバンが当たり、その弾みでEさんが尻餅をつくように転倒したとのことでした。
隊員「そうですか、それではおしりから落ちたのですね?」
Eさん「そうです」
隊員「他にお怪我はされていませんか?頭など打ってはいませんか?」
Eさん「大丈夫よ、他はどこも痛くないわ」
隊長「自転車には当たっていない?あなたは転倒したりはしていませんか?」
Tさん「私は大丈夫です、当たったのはカバンだけです、私も見ましたけどおしりから転倒しただけです、他には怪我はないと思いますよ」
隊長「分かりました、Eさん、救急隊のストレッチャーに乗っていただいて、救急車の中でお怪我の状況を確認させてください」
Eさん「はい」
隊員「身体を持ち上げますよ」
隊長「お身体を抱えますから、少し痛いかもしれないけど、ちょっと頑張ってください」
Eさん「痛い痛いいたい!!」
救急隊3人でEさんの身体を持ち上げメインストレッチャーに収容しました。尻餅をついての受傷、80代の女性、痛みの部位、痛がり方、まず間違いないだろうな…。
車内収容
Eさんのバイタルサインに問題はなし、全身観察を実施しました。Eさんは左の股関節付近が痛くて膝を曲げ伸ばしができないのでした。最も疑われるのは大腿骨頸部骨折です。これはお年寄りの骨折ではかなりの頻度で出会うもので、骨盤に入り込んでいる大腿骨の骨頭が折れてしまうものです。股関節の痛みで膝を曲げることができなくなり、少し動かすだけでも激痛を訴え、歩行不能になってしまう場合が非常に多いです。さらに…
隊長「Eさん 、膝が痛い訳ではないですね?ほら、膝を曲げようとすると痛いのは膝?股関節?」
Eさん 「股関節です、痛たたたた…、ダメ、膝はまったく問題ないです、股関節が痛くて痛くて…」
隊員「隊長、左足は外旋しています、下肢長差も…やっぱり左足の方が少し短い感じがします」
隊長「ああ…そうだな、まず間違いないな、整形外科だと直近は?」
機関員「了解、直近だと…〇病院が診察可能です」
隊長「Eさん、救急隊で一番近くの病院から当たりますからね」
Eさん「お願いします」
病院はすぐに決まりました。警察官に行く先を伝えるため車外に降りた隊員、事故の現場には交通捜査の警察官が到着しており、Tさんから事情聴取を実施していました。
隊員「病院が決まりましたよ、○病院に向かいます」
警察官「○病院ですね、了解です」
隊員「Eさんに診察後の対応などの説明をしないで大丈夫ですか?」
警察官「ええ、先ほど警察署の連絡先なども渡してあります」
隊員「了解です、では救急隊は出発します」
警察官「お願いします」
Tさん「はぁぁ…大変なことになっちゃった…1時間目どころか午前中いっぱいかかりますよね?」
警察官「そうだね、自転車とはいえこれは人身事故だからね」
Tさん「困ったなぁ~」
Tさんは大学の授業を心配していました。確かに命に関わる可能性は少ないでしょう。ただ…
病院到着
Eさんは病院に着くとすぐにレントゲン室に入りました。私たちも操作室から検査の様子を伺います。
レントゲン技師「ああ…やっぱり折れていますよ」
隊長「やっぱりね」
隊員「あの子、大変ですね…」
隊長「ああ、そうだな」
高齢者の怪我ではよくある大腿骨の骨折、救急隊が扱う高齢者の怪我では最も多い事案かもしれません。高齢者の場合は治りが遅く、手術をしてからもリハビリを要します。元通り歩けるようにならないことも多いようで、大腿骨骨折を機に元気に歩いていた方が車椅子生活になってしまったなんてよく聞く話です。
また、中には長い入院生活の長期臥床により認知症を発症したり、合併症を併発して命を落とす方もいるようです。直接の原因は合併症でも、その引き金となるのは「尻餅をついただけ」であったりするするのです。
「左大腿骨頸部骨折 中等症」
帰署途上
機関員「あの女子大生、事の重大さが分かってなかっただろ?」
隊員「Eさんの心配よりも授業の心配をしていましたよ」
機関員「車内収容した後、事故の状況を聞きに行ったら、おばあちゃん大げさ、なんでちょっと尻餅をついただけで救急車なの?って、まるで当たり屋にでもあったようにボヤいていたよ」
隊長「Eさんはあの年だからな…このまま歩けなくなっちゃうかもしれないよな?」
隊員「車椅子生活や寝たきりになったら賠償だって相当ですよね?」
機関員「ああ、数百万円か、下手すりゃうん千万円だぜ」
隊長「家族からしたら元気だったおばあちゃんを返せって、そうなるよな?尻餅をついただけが実は重大、そんな人が町にはたくさんいるってことだ」
隊員「この仕事をしていなかったら、そんなこと考えもしてないです…」
自動車は自賠責保険があり、さらに任意保険にまで加入して運転している方がほとんどでしょう。それは誰もが事故を起こせば誰かを死傷させる可能性がある事をよく知っているからです。だから、みんなが万が一に備えている。
一方であまり認識されていないのが自転車だって死亡事故までも起こりうる高エネルギーを生み出すということ。小さなエネルギーでも重篤な状態になってしまう人がいるということです。知らなければ備えることはできない。
高齢者の大腿骨頸部骨折は本当によく出会う事案です。少し調べてみると、確かに数千万円の賠償金が発生した自転車事故の判例はいくつもあるのでした。(参考・自転車事故による高額賠償判例)
自転車保険、特約で自転車事故も保証するもの、クレジットカードの特典で保証されるものなど、自転車事故の備えに使えるものはたくさんありました。入学の際、生徒全員が自転車事故までも補償されている保険に加入することになっている学校などもあるようです。
今回の女子大生が自転車事故にも補償が及ぶ保険に加入していたかどうかは分かりませんが、入っていなかったらとても学生には払いきれない大きな賠償責任を負うことになるのでしょう。…というか、うん千万円なんてほとんどの社会人でもとても無理です…。
この記事をご覧のみなさんが、こんな事案もあるのだと知ってもらえるだけでもきっと意味はあるはず、知っていれば予防ができる、備えることができる。でも一番は、そんな事態に陥らないよう安全運転に努めることだと思います。
119番通報する前に1秒だけ考えてほしい、 大切な人がすぐ近くで倒れていないだろうか?今、本当に救急車が必要だろうか?と。
すべては救命のために
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